まだ七歳にしかならない光童丸(実悟)を加賀国の事実上の支配者蓮悟のもとに養子に送り込んで、蓮如はどうしようとしたのでしょうか。結果を見届けないで過程の部分だけで判断してしまうと、蓮如のしたことは愚かというほかないわけですが、結果はどうでしょうか。
秦野裁判長がいきなり大声をあげました。
「わかったぞ。蓮如は光童丸(実悟)を蓮悟の養子にした翌年になくなっているんだろう?」
「はい」
「蓮如の臨終ともなれば子どもはみな枕もとに集まるわけだ。蓮悟も来たんだろ」
「参列しています」
「光童丸は?」
「さあ」
「参列していないはずだよ」
「どうしてですか」
「人質だからだよ。それなら、わかるだろ」
「えっ、人質?」
長井検事が目の玉をひんむいて首を突き出しました。秦野裁判長は得意になってつづけます。
「蓮悟が蓮如に人質を要求したんだよ。対立する実如の待ち受ける山科本願寺に単身で乗り込むわけだから生命の保証が必要になる。つまり、蓮悟の都合から出たことで、蓮如の考えから出たわけではないんだ」
「あーっ」
長井検事が盛大に驚きの声をあげました。
「光童丸が人質の可能性が高いわけですが、仮に光童丸でなかったとしても人質なしに蓮悟が山科本願寺に行くはずがない、なるほど、そういうことでしたか。まったく気づきませんでした。恐れ入りました」
こういうときに役立つのが「結果が目的の法則」です。犯罪捜査でいうところの殺害はそれ自体が目的か、あるいは過失か、という問題になりますが、この点に関しては判断材料の多い日本史のほうが断然有利です。これまでの日本史の考証はそれすらも怠ってきました。
踏まえるべき事実としての結果の一つに空誓の本證寺住職就任を挙げることができます。そこからいろんなことが紡ぎだされてきます。空誓が何者かは当座、実悟の兄の孫と説明するだけにして、先に材料を揃えます。空誓の本證寺住職就任は永禄五(1562)年のことでした。直前に本證寺住職が加賀国に出張して一向一揆に参加、越前で戦死を遂げたのを受けてのことです。
秦野裁判長が驚いて唐突にいいました。
「加賀、越前と三河は、そこでつながるのかよ」
「そういうことです。が、驚くのはまだ早いですよ。三河国本證寺住職がなぜ越前まで出かけて戦死したのか、という疑問がキーポイントになります。さらにはそれまでの間、どうして本證寺に蓮如の血筋が入らなかったのか、という疑問も重要になります。光童丸の加賀若松本泉寺への養子入りから六十五年間も蓮如の血筋の住職が入っていないのですからね。光童丸が本證寺住職の座を約束されていたと考えたくもなろうではありませんか。そういう意味でも人質説は説得力を持ちます。蓮悟が人質にしたまま手放さなかったため光童丸改め実悟は三河国へ行きたくても行けなかったのです。だから、本證寺住職の玄海がしびれを切らして加賀国へ出張した……」
長井検事はそう前置きして次のように論述しました。
隆昌一途の本證寺にのみなぜか一家衆の住職が不在の不思議
一向宗初代法主蓮如の十男実悟がいかなる人物であったかというと、まず一向宗の地盤は本願寺のある山崎、近江、そして河内、摂津の上方圏、吉崎御坊から広がった越前、加賀、能登などの北陸圏、そして土呂御坊以下、三河三ヵ寺が支配する西三河、尾張圏の三つである。このうち越前、加賀、能登などの北陸圏の一向一揆については前回述べた通りである。
山崎、近江は法主実如と実弟の蓮淳が支配し、石山御坊には蓮如第五夫人蓮能と長男実賢が存在した。
では、土呂御坊以下、三河三ヵ寺が支配する西三河、尾張圏の一向宗はどうであったかというと、土呂御坊には第九代法主実如の四男実円がおり、三ヵ寺のうち針崎勝鬘寺には蓮如の甥が住職の娘と結婚して入り、生まれた了顕が後継、その次男勝祐が蓮如の三河布教の片腕如光が住職だった佐々木上宮寺に入って跡を継ぎ、後に今川義元の娘を妻に迎えて信祐を産むといった具合に、蓮如の遺言四十一ヵ条のうち三十条「他人の養子を家に入れるのは一家の恥」を忠実に守り通していた。光童丸が蓮悟の養子に迎えられたのは、土呂御坊に実円、上宮寺には「家守」と呼ばれる如光未亡人、勝鬘寺には蓮如の甥がいて、了顕が生まれるのはもう少し後のことだろう。しかし、なぜか本證寺だけは源正が住職を務め、次に玄海と続いて蓮如の血筋と異なる住職ばかりであった。蓮如存命中だけに三河一向宗布教の功労者如光の未亡人の扱いは別格として、蓮如の子のみが布教の主要拠点たる寺の住職を独占する教団で、その血筋の名が本證寺に限って歴代住職中にないというのは不可解であり、理由なしにはあり得ないことである。三河三ヵ寺に数えられる大寺院としては非常に肩身が狭いという見方のほかに、本願寺として許されない失態という評価が求められるとまでいわざるを得ない。
しかも、本證寺の寺内町には三河木綿の問屋が軒を連ねており、矢作川の岸には木戸と呼ばれる湊、周辺は全国有数の綿花の作付け地帯であった。木綿が欲しくて上方から問屋・商人が本證寺の寺内町にやってきていたのだから、経済的には土呂御坊や他の二ヵ寺を凌駕していた。
実悟の不遇の38年、潜伏15年、本證寺住職一家衆不在70年間
長井検事が論述を中断して意見を挟みました。
「以上のシチュエージョンから考えられることは、本證寺に入るべき養子は決まっているわけですが、入るに入れない、教団としては送り込みたくてもできない事情、すなわち、光童丸は蓮悟の人質だった、と、考えると、理由がはっきりするのです。人質説は実に画期的です」
今にして思えば……。
長井検事の顔には感慨深い思いが色濃く表れていました。
「蓮悟に人質に取られてからの光童丸こと実悟の人生は不遇の38年と蓮悟のとばっちりで能登国に潜伏を余儀なくされた15年間に分けることができます。一方、本證寺の住職玄海が越前国で戦死して蓮如の曾孫空誓が跡を継ぐ永禄6年を起点として数えると、光童丸が蓮悟の養子となるかたちで人質に取られた明応7年まで70年間も一家衆の本證寺住職就任が見送られていることがわかります。ですから、光童丸の人質説はその背景として《光童丸が本證寺の住職になることが決まっていた》と考えないと、辻褄がうまく合わないのです」
「俺は何の考えもなしに当てずっぽうに人質といったわけだが、なるほどなあ、状況証拠は揃っているわけだ」
「証拠は証拠を呼ぶといわれますが、では、なぜ実悟が入るはずの本證寺に空誓が入ったか、という疑問を次に解くことにしましょう。最初に念を押しますと、光童丸が蓮悟の養子(人質)になったとき、空誓はまだ生まれておりませんから、結果が目的の法則は当て嵌まりません。そのことをしっかり認識しておいていただきます」
そういって、長井検事は論述を再開しました。
《時系列では過去に遡ってのことになるので、これまで述べたことよりかなり前のことになるわけだが、空誓の祖母はすなわち実悟(光童丸)の母蓮能である。蓮能は能登国羽咋郡を支配した畠山政栄の双子の子のうちの姉で、もう一人は弟、すなわち能登国西谷内城主の畠山家俊である。のちに大小一揆のとき越前一乗谷の猛将朝倉宗滴(教景)とともに小一揆側に加勢して、戦死を遂げている。蓮能はといえば四番目の妻に先立たれた蓮如に五番目の妻として迎えられ、実賢(蓮如九男)、実悟(同十男)、実順(同十一男)、実孝(同十二男)、実従(同十三男)という五人もの男子をもうけた。
永正三(一五〇六)年のこと、時の管嶺細川政元の要請を受けて教団の法主実如とその後見蓮淳が河内国の領主であると同時に蓮能の身内でもある畠山義英討伐を容認したため、摂津・河内の門徒が石山御坊に実賢を擁立、法主交代を求めて「河内錯乱」と呼ばれる騒動を起こした。そのとき十七歳だった実賢は蓮淳によって破門され追放された。
この時点でも空誓はまだまだ生まれていない。
当時、実悟は本泉寺の住職蓮悟のもとに養子に入っていた。史料に記録された通りに考えるとそういうことになるのだが、蓮悟が実悟を人質として確保しつづけたという考え方を同時にしておきたい。表面的に見れば現象は同じである。すなわち、実悟は蓮悟の養子として本泉寺の住職を継ぐ身であったため、兄の実賢に連座するのを免れたのだが、やがて蓮悟に実子が生まれてからは疎まれて末寺に追い遣られてしまった。
末寺の所在は現在の石川県白山市鶴来町である。剣村清沢坊願得寺という蓮悟の創建になる田舎寺であった。加賀白山登拝路加賀禅定道の登山口で、手取川と尾添川が逆八の字になって合わさり、手取川扇状地となって再び八の字に広がっていく漏斗のすぼまった口に当たる部分だ。ここまで具体的に書くのには理由がある。
三河一向一揆の首謀者格で、松平家(徳川家)を逐電した本多弥八郎正信がこのあたりに出没することになるのは、一向宗(情報網)との関係を示す重要な手がかり(証拠事実)群の一つである。
それはさておき。
大小一揆が起きたのは実悟が鶴来村の清沢坊願得寺に追放されたときよりずっとのちの享禄四(一五三一)年のことだ。今度は蓮淳と加賀三ヵ寺の争いである。河内錯乱のときは加賀国本泉寺に養子に入っていて連座を免れた実悟だったが、今度は巻き添えを喰ってしまう。空誓の祖父実賢の死はそれに先立つ大永三(一五二三)年で享年三十三歳、そのとき実悟は三十一。空誓はいくつだったか不明だが、実賢の孫というからには幼なかったに違いない。実賢の死を看取ったときはまだ教団から訴追を受けていなかった実悟ではあるが、本泉寺住職を継ぐ望みはなくなりかけていたから、だれか別の係累を探して蓮能系住職の復活・再興を本気で考え始めた頃である。このとき、なぜ自分が本證寺に入らなかったのかというと、やはり蓮悟には実悟を人質として利用する腹があったためと思う。ただし、蓮悟が実悟を人質に取る相手方は朝倉宗滴(教景)や畠山家俊らであった。すなわち実悟の母は蓮能であるから人質の効果は抜群である。朝倉宗滴は蓮悟が結集した三十万の一向一揆勢を九頭竜川の戦いで一夜にして全滅させた勇将である。九頭竜川で再起不能の大打撃を加賀一向一揆に与えた朝倉宗滴が、またしても蓮悟らが本願寺実如・実淳を相手に起こした大小一揆と呼ばれるいくさのとき、清沢坊願得寺にいてあわや火に包まれようかという実悟を家俊とともに救出にきて、伯父のほうの家俊が戦死した事実に照らすと、人質の効果はそれほど絶大だったわけである。
朝倉宗滴は蓮悟の長年の敵であったわけだが、朝倉本家が足利幕府管領細川政元と反目し合っていたこともあり、なおかつ能登国の畠山氏が加賀一向一揆保護に方針を転換していたため、実悟を助けたついでに蓮悟をも救出して、養父と養子が能登国に潜伏するのに協力している。
このときの小一揆側の犠牲は哀れを極め、蓮如を親に持ちながら母親を異にした兄弟のうち蓮綱(蓮如の三男)、蓮誓(蓮如の四男)、蓮悟(蓮如の七男)、実悟(蓮如の十男)らが破門と追放に処された。加賀三ヵ寺のうち松岡寺の蓮綱は子の蓮慶、孫の実慶と一緒に捕えられ、幽閉されて病死、蓮慶・実慶父子は逃亡して再びつかまり、自害したとも処刑されたともいわれている。光教寺の蓮誓は子の顕誓とともに破門、追放されたが、顕誓はのちになって許されている。実悟は破門されて訴追を受けた本泉寺の蓮悟に連座して、一緒に能登国に潜伏した。
実悟の本證寺入りは、これで絶望的になった。わが子も同罪だから、早い段階で破門を解かれていた実賢の孫空誓、あるいは実弟の実順、実孝、実従らを代わりに入れるほかなくなった。しかし、実弟たちはすでに大和国の有力寺院の住職に収まっており、立てるとしたら、ようやくにしてこの世に生を受けた幼い空誓しか選択肢がなかった。
実悟が本證寺に入るときがくるとしたら、そのときは蓮淳が死ぬときである。それほどに小一揆関係者に対する蓮淳の訴追は執拗だった。だが、蓮淳の死は天文十九(一五五〇)年九月二十八日である。本證寺の住職玄海の戦死は永禄五(一五六三)年であり、空誓が後継するまで十三年もの間がある。実悟が晴れて自由の身となってから風聞や又聞きで本證寺を知り、接近を図ったとすると、玄海が加賀一向一揆に参戦して戦死するほどのつながりに説明がつかなくなってしまう。何のつながりもなく西三河の一向宗大寺院本證寺の住職ともあろう玄海が加賀国に遠征して戦死するいわれはない。加賀国といえば実悟、しかも破門が解かれたとなれば、自分はもとより空誓のためにもおとなしくしていたほうがためになるはず。だから、実悟と空誓と玄海の接点は蓮淳がまだ健在で、必死に活路を見出そうとして情報網を駆使していたときでなければならない》
秦野裁判長がうなりました。
「うーん、凄いドラマだな。実悟の不遇の38年、潜伏15年、本證寺住職一家衆不在70年間がぴったり重なるじゃないか。問題は情報網だな。状況証拠しかないんだろ。よほど状況証拠を積み重ねないと方程式Xの解を見つけられないのではないかね」
「すべての証拠が揃わなければ仮説を立ててはいけないというのがホームズの持論です。もちろん、三十年間、探し続けました。証拠というのはどこにあるかわかりませんからね。それこそ、とんでもないところに証拠が転がっていることがありますから、三十年なんてあっという間です。ぽんと簡単に投げ出す証拠でも、探すのには大変な試行錯誤があったわけです。ましてや、これから述べるようなことは、平板な解釈でお茶を濁してきた既存の日本史では及びもつかないことばかりです。それを彼らは笑うわけです」
「百姓に天下を取らせようとした蓮悟の野望は砕け散った。結果が目的の法則からすると、今度は成功事例でなければいかん。本能寺事件にいよいよ言及するわけだな」
「もうちょっと待ってください。証拠群は膨大で実に広範囲にわたっておりますから、次回は『太田道灌の教訓』について説明させていただきます。そのうえで、『天下取るおっかさん・木下仲』について述べ、さらにそのうえで本能寺事件という構成でいきたいと思います」
「よっしゃ。それでいこう」
秦野裁判長はますます大乗り気になりました。
