シャーロック・ホームズの名が出たことで、秦野裁判長は一際感慨深げに述懐しました。
「三権分立の一翼を担う警察の捜査方法が一変したのだからな。権力を動かしたんだよ。もちろん、心ある警察官がいたということなんだろうが、日本史はどうなんだ」
「日本史は権力ではなくて宗教的ですから、かなり厄介です。せめても権力でさえ明治維新後に変革したのだから、あるいは日本史も……その程度に心の扉を開いてくれたら、少しは反響があるのでしょうが、まったく波立たず、です」
長井検事が自嘲気味に応じました。
「日本人の魂の問題だからな。それじゃ困るんだな。疑義を突きつけられたわけだから、おのれ、この、許さん、ぐらいに王者の気風で反撃してもらわなくては……まあ、それは、無理か。無視が一番と決め込んでいるのだろうな」
「そういうことです」
「それなら、歴史法廷のこちらのほうが王者の気風で、おのれ、この、許さん、でいくとしよう」
いよいよ関ヶ原公判廷の開廷です。
事前に「結果が目的の法則」という推理法について説明しておきたいと思います。わがモットー「事実の語る言葉によく耳を傾け、現実に教わり、学べ」を基本にして日本史を眺めると、実に多くのことがわかってきます。
「戦国時代にあって百姓が天下を取れるか」
いきなりこのような質問を受けたら大概の人は面くらい、大笑いして否定するのではないかと思います。このような早とちりをなくすために私がわがモットーを駆使して発見したのが、この「結果が目的の法則」なのです。どういうことかといいますと、年表に載るほどの出来事は成功例が多く、なおかつ年表に記録されるほどの成功事例ともなると、偶然の結果というのは極めて例外的で、ほとんどが目的意識を持って成功に導いたものです。だから、演繹的推理の起点を探すうえで「結果が目的の法則」というパターン物差しが有効になってきます。
まず既存の解釈上でも確定した実例を挙げておきます。
「一向一揆が加賀国を百年近く支配した」
いわゆる「加賀国は百姓の持ちたる国」だった事実。まず、この事実から長井検事に論述してもらうことにしましょう。
北陸から吉崎御坊に群参する門徒数は年間延べにして数千万
北条早雲が伊豆の堀越公方を攻めてから関ヶ原合戦までを戦国の世といわれるのは、だれかがどこかを攻めたとしてもそれを討伐する大きな力が存在しないために、好きなときに好きなように他国や他の勢力と争うことが許された現実からきている。力の強い者が弱い者を負かして欲しいものを手に入れる、奪われたら取り戻せばよいではないかという、これでは乱世、いわゆる弱肉強食が唯一絶対の規範の世の中にほかならない。
このような世の中をいつまでも放置しておいてよいわけがない、と思う人は多かったことと思われる。しからば、世の中の望ましいありようとはどのようなものなのだろうか。宗派と宗派、大名対大名、宗派と大名が入り乱れて戦う現実を改めなければならないことはだれにでも分かるのだが、どのようにして、いかような世の中にすればよいのかという段になると、だれも何もいえなくなってしまう。世の中は渾沌を極め、目の前の戦いを勝ち抜いて生きるのに精一杯で、それどころではないということなのだろう。しかし、それでは泥沼がつづくばかりで、いつまで待っても空は闇のままでいて明けることはない。
こうした戦乱の世の中が親子二代つづいた結果、いくさに駆り出された百姓たちが勝ち方を覚え、本気で天下を治めようと考える者さえ現われてきた。しかし、名もなく、貧しく、何の力も持たない百姓たちだったから、普通なら思うだけで諦めてしまうのだが、本願寺八世蓮如兼寿が越前国吉崎山に吉崎御坊を開山してからようすが変わってきた。南無阿弥陀仏と六字名号を唱えれば武士や百姓、町人の区別なく極楽に行けるという一向宗の教えを蓮如が説いてまわったために、政情の定まらない加賀国の地侍と百姓の世直し思想に火がついた。彼らは感動し、感激し、共に夢を語らい、吉崎御坊を聖地として群参し、蜂起の炎は燃え盛る一方であった。一年のうち半年は雪に閉ざされる北陸から群参する門徒数は年間延べにして数千万に達したといい、吉崎御坊には彼らを宿泊させる多屋と呼ばれる宿坊が二百も軒を連ねるまでに立ち至った。蓮如の吉崎御坊開山から退去までわずか四年余、自然発生的ともいうべき怒涛の勢いは百姓が世の中を治めようと思うまでになった時代の流れに主な原因があったのは明らかであろう。
ところで。
蓮如が吉崎御坊を開山したのは文明三(一四七一)年六月のことであるが、守護大名の富樫政親と弟の幸千代が加賀国を二分して争い、治安も悪く、いつどこでいくさが始まるか分からない日常が長くつづいていた。そうした日々に嫌気した地侍と百姓が結託して世直しに立ち上がろうとしているところへ、蓮如が武士も百姓も「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、身分に関係なく死後はだれでも等しく幸せになれると説いて、わずか四年の間に多屋と呼ばれる宿坊が建ち、千万単位の群参が押し寄せるほど信者を集めた。ごく短期間の教団組織の膨張は、当然、白山平泉寺や永平寺など他宗からの帰依者を多く出すことになるわけで、統治する守護大名の朝倉孝景としては徒党集団の群参は歓迎するところではなくなってくる。比叡山延暦寺からいじめ抜かれてきた経験を持つ蓮如はこうした動きを憂慮し、吉崎御坊への群参を制止、従わないとわかると京へ去って遺憾の意を示した。
蓮如がいてこその群参であるから多屋衆は代表を京へ遣わし帰山を願い、蓮如もまた責任を感じていたところだったから、請われるまま吉崎御坊へ戻ってはみたものの、北陸の門徒衆は群参をやめるどころか、加賀国守護大名の地位を争う富樫政親・幸千代兄弟の内紛に介入する動きまで見せた。蓮如のコントロールが利かなくなった事実が、名は一向一揆でも、現実には百姓一揆であったことを物語る。このため、文明六年、蓮如は再び去って吉崎御坊へは二度と戻らなかった。
蓮如の次男蓮乗は二十八歳で大叔父如乗の娘を妻にして本泉寺の跡を継いで北陸の門徒衆を指揮する立場になっていたため、門徒衆と父親の板挟みになった恰好で、結局、門徒衆に押し切られるかたちで加賀国北半地の守護大名富樫幸千代と争う南半地守護の富樫政親に味方して武力を行使、越前の朝倉孝景と連携する政親を勝たせた。加賀国の本願寺門徒が一向一揆と称して武力を行使し最初に挙げた戦果がこれであった。
蓮如は蓮乗を激しく叱責し、一向一揆の広がりを食い止めさせようとした。が、しかし、病気がちの蓮乗には燎原の火と化した現実を如何ともすることができなかった。事態を憂慮した蓮如は七男の蓮悟を蓮乗の養子に入れ、蓮乗の娘を妻に持たせて軍事集団と化した北陸門徒衆を鎮静化させようと図った。
文明十五(一四八三)年のこと、蓮如は嫡男順如を名代として本泉寺に派遣し、蓮悟を得度させて加賀一向一揆の武装解除を命じた。だが、滝の落ち口に向かって奔騰する北陸門徒衆の勢いはとまらなかった。若い蓮悟は木乃伊取りが木乃伊になった恰好で、むしろ、一向一揆の爆発的な勢いを利用して天下統一を成し遂げようと本気で考えるようになっていった。
「いくさをなくすためには、いくさをして勝つのが近道である」
蓮悟はこのように豪語して「いくさをなくすための戦い」に率先して邁進した。
文明十六(一四八四)年になると、加賀一国の守護大名となった富樫政親の支配力は逆に弱まり、完全に形骸化して、越中国二上荘から京へ送られる年貢が加賀領内を通る際、一向宗の加賀門徒衆によって「国質」(債権者の私的差押)の名目により途中で差し押さえられる騒動が勃発、これを機に「国質」が頻発する事態となり、翌十七年には遂に室町幕府が越前国の本覚寺、加賀国の松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟に守護の権限であるべき荘園押領の停止沙汰の遵行、年貢の収納請負を命じるまでになった。このとき蓮悟はわずか十七歳であったが、「いくさをなくすための戦い」の原資を得て、天下統一こそわが使命と信じて疑わなくなった。
蓮悟は本泉寺を山の中の二俣から平野の若松荘に移し、城郭寺院の構えを完成させて、きたるべきときに備えた。果たして蓮悟の野心の炎に油を注ぐように、文明十八年、室町幕府第九代将軍足利義尚が近江国の六角高頼を征伐するに際して、加賀国の守護大名富樫政親が幕府軍に加勢すべく国を留守にした。
さらに付け加えるならば、この年七月二十六日こと、相模国では天下を取れる器量人であり、天下を治める文武両道の器の将太田道灌を主君上杉定正が殺害し、東国の戦乱をますます助長し、伊豆にいる北条早雲の小田原城奪取を誘う動きがみられたばかりであった。道灌が始めた足軽戦法こそ百姓が足軽として武人化する引き金であり、一向一揆発生の土台なのだから、「当方滅亡」と叫んだその最期の姿が伝わると、「やらなければやられる、道灌のごとし」という下剋上を正当化する考えが広まった。
道灌の死に先立つことわずか六日の七月二十日、長享元年と改元されると、蓮悟は密かに加賀一向一揆に檄を飛ばし、政親の大叔父泰高を擁立して各地で一斉に蜂起させた。
長享二(一四八八)年五月、驚いて帰国してきた富樫政親は高尾城に入って一向一揆の鎮圧に努めたものの失敗して自害。能登国守護畠山義統が応援に駆けつけたものの間に合わずに撤退するほど迅速な決着だった。以後、一向一揆衆のまとめ役となった蓮悟が松岡寺蓮綱と協力して泰高を傀儡の守護大名に祭り上げ、二人で加賀国を実効支配し、蓮悟が理想に掲げた「百姓が持ちたる国」を実現させた。若くて有能な蓮悟は血気に任せて能登国の守護畠山義統と対決する姿勢を鮮明にし、越前へも食指をのばそうとした。
将軍足利義尚としても放置できない事態である。本願寺討伐令を下して一向宗を根もとから枯らしてしまおうと考えたとき、管領細川政元に阻止されて撤回する事態が起きた。蓮如の退隠を受けて法主となったばかりの実如は本願寺を救ってくれた細川政元に強く恩義を感じて接近を図っていく。
そうした中央の動きに疎い蓮悟は吉崎御坊と本覚寺が布教区とする越前への進出から手をつけ始めて、明からさまに法主派を挑発しにかかった。これまで矢面に立ててきた能登国守護畠山義統との対立を脇に押しやってのことだったから、口にこそ出さないが蓮如が第九世法主に実如を就けたことへの反発から出たことなのは明らかだった。
蓮悟は蓮如の叱責や実如の一揆禁止令などどこ吹く風という感じで越前への侵攻の準備に余念がなかった。それを脇から元朝倉家家臣河合藤左衛門宣久が入れ知恵をして焚きつける。
「越前はかつて甲斐氏の地盤でした。甲斐氏を抱きこめば越前入りの名分が立ちましょう。すでにそれがしとの間で話し合いがついております」
若い蓮悟は使命感で高揚しているから、ちょっと焚きつけられただけで簡単に火がついてしまう。
しかしながら、朝倉家にはのちに入道して宗滴を名乗る教景といういくさ巧者がいた。かつて朝倉氏に追われて越前を去った甲斐氏を立てた加賀一向一揆はまったく歯が立たない状態で呆気なく撃退されてしまい、その後も朝倉家の謀反騒ぎに介入して攻め込むのだが、二十歳になったばかりの教景に返り討ちになるばかりだった。
加賀一向一揆を取り締まるべき室町幕府はどのようであったかというと、将軍義尚が六角高頼の討伐に手こずり鈎(まがり)に出陣中のまま酒色に溺れて病没、第十代将軍に足利義材が就任したかと思えば河内国に出陣した隙に伊豆堀越公方足利政知の子の義澄を奉じた管領細川政元に政権を奪われて越中国に亡命、将軍に宣下されるべき義澄は天皇が認めず、まさに「だれかがどこかを攻めたとしてもそれを討伐する大きな力が存在しない」状況になっていた。それというのも政権を奪った政元が思いもよらぬ奇人で、独身主義を貫いてちょっとでも目を離そうものなら修験者になってどこかへ出かけてしまうといった体たらく。これでは世の中の行く末は渾沌とするばかりで、どうなるか予測がつかない。
時は流れて越前国の守護大名を継いだ孝景の子の貞景は亡命将軍義材に加担したため必然のなりゆきとして管領細川政元と敵対関係になった。前将軍足利義尚の本願寺討伐を阻止した政元に恩義を感じる実如としては、蓮悟の一連の越前侵攻を見て見ぬふりをして済ませたいところであったが、一向一揆のこれ以上の広がりに懸念を抱いた政元が河合藤左衛門宣久の粛清に動くのを黙認するほかなかった。それとなく背中を押してみたり、そうかと思えば足を引っ張るといった具合で、教団分裂の危機に関する実如の対処方針は一向に定まらない。
加賀国を取り巻く形勢が一触即発の不穏な空気に包まれる一方、幕府内部の政変に連動して一向宗の教団内部も法主実如をトップに仰ぐ山科本願寺派と加賀一向一揆蓮悟派の対立が深まり、そうした事態を憂慮する蓮如と五人目の妻蓮能ら石山御坊派の三つ巴の構図に分裂して、明応七(一四九八)年春を迎えたのであった。
長井検事が論述を中断して水で喉を湿らすと、その合間に誘われるようにして秦野裁判長が驚きの声をあげました。
「驚いたな。戦国時代に百姓が大名を傀儡にして加賀国を乗っ取ったなんて、ほんとなのかよ」
「もちろん、本当ですとも。明応七(一四九八)年春というのは、蓮如が亡くなる一年前なんですね。このとき、驚くべき決断が実行に移されたのです」
「まだ、あるのかよ」
「またしても蓮如は、五人目の妻蓮能がおなかを痛めた十男の実悟を蓮悟の養子に入れたのです。実悟は得度してからの法名で、当時は光童丸といい、まだ七歳でした」
「関ヶ原合戦の起点は桶狭間なんだろ。それが何で加賀国の一向一揆に逸れるんだよ」
「信長や家康、秀長や秀吉はまだ生まれていないときです。ホームズ前とホームズ後のパターン比較として蓮如前と蓮如後というパターンで一向宗を因数分解すると、「情報ネットワーク」というキーワードが突出して重要性を持ってくるのです。羽柴家の人間(仲、秀長、秀吉)と家康の隠密本多正信はかなりの精度で本能寺事件を予測していました。当座の目的地として、蓮如が構築した情報ネットワークの持ち主に到達しないことには、桶狭間も、本能寺も、核心に触れることはできないわけですから」
「そういうことならば、我慢して付き合おう。早速だが、蓮如は兄弟の如乗の養子に次男の蓮乗を入れた。今度は七男の蓮悟を次男の蓮乗の養子にしたといったな。なのにまた、七男のところへ十男を養子に入れたわけだ。七男はいくつだっけ?……三十一か。わずか七つの男の子を敵性の強い七男の養子になんか入れて、どうしようというんだろうな。万一、蓮悟に子ができたら、ひと悶着起きないでは収まらないぞ。自分が八十五で父親になりながら三十一の息子に子ができないと考えるものかな」
「そこがミステリーなんです。ただし、蓮如が実悟を蓮悟の養子にして、その翌年に他界したのは厳然たる事実です。だから、ミステリーはミステリーとして脇へ置いておいて、実悟がどのような運命をたどるか、書き抜いてみようと思うわけです」
「ははん。何か魂胆がありそうだな」
「魂胆ではありませんが、実悟を追いかけないと桶狭間ないしは三河本證寺や本多弥八郎正信らにつながらないのです。加えて、日本史はドラマの宝庫ということも強調したいわけです。魂胆といえば魂胆になるかもしれませんが、日本史からドラマを掘り起こす方法をマスターしたら歴史の本を読むことなど馬鹿馬鹿しくなりますよ。歴史は読書の分野ではなく発明発見の世界であるべきです。実悟の生涯は、その証拠の一つです。でも、長くなりますから、実悟と本證寺の関係についての考察は次回にまわすことにします」
「期待して待つことにしよう」
千里の道も一歩からといいます。実悟の発掘は本能寺事件の予測にも深く関係することは請け合いです。
