別立てで、小説『古代貨幣史考察』として連載する予定でおりましたが、本講座で簡潔に述べることにしました。いわゆる皇朝十二銭(富本銭を加えて、現在は十三銭)のうちわが国最初の流通貨幣といわれる和同開珎に関する教科書定説が本当か間違いかという審理になるわけですが、日本史法廷で取り上げるからには、当然、人によって見解が分かれるわけです。
一つが、今、述べた教科書定説で、我が国最初の流通貨幣は和同開珎銭で、すなわち銀銭、銅銭とも和銅元(七〇八)年に初めて鋳造されたとする意見。
もう一つが、いわゆる古和同説と呼ばれる意見で、根拠を次の記録文に置いています。すなわち、『日本書紀』天武十二年(文部省年表では天武十一年・六八三年)四月条に銀と銀銭・銅銭に関する二つの記述です。
「詔して曰く、今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ」
「詔して曰く、銀を用いること止むることなかれ」
これが和同開珎銭について記述した最初の記録と考えるのが妥当であり、初鋳は和銅元年より二十五年前になる、という意見です。
二つ目の意見を主張する長井健史検察官の陳述は次の通りです。
開通元宝銭が渡来したのはいつのことか
明治十七年に発掘されたとき興福寺金堂の土壇から数多く出土した鎮壇具の中に開通元宝銭一枚と和同開珎銭一三四枚が含まれていた。興福寺金堂の建立は神亀元(七二四)年七月、開通元宝は中国唐の銅銭で、和同開珎はこれをモデルにしたといわれる。唐で開通元宝銭が発行されたのは、わが国の推古朝二十九(六二一)年、聖徳太子が死ぬ前年のことだ。
開通元宝銭の初鋳から日本に渡来して興福寺金堂の土壇に埋められるまで百三年の歳月が経過している。開通元宝銭はいつ日本に渡来したのか。聖徳太子は中国の銅銭に接しなかったのだろうか。
聖徳太子が亡くなる四年前の推古朝二十六(六一八)年に、中国では唐が隋を滅ぼして統治を開始した。それまで、聖徳太子が遣隋使を派遣したのは小野妹子の第一次、第二次すなわち推古朝十五(六〇七)年、同十六(六〇八)年、そして犬上田鍬の第三次、つまり推古朝二十二(六一四)年の三度である。だから、聖徳太子が中国の銅銭に接していたとすれば、隋代に使用された五銖銭である。
では、開通元宝銭が渡来したのはいつのことか。和同開珎銭が初鋳されたとされる和銅元(七〇八)年以前であることは確かだ。
日本が第一次遣唐使として犬上田鍬を派遣したのは舒明朝二(六三〇)年のことだ。第一次から数えて二十二年を経た白雉四(六五三)年に第二次、翌五年(六五四年)に第三次と続けざまに遣唐使が派遣された。なぜ、第二次遣唐使の後を追うようにして第三次遣唐使を派遣したのだろうか。それはひとまず置いて、斉明朝五(六五九)年には第四次、天智朝四(六六五)年に第五次、興福寺の前身である山階寺が建立された天智八(六六九)年、第六次の遣唐使が海を渡った事実に目を向けてみよう。
ところで、『日本書紀』天武十二年(文部省年表では天武十一年・六八三年)四月条に銀と銀銭・銅銭に関する二つの記述がある。
「詔して曰く、今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ」
「詔して曰く、銀を用いること止むることなかれ」
銀は用いなければならないが、銀銭を使ってはいけないという。一見、矛盾した記述だが、秤量貨幣の無文銀銭または古和同説の銀銭を「まじない」目的に限って使うよう命じているわけで、古代貨幣が流通銭と厭勝銭という二つの目的を持つことに照らせば少しもおかしくない。(筆者註・古和同説の銀銭が正解なのだが、露木透が秤量貨幣の無文銀銭をここに当て嵌めているのは飛鳥寺工房跡から富本銭が大量に発見されたという発表が公になる直前だからであろう)。それなのに『日本書紀』の詔は養老四(七二〇)年にかけて編纂された段階で修正が加えられているとか、持統朝三(六八九)年の浄御原令や大宝二年の大宝律令を転載したとか、はなはだしいのに至ってはまったくの虚構とする意見まである。どの意見も考え過ぎだろう。
さて、持統朝八(六九四)年三月二日、大宅麻呂が「鋳銭司」に任命されたことを『日本書紀』は述べ、『続日本記』は文武朝三(六九九)年十二月二十日に「鋳銭使」が置かれたと伝える。年代順でいうと貨幣の使用についての詔が先に出て貨幣の鋳造に関する記述が後になっている。いずれも和同銭が初めて鋳造されたといわれている和銅元(七〇八)年以前の出来事で、極めて重大。『日本書紀』天武十二年の記事が正しいとすると、開通元宝銭が唐から渡来したのは少なくとも天智朝八(六六九)年の第六次遣唐使以前になる。なぜかというと、このときまだ日本には銅銭が存在しないことになっているからである。当座はそういうことにしておく。
長井検事はここまで論述してきて、ふと遠くに目を遣りました。
歴史学者は資料にないことには一切触れないし、学生にも同じ姿勢を求めています。古代は遠いむかし、資料、文献にないことは知りようがないのだから触るべきでないというのです。長井検事の恩師は「推理、ロマンを交えて論文を書くなど学生にあるまじき行為だ」と断じさえしました。
長井検事としては資料うんぬんの前に壮大な歴史的事実があったことを思わざるを得ないのです。資料が伝えるのは宇宙の星くず一つほどの事実でしかありません。それさえ信憑性を問題にして学説を戦わせているのが学問の世界なのです。資料第一主義といえば聞こえはよいが、資料に盛り込まれなかった圧倒的多数の歴史的事実を無視した原理原則主義で、頑迷虚妄の極致というほかありません。
資料第一主義だけが厳正な学問的姿勢といえるのだろうか。もちろん、そうした研究努力は貴重です。が、いつまでも考証の創意工夫を拒みつづけたら、学問を停滞させ、決まり切った学説の亜流を乱造して、歴史を無味乾燥にしてしまうでしょう。
以上のようなことを思いながら、長井検事は論述を再開しました。
和銅元年に先立つこと七年前に私鋳銭を禁ずる刑法が定められていた
さて、ところで、『続日本記』和銅四年十月条で、大宝元(七〇一)年の「大宝律令」雑律について触れた次のくだりを紹介する。
「律において、私鋳はなお罪法に軽きがごとし。故にかりに重刑を立て未然に禁断せん。およそ私に銭を鋳する者は斬し、従者は没官し、家口は皆流せ」
ここでいう律は、私鋳の刑を「徒三年」と定めた「大宝律令」雑律私鋳銭条であるといわれる。徒三年では刑が軽すぎるとして和銅四年に以上の重科に改めたもの。大宝元年の時点では、銭貨の私鋳など想定するだけで現実に行われなかったから刑を軽くしたのだと思われるが、注目すべきことは、すでに大宝元年の時点で私鋳銭を禁ずる刑法が定められていたという事実である。
その対象となった貨幣は何だろうか。
対象の一つとして『日本書紀』天武十二年四月条にいう銀銭ということも考えられるが、これと並行して「銀」が流通していたことを併せて考えれば、銀銭を私鋳するメリットは少しもない。銀も銀銭も秤量貨幣だったのだから、鋳造に無駄な費用をかけるだけのことでナンセンスである。となると、対象は開通元宝銭以外には考えられない。当時の鋳造技術の稚拙さを思えば私鋳など想定しがたかったであろうし、それが取りも直さず渡来銭を必要としたことの理由にもなっている。進んだ鋳造技術があれば自前の銅銭を造っているはずである。しかしながら、和同銭に先んじて開通元宝銭がわが国で流通していたという説は寡聞にして知らない。
新和同と古和同という分類を生みだした原因
さて。ここにもう一つの考え方がある。和銅元(七〇八)年以降に鋳造された和同銭を「新和同」、『日本書紀』天武十二年四月条の詔に現れる銀銭、銅銭を「古和同」とする説である。
奈良時代の記録・文書の中には一度として「和同開珎」の語は登場しない。すべて「銀銭」や「銅銭」という普通名詞で表されている。『続日本記』和銅元年の「はじめて」の語が日本において<初>という意味ではなく「元明朝としては初めて」の意味であることなどを勘案すれば、「新和同」、「古和同」という分類もありえないことではない。川原寺に書生を集め初めて一切経を写したという記事と同様に、歴代天皇にとって「その元号では初めてである」と記述するのが『紀記』の癖なのだ。これだと、和同銭を和銅元年の初鋳とする説は覆る。もともと『続日本記』は、和銅元年に鋳造された和同銭をわが国初の貨幣であるとはどこにも記していない。和銅元年初鋳説は、「和同」と「和銅」の語呂を合わせ、『続日本記』の「はじめて」の語に基づいた一つの推理にすぎないのである。
先へ読み進もうとする長井検事を秦野裁判長が制止しました。
「ちょっと待った。そこをあっさり通り過ぎては、『紀記』の癖を発見した偉大な学者がいたという事実が霞んでしまう。わかってしまえば一プラス一は二で至極ごもっともなんだが、おかしいぞと疑問に思ってからが大変なんだな。刑事の足を使った捜査と同じで先入観なしに手探りで「これぞ」と思う証拠事実を探して、探して、探しまわる。そうした汗と苦心の結果として発見された癖なんだ。それを知るのと知らないのとでは理解に天地の差が生じて、知らない相手と議論することはまるで意味をなくしてしまう。それほどの大発見なんだろ」
「そうです。いくら褒めても褒め足りないくらいの大発見です」
「いわゆるプロファイリングなどの用語やノウハウがいわれ始めるずっと前に、すでにプロファイリングの手法が実践されていたというこっちゃ。日本史法廷を開いていると告発されてくるのは学者ばかりでな。既存の説の使いまわしなどといういいかげんなやり方ばかりしているように勘違いしそうになるが、そんなのばかりじゃないということだよ。評価すべき功績は称揚し、怪しげな点は白日の下にさらして、みんなで判断する癖をまずわれわれからつける。こうでなくては公正、公平とはいえんからな」
「わたしも、まったく同感です。書名は忘れましたが、明治維新のことを三流のクーデターと書いたくだりを読んで、びっくりさせられたことがあります。さすがに私も疑ってかかりましたよ。でも、事実を積み重ねるうちに、関ヶ原合戦と幕末史が科学的な方法論の及ばない日本史のもっとも闇の部分、二大暗部とわかったのです」
「だがよ。和銅元年初鋳説はまだぴんぴんしているんだろ」
「平成十二年に富本銭が発見されたろ。和銅元年初鋳説なんか、あれでイチコロ、勝負あったんじゃないのか」
「ところが、ギッチョンチョン。名前は忘れましたが、大阪大学の先生が全国紙に堂々と『これでますます和銅元年初鋳説が強化された』といっているんです。呆れたもんです。イチコロどころか、まるでゾンビですよ」
「ちょっと待ってくれよ。科学的な鑑定で富本銭のほうが和銅銭より古いと断定されたんだろ。一プラス一は二、ではないということか」
「富本銭まで踏み込むと長くなりそうですから、つづきは次回ということで」
「よし。本日は閉廷」
