歴史小説家吉村昭さん、世紀の勘違い


 長井健史検察官は吉村昭さんの記事のつづきを引用しました。
《しかし井伊は、維新後はもとよりかなり長い間悪しき存在とされていた。それは歴史というものが勝者によって形づくられる傾向にあるからで、敗者である幕府側はすべて悪とされ、勝者である朝廷派に属した尊皇攘夷論者は賛美されて、それと鋭く対立した井伊はいまわしい大名とされたのである。
 井伊は先見の明があった政治家で、外国の脅威にさらされた日本を安泰におくために、時代に先駆けて開国を推し進めた人物と解すべきである》
 長井検事が読み終わると、秦野裁判長が質問しました。
「吉村は東京生まれだったろ」
「そうです」
 原告団のひであきらさん、瑞雲院住職、宍戸駒子さんは、それがどう関係するのか、と不思議そうでした。
「『花の武士道』を書いた舟橋聖一は彦根出身なんだよな。船橋が事実に反してでも井伊直弼を美化したのはわかるけれども、東京生まれの吉村が美化している点に日本史考証上の深刻な病巣があるわけだよ。すなわち、井伊直弼云々ではなくて日本人全員の問題だというこっちゃな」
「おっしゃる通りですが、まず、井伊直弼から決着をつけましょう」
長井健史検察官は用意してきた論述書を関係者に配りました。そこには日米通商条約調印時に井伊直弼が取った態度が克明に書かれていました。
          
 開国するのは日本のため、交易するのは国家の繁栄のため
 外国御用取扱専任老中堀田備中守正睦は、「開国するのは日本のため、交易するのは国家の繁栄のため」という信念の持ち主で、かねてより「一藩一開港説」を唱えるほど急進的な開国通商派だったから、輸出用生糸の増産に見通しが立ったからには放っておいてもアメリカ総領事ハリスを相手に通商条約締結の段取りが進んでいくはずである。
こちらをメーン舞台とするなら、問題は外野で騒ぐ将軍継嗣問題の成り行きである。外野の面々はメーン舞台のゲームをそっちのけにして策謀のフィールドを別に京都の朝廷に求め、ますます対立をエスカレートさせていく。
 水戸斉昭はわが子の一橋慶喜をなんとしても将軍に祭り上げたい。それには朝廷を味方につけることだと考えて、京都に続々と有力な家来を送り込んで鋭意入説(にゅうぜい)に努めた。
 井伊直弼もまた京都守護を受け持つ立場を生かしながら腹心の長野義言を派遣して朝廷を説かせた。阿部正弘が亡くなり外交問題も順調に進展をみたからには、最早、大老就任をためらう理由はないのである。唯一の懸念が一橋慶喜を担ぐ水戸斉昭の動静であった。一橋慶喜が将軍継嗣に決まろうものなら松平春嶽の政事総裁就任が実現し、自分が大老に就任するチャンスは雲散霧消してしまう。
 松平春嶽の政事総裁就任を実現させたい越前福井藩士橋本左内も江戸を舞台にして水戸藩への働きかけはもちろんのこと、目付系海防掛岩瀬忠震にしっかり標準を合わせてシンパの形成に動く。岩瀬忠震は松平春嶽を政事総裁に就任させる以外に通商条約締結調印を円滑に進める体制は考えられないと信じている。それには一橋慶喜の将軍継嗣を実現させるほかないのだが、それによって攘夷論で凝り固まった水戸斉昭が勢いづいては困る。しかし、「鎖国状態に戻せるものなら戻してみろ」の気概があったし、井伊直弼の大老就任こそ最悪の選択肢と割り切っていた。松平春嶽を政事総裁に就任させたい橋本左内も思いは同じだった。橋本左内と岩瀬忠震の二人は意気投合して頻繁に会合を持つ。
 安政四年九月十六日、松平慶永ら将軍家定に継嗣のことを言上する。
 松平春嶽は一橋慶喜を西の丸継嗣にするよう掛け合うのだが、これまで逃げの一手できた外交儀礼の場にとうとう出ざるを得なくなっていた将軍家定の心はここにあらず、残念ながら耳には入らなかった。
安政四(一八五七)年十月二十一日、将軍家定、アメリカ総領事ハリスを引見し、ピアース大統領の親書を受け取る。
同年十月二十六日、ハリス、堀田正睦に通商交易の必要を説く。
同年十二月二日、堀田正睦、ハリスに大統領親書に対する返書を与え、交易および公使の江戸駐在を許可する。
同年十一月十九日、水戸藩士堀江芳之助、信田仁十郎、蓮田籐蔵、ハリス暗殺を目的として江戸へ向かう。
同年十一月二十七日、水戸藩士堀江芳之助、信田仁十郎、蓮田籐蔵、ハリスの護衛が厳重なため目的を断念して水戸藩江戸屋敷に自首。幕府、三人の身柄を引き取って伝馬町に投獄。
同年十二月十一日、幕府全権委員海防掛岩瀬忠震、下田奉行井上清直、ハリスと通商条約条文交渉に入る。
同年十二月十三日、幕府、アメリカと通商条約を締結する旨を朝廷に報告。
水戸藩士の暴発は当時の攘夷派の憤激を象徴するもので、これがハリスと交渉する幕府全権委員海防掛岩瀬忠震、下田奉行井上清直に大きな制約を与えた。二人は攘夷派の巣窟と化している京都の開市を拒否するために大きな譲歩を余儀なくされるのだから、日米通商条約を不平等条約にしてしまう責任の一半は攘夷派にもあったといって差し支えないだろう。
 幕府全権委員岩瀬忠震は口さがない幕臣たちが陰で「日本の中のアメリカ人」と呼ぶほど開国通商政策を熱心かつ急進的に進め、江戸に出府したハリスとの条文交渉をほとんど一手に引き受けた。当時の日本人としては異例の国際感覚を発揮して即断即決、結果として直輸出できない不平等条約になってしまうのだが、鎖国日本で国際条約に知識も経験も持たなかった当時の幕府官僚としては上首尾と評価すべきだろう。ハリスは岩瀬忠震の歯切れのよい進め方に最大級の賛辞を呈した。なかでもハリスを驚かせ喜ばせたのは条約批准地をワシントンにすると岩瀬忠震のほうから持ちかけたことであった。アメリカ国民に自分の外交成果をじかに見せつけられるからである。
岩瀬忠震の希望は合法的に渡米する最初の日本人になることだった。密航を企てた吉田松陰は論外として、尊皇攘夷派の泰斗水戸斉昭と腹心藤田東湖でさえアメリカへ行かせて欲しいと正式に幕府に願い出たほど、ペリー来航後、渡航熱は盛んになっていた。ジョン万次郎がもたらしたアメリカの知識がその底流にある。坂本竜馬の主張も、明治の元勲の政策も、すべてジョン万次郎がもたらした知識の焼き直しでしかない。
安政五(一八五八)年一月五日、下田奉行井上清直、通商条約調印を六十日間延期することをハリスと約定する。
同年一月十二日、日米通商条約条文交渉妥結。
条文交渉が妥結をみないうちに調印延期が約定される事態が国内の不穏な空気を物語っている。攘夷派を納得させるには勅許を得るほかない。井伊直弼は国内を強い関心の眼で見ていただけに早くから「勅許を得なければ交渉に入れない」と主張したのである。そういう意味では井伊直弼の主張の正しさが確かめられた恰好になった。ただし、国内だけを虫の目で見ていえること。井伊直弼のように対外問題に関心を持たない立場の人間は「それ見たことか」で通るが、外国御用取扱専任老中として責任ある立場の堀田正睦はそうはいかない。堀田正睦は遅まきながら朝廷工作の必要性を痛感し、条約調印勅許と一橋慶喜将軍継嗣実現をワンセットにして攘夷派の矛先をかわすほかなくなった。
堀田正睦はみずから京都へ足を運んで朝廷に条約調印の勅許を求め、同時に一橋派の要求に沿うよう申し入れる。しかし、朝廷は条約調印の勅許には頑として応じず、京都守護を受け持つ井伊直弼に気兼ねしたためか、なぜか尊王主義を掲げる水戸斉昭の意向に背いて南紀派が望む返事を与えてしまう。
          
最早、幕府のためではなく社稷のために
 政五安年四月二十三日、井伊掃部頭直弼は大老に就任したその足で御用部屋へ乗り込み、京都から帰ったばかりの堀田正睦に命じた。
「急ぎハリスと面談し、条約調印を取り敢えず三ヵ月、延期せよ」
 それから十二日後の五月六日、井伊直弼はだれよりも早く御用部屋に出仕し、海防掛勘定奉行川路聖謨を西丸留守居に、海防掛大目付土岐頼旨を大番頭に左遷すると発表し、海防掛筆頭目付鵜殿長鋭を駿府町奉行に飛ばした。役扶持のうえでは左遷ではなかったが、いずれも平時には無用の閑職であり、幕政に参与することはできない。
 下田に帰って静養していたハリスは、幕閣を襲った政変を聞いて憂慮する。日本へ来て早二年、その間にイギリスやフランスがインドと清国を平定し、北上を企てている。ロシアもまた南下政策を進めつつある。このうえ調印が延期されるようなことになれば、「大砲一発で決着がつくことなのに、早くから日本に来て何をやっていたのか」と後続の諸国に笑われるばかりでなく、ハリスが誇りに思う文官外交が砲艦外交の前にあえなく屈してしまう。
 すでにこれ以上猶予を許さぬ事態が迫っていると本国から警告を受けていたし、六月十五日には下田へ入港したアメリカ艦隊司令官タットナー提督から「英仏連合艦隊が日本へ向かいつつある」とハリスは聞いたばかりであった。
 翌十六日、ロシア艦隊が突如として下田沖に現れた。
 ハリスは遂に下田奉行の制止を振り切ってポーハタン号を江戸湾内に乗り入れて即時調印を迫った。
 岩瀬忠震は井上清直とともに、浜御殿沖から日の丸の旗を掲げた観光丸に乗り込み、相州小柴沖に碇泊するポーハタン号のハリスのもとへ急行した。観光丸は幕府がオランダから払い下げを受けた旧式の帆走式軍艦である。潮風を受けて千切れんばかりにはためく日章旗を見上げながら、岩瀬忠震は唇を噛んだ。
条約の批准地をわざわざワシントンにしたのは何のためだったのか。この観光丸に乗って真っ先に海を渡り、アメリカで先進の文明を肌で感じ、日本の夜明けをみずから演出するためではなかったか。その夢は幻となった。だれかが行くことになるであろうことは確かだが、自分でないこともまた確かなようだ。観光丸のマストに翻る日章旗も、そのときを想定して意匠したものであったが……。
 岩瀬忠震と井上清直の乗り組む観光丸は小一時間ほどで神奈川沖に着いた。幕府全権の二人はポーハタン号に乗り移ってハリスの真意を問いただした。
「許可なく御禁制の湾内へこられたのは、いかなる子細か」
「英仏艦隊が五日のうちに到着する。たとえ英仏艦隊が来ても、米日修好通商条約が調印されていれば、日本は英仏に対し条約条文を楯に取って不利益な条件を拒むことがでる。にもかかわらず、英仏が無理難題を吹っかけるようであれば、アメリカ合衆国は条約同盟国の任務として、仲介の労を惜しまない。しかし、この期に及んでもなお即時調印を拒むと申されるなら、英仏に先んじ、当方としても重大な決断を下さざるを得ない」
 最悪の選択肢に最悪のタイミングが重なったわけである。危機的状況はペリー来航時とは比較にならないほど切迫していた。ここで神奈川条約がイギリス、ロシアに対して防波堤の役割を果たした事実が大きな意味を持ってくる。岩瀬忠震の脳裏には即座に過去の先例が蘇り、内憂に外患が同時に重なったからには躊躇なく「勅許なきまま調印するほかない」と即断するに至った。
「最早、幕府のためではなく社稷のために、いかにも日米条約に調印しましょう。その代わり、英仏両国が理不尽なことを申し立てたるときには、アメリカが間に立って周旋すると一筆したためていただきたい」
 井上清直は驚いた。
「肥後殿、大老のお許しを得ないで……」
「過去の二度にわたる黒船来航とは、比較にならぬ危機が目の前に迫っている。それがしは伊勢守様以来信任されてきた全権大使であって、まだ更迭されたわけではない。信濃殿も腹をくくれ」
 ハリスの頭上で星条旗がはためいていた。
 井上清直はじっと耳を澄まし、黒船以来の幕府の外交史を脳裏に繙いた。
 阿部伊勢守正弘が病のために三十九歳の働き盛りで他界したのは昨年のこと。藤田東湖を失ったために舵取りが利かなくなって攘夷論を強硬に主張し始めた水戸老府公斉昭、開国論を述べながらその実旧幕体制への復古しか念頭にない井伊掃部頭直弼――阿部正弘は二人の間に開国急進派ともいうべき蘭癖阿部備中守正睦を配して、三者の手綱を強めたり弱めたり、微妙に均衡を保ってきた。
 よくよく考えれば、ハリスのいう危機にもっと早く直面してもおかしくなかった。攘夷論を躱し、よく凌いできたと思う。
 だが、もはや国内事情に配慮する猶予の時は失われた。
 今、かつての伊勢守様の立場に、掃部頭が立たされている。が、あの男では伊勢守様の役割は果たせまい。ましてや、掃部頭に幕閣から追い出された川路聖謨は実の兄なのだ。次は自分の番だろうと井上清直は覚悟した。
「それがしも調印に同意する」
 ハリスは念書の作成を快諾し、その場で軽やかに紙の上にペンを這わせた。
          
軽輩者を幕政に参与させるなどもってのほか
 その頃、江戸城内の大老部屋で、井伊直弼と老中が顔を揃えて岩瀬忠震らの帰りを待っていた。重苦しい沈黙のなかでの待機であった。居合わせる三人の老中のうち、すでに二人は井伊直弼から罷免を申し渡されていた。二人のうち堀田正睦は覚悟の上の罷免だが、井伊直弼と腹背の仲にあったもう一人の老中松平忠固は腹の虫が収まらないらしい。堀田正睦一人を罷免したのでは、越前侯松平春嶽を大老に推したことに対する意趣返しと取られかねない。掃部頭はそれを恐れて自分を添え切りにしたのだろう。松平忠固はおのれの罷免を、そのように受け止めていた。老中の御役を失えば、松平忠固は上田藩五万三千石のただの大名だ。小身と侮って一方的に罷免してきた掃部頭のやり方を、松平忠固は深く恨みに思っている。
 ただ一人留任する久世広周は、仁君として人望の厚い人だが、なぜかさわらぬ神に祟りなしと口をつぐみ、あらぬ方を見つめるばかりであった。井伊直弼の粛清人事が、阿部正弘時代の自由闊達な空気から、幕閣の雰囲気を冬の時代に一変させていた。
 一方、井伊直弼は断固たる決意で席に臨んでいた。
 今日まで一旗本に過ぎない海防掛の者どもが身分を顧みずに勝手な発言を繰り返し、あまつさえ、御政道に関与してきた。老中も、大名も、それを追認し決裁するだけ。かかる軽輩者を幕政に参与させるなどもってのほかである。これからは身分の隔てをきちっとして、緩んだ箍を締め直さねば……。
 開国という一大変革期を迎え、かつて阿部正弘が目指したのは、実務的な官僚機構を構築することだったはずである。しかし、今、井伊直弼が脳裏に描いているのは人物本位の実務体制とは程遠い世襲制に基づく旧来の秩序であった。
 それゆえに血筋にまさる紀州侯慶福を将軍継嗣に推しているのであり、そこに世上にいわれるような私心はいささかもない、井伊直弼は心にそういい聞かせてきたし、秩序さえ保てれば国家は安泰だと固く信じて疑わなかった。
 井伊直弼はガラナート弾の威力も知らなかったし、黒船艦隊が浦賀へ来たときも海防の任務より引継ぎの事務を最優先させた人である。進退自在に動く黒船を見ても格別驚かなかった。外国の脅威を、いつも過小評価してきた。
 通商条約の調印だけを当面の目的とするハリスの穏健な文官外交も井伊直弼のそうした感覚を助長してきたといえなくもない。黒船艦隊の後押しもなく大砲一つ持たずにやってきたハリスなどいつでも追い返せる、というのが井伊直弼のいわゆる外交感覚ではなかったか。こうした安直な先入観から、ハリスが軍艦ポーハタン号に乗って小柴沖に乗りつけたと聞いても、掃部頭は格別驚きもせず泰然自若としていることができた。
 さて、アメリカ軍艦ポーハタン号を神奈川沖に乗り入れ、文官の衣をかなぐり捨てたハリスにとっては通商の実現よりもイギリス、フランス、ロシアに先んじて条約を調印し外交上の優位を保つのが目的だっただけに、至近距離に迫った三カ国に追い越されるくらいなら自爆も辞さない覚悟だった。かつてハッタリで「重大決意」をちらつかせたペリーなどよりはるかに本気で手ごわそうである。井伊直弼はその新手の「黒船」にどのように対処するつもりなのだろうか。
          
 幕臣さえをも倒幕必至と観念させた安政大獄
 大老井伊直弼ほか老中が待ち受けるところへ岩瀬忠震と井上清直が戻り、「英仏艦隊が五日後に到着する」というハリスの言葉を告げた。二人の報告を受けても井伊直弼は即時調印に反対し、「いったん京へ申しあげ、勅許を得てから調印する。それが順序というものだ」と主張して譲らなかった。
「まさか、そのような」
 口をつぐんでいた久世広周以下、堀田正睦、松平忠固らが、色をなして井伊直弼に詰め寄った。それでも、掃部頭は考えを改めようとしない。
 岩瀬忠震は危機感を欠く大老・老中の態度に業を煮やした。
「英仏艦隊の到着は、五日のうち、京へ使いを立てている暇などあるかないか、よくよくお考えあれ」
「差し出がましい、黙れ」
 井伊直弼が岩瀬忠震を一喝した。
 岩瀬忠震は憮然とする井伊直弼を差し置いて、持参したハリスの念書を堀田正睦以下の老中に回覧して訴えた。
「アメリカ使節ハリスの良心的な態度は、例外中の例外。英仏も同様とお考えあっては、取り返しのつかぬ事態を招きましょう。わが国には軍艦といえばオランダから払い下げを受けた時代遅れの旧式な帆走船一隻あるのみ。数多くの軍艦と大砲に物いわせて、英仏が無体理不尽な要求を突きつけてきた場合、いかに対処なされるおつもりか。良心的なアメリカと組むのが得策か、それとも英仏に先駆けて、年来の友たるアメリカと事を構えるのが得策か」
 訳文つきのハリスの念書が老中三人の手を経て井伊直弼の手元に届いた。井伊直弼はハリスの念書にじっと目を落としたまま別の考えにとらわれた。
 許せぬ、軽輩者の分際で……。
 一旗本に過ぎない岩瀬忠震が、しかもまだ岩瀬家の当主ともなっていない養嗣子の身でありながら、大老、老中に意見する。これこそ天下の一大事……。
 井伊直弼がそれでも怒りを堪えているのは、岩瀬忠震をハリス以下諸外国使節との今後の折衝に欠かせない男だと思うからだ。
「外交の責任者たる備中殿のご意見は」
 気まずい沈黙に堪えかねたように、久世広周が堀田正睦に発言を求めた。
「手前など敗軍の将にすぎないから……」
 堀田正睦は岩瀬忠震が即時調印に踏み切るはずだと信じていたから、井伊直弼にちらと目を遣って口もとに皮肉な笑みを漂わせた。
 松平忠固が嫌味たっぷりに、井伊直弼に向かって口を開いた。
「一朝有事のときに、京の長袖連の言い分など聞いていてはきりがありますまい。この際、独断専行しなければ、何のための幕閣であろうか」
「黙らっしゃい。恐れ多くも朝廷に対し奉る事柄に、伊賀ごとき小身者が口を挟むべきではない」
 大老井伊直弼の彦根三十五万石に対して、明日にも老中を罷免される予定の松平伊賀守忠固は上田五万三千石。三十五万石とただの五万石では意見の重みが違う、ましてや自分は大老なのだから何でも出来る、というのが井伊直弼の日常的な感覚だったのだろう。まだ論議は尽くされていないというのに、井伊直弼は大老の権威を振りかざして断を下し、岩瀬忠震と井上清直に命じた。
「そのほうら、直ちに交渉の場に赴き、極力、調印の延期に努めよ」
 堀田正睦も、久世広周も、松平忠固も唖然とした。
 かつてハリスに六十日の延期を交渉した経験を持つ井上清直が井伊直弼にそれとなく伺いを立てた。
「その旨をもって極力努めますが、ハリスが何としても聞き入れぬ場合は、いかが計らいましょうや」
「むむ、そのときは……」
 井伊直弼は過去の例から井上清直ならうまくやると信じていたから、そういったきりあとの言葉を喉の奥に呑み下した。
 調印延期か、即時調印か。
 井伊直弼は井上清直の問いには答えられなかったというのが真相らしい。文献資料の記述は「むむ、そのときは」で終わってしまっている。しかし、二者択一を迫られた幕府全権委員岩瀬忠震と井上信濃守清直は調印を強行した。
 安政五(一八五八)年六月十九日、幕府全権委員岩瀬忠震と井上清直、神奈川沖でハリスと日米通商条約に調印する。
河出書房新社と東京堂出版の『日本史年表』の表記は具体的で正確だが、二人の全権委員の代わりに「幕府大老井伊直弼」としてしまう年表類がかなりある。以上の経過を知っていれば後者のような表記はあり得ないのである
「案外早々の調印、少子も呆れそうろう」
 大老の御用部屋にいて一人で憮然とする井伊直弼のもとへ、越前侯松平春嶽がぶらりと顔を出した。
「日米条約が調印されたそうな」
「うむ」
 井伊直弼は苦虫を噛み潰した表情で顔をそむけた。
 御家門は大老職に就けない決まりになっているのに、松平春嶽は水戸斉昭や岩瀬忠震らにかつがれて、政事総裁(事実上の大老)候補として井伊直弼と権力の座を争った相手、しかも一橋慶喜を将軍継嗣に立てようとして、いまなお家臣の橋本左内を奔走させている。
 松平春嶽は何喰わぬ顔で探りを入れた。
「ところで、独断で条約調印に踏み切った海防掛の不遜の輩を、掃部頭殿はいかに御処置なさるおつもりか」
 岩瀬忠震の切腹だけは何としても未然に防ごうと、みずから各方面に働きかけているのが当の松平春嶽であった。
「差し当たっては、対外的に難問山積の時期でもあるし、処分はいたさぬ。あの者がおらぬと困る」
「左様か。お邪魔いたした」
 越前の狸め……。
 井伊直弼は飄々と去ってゆく松平春嶽の背中をはたと睨みつけた。
          
井伊大老が橋本左内を殺したる一事、以て幕府を倒すに足れり
 岩瀬忠震の処分を見送ったことからもわかるように、井伊直弼は勅許を得ずに行われた条約の調印を軽く考え、朝廷に対する報告も一片の書き付けだけで済ませようとした。
 六月二十三日、一橋慶喜がそれを知って登城してきた。
「このたびの致しようは違勅の咎めを免れぬ。如何なさるおつもりか」
「はて」
 井伊直弼は顎に手をやって、あらぬ方を見つめた。
「思いもかけぬ日にお目にかかる。公こそ御定法に背き不時にご登城あるとは、いかなる御存念か承りたい」
 御三家三卿、諸大名の登城日はあらかじめ決められており、それ以外の日に断わりなく登城すれば譴責される。「御公儀のためを思えばこそ、御定法は御定法と承知のうえで参った。瑣末なことを気に掛けているときではなかろう」
「御承知のうえでとは、一橋公ともあろう御方が奇態なことを申される」
「さようなことは、別の筋の詮議じゃ。まずは余の質問に答えよ」
「公が違勅といわれたことにござるか」
「左様」
「違勅とは何を指していわれるのか。違勅、違勅と申されるが、朝廷からはまだ何のご返事もない。違勅呼ばわりは心外にござる。むしろ、公のほうこそ、御定法を曲げての不時の登城、このままでは相済みませぬぞ」
 井伊直弼はあくまでも御定法違反を問題にして、逆に一橋慶喜を恫喝した。
 翌日になって、今度は水戸斉昭・慶篤父子、尾州家徳川慶勝の三人が揃って井伊直弼の御用部屋に押しかけた。水戸斉昭が激怒していきなり井伊直弼に喰ってかかった。
「天皇が下された勅旨は、なお衆議をよく尽くせというもので、調印せよとのお言葉はなかった。然るに今般、無断調印をなしたるは不届至極、到底、違勅の咎めは免れぬ」
「違勅かどうかは朝廷がお決めなされること。一橋公に申したごとく、朝廷よりまだ御返事もないのに、違勅呼ばわりされるいわれはござらぬ」
 井伊直弼は将軍継嗣に紀州侯慶福が決定したことを明二十五日に発表するつもりだった。だから井伊直弼は水戸斉昭の追及を強気にはねつけた。水戸斉昭らにしてみれば、それを察知したための不時の登城である。
「朝廷の御返事は待つまでもない。御返事を待ってから対処するというのでは、天皇に対しあまりに失礼である。むしろこの際、貴殿は御返事のあるまで謹慎し、継嗣君の発表を延期するのが本当ではないか。そのうえで越前侯を大老に据え直し、一橋慶喜様を西の丸へお迎えせよ」
「老府公と仰がれるほどの御方が何をおっしゃいますのやら。して、本日のご登城のご趣旨やいかに」
「将軍家にお目通り願い、ご意見つかまつらん」
「上様はただ今、ご病中につき、目通りは罷りなりませぬ。御取り次ぎも致しかねる。本日の不時登城の不始末に対し、追って沙汰がありましょう」
 水戸斉昭と徳川慶勝の二人は、今にも斬ってかかりそうな形相で唇をわななかせた。だが、殿中であった。井伊直弼は新心流居合から一派を興したほどの手だれでもある。
 六月二十五日、井伊直弼は病中の将軍家定に代わり継嗣君は紀州家徳川慶福公に決まったと発表した。
 徳川慶福はまだ十二歳の少年、家定は明日をも知れない命……。
 井伊直弼はそれをよいことにして臨終寸前の将軍家定に決裁を請い、水戸斉昭らの不時登城に対し次のような処分を断行した。
 前副将軍  水戸斉昭 急度慎
 尾州侯   徳川恕徳 隠居慎
 越前侯   松平慶永 隠居慎
 副将軍   水戸慶篤 登城停止
       一橋慶喜 登城停止
 隠居は大名家の当主を退くこと、慎は謹慎のことで昼間は外出できない。不時登城の処分といえば譴責がせいぜいであるのに、掃部頭は不時登城というわずかな瑕疵にこじつけて御三家のうち二家の当主、御三卿のうちの一卿の当主を含めた徳川家の柱石に対し前代未聞の処分を下したのである。
 安政五年七月四日、将軍家定死去。
 将軍家定が亡くなり、次期将軍家の慶福(家茂)はまだ数え十三歳、幕政は大老井伊直弼の思いのままになった。
 次いで注目すべきは、越前侯松平春嶽の処分であった。
 松平春嶽は不時登城に該当しない。理由は陪臣の橋本左内を奔走させ、一橋慶喜の将軍継嗣君就任を朝廷に働きかけて処士横議の禁を犯したというものだった。松平春嶽を政事総裁に推した薩摩藩主島津斉彬の処分も取り沙汰されたが、本人が直前に病死したため罪を免れた。これを契機として、開国政策を推進してきた海防掛解体、橋本左内、吉田松陰らの処刑など、多くの有能な人材を処断する「安政大獄」が始まった。
 ここで、あまり知られていないある人物を登場させよう。
 神奈川宿沖で日米修好通商条約が調印されたとき、佐倉藩年寄平野縫殿が監察として同席していた。直後、大老に就任したばかりの井伊直弼に罷免されたが、老中堀田正睦の腹心平野縫殿の存在がどれほど岩瀬忠震、井上清直両全権委員の力になったかしれない。当時、平野縫殿は藩の学問所成徳書院総裁でもあり、昌平黌出身者としては岩瀬忠震の先輩であった。
 阿部正弘時代は二宮金次郎、ジョン万次郎、斉藤弥九郎ら農民・漁民出身者に活躍の場が与えられ、能力主義の幕政が展開されたが、井伊直弼が大老として登場すると時代の空気は一変、すべてが昔の身分制度へ逆戻りに回転し始めた。その両転換点の間に位置した主君堀田正睦を支え、常に側で献策をつづけたのが平野縫殿だったから、幕府の通商政策を立案し遂行したのは彼であったと理解しても誤りではないだろう。
 大老井伊直弼に老中を罷免された堀田正睦は失意のうちに間もなく他界するのだが、平野縫殿は城代次席となって跡を継いだ正倫を支えつづけた。そして、慶応四年(明治元年)、戊辰戦争を迎えて岐路に立たされたとき、平野縫殿は京都で謹慎中の主君正倫に代わって分裂する藩論に対し次のように明快に断を下した。
「徳川氏にむくゆるは別にその道あり、勤皇はいやしくも日本臣民として違うべからず」
 神奈川宿沖で即時調印か延期かを迫られた際、岩瀬忠震が述懐した「幕府のためではなく社稷のために」という言葉に重ねると、どちらも幕臣・藩臣としてより日本国民としての立場を強く意識し、忠義より国益を優先させたことがわかる。そのために正反対の立場に身を置く井伊直弼の逆鱗に触れたのである。
 井伊大老の登場は開国維新の進捗を逆流させ平野縫殿のように徳川氏に忠誠を抱く有為の人材にさえ倒幕必至の観念を植えつけてしまったわけである。かつて外国奉行を務めた水野筑後守忠徳は後に安政大獄を振り返って、「井伊大老が橋本左内を殺したる一事、以て幕府を倒すに足れり」と断じている。水野忠徳もまた「日本国臣民」としての自覚により大きな比重を置いた幕臣だったのだろう。ジョン万次郎がもたらしたアメリカ政体の知識の影響の大きさがうかがい知れる。
 幕臣でありながら「日本国臣民」に意識の変革が進んだからには、幕藩体制に代わる近代政府への衣替えは避けられない時の勢いであった。だから、井伊直弼が大老に就任し安政大獄が断行された時点で、時代錯誤の幕藩体制へ逆戻りする幕府はまさに棺桶に片足を突っ込んだ状態であり、その後の九年間にも姿勢を修正する動きが少しもみられなかった事実をしっかり念頭に置けば、明治維新の志士が仕掛けた戊辰戦争は死に体のままの幕府の背中をぽんと一突きしたにすぎなかったことが理解できるのではないだろうか。
          
 秦野裁判長は読み終わって思わず笑みを洩らしました。
「検察官の陳述書の中身が本当は事実なんだよな。今はだれも本気にしないだろうが、再審請求と同じことで時間の経過が病熱を冷まして、冷静にどっちが事実をよく調べていて、どちらがきちんとした事実を踏まえているか、いとも簡単に判断がつくようになる。そうなるのに五十年はかかるだろうな。そのときには事実を踏まえて解釈するという当然過ぎるくらい当然のことが当たり前に行われるだろう。そういう気の長いスパンで考えにゃいかん」
「おっしゃる通りです」
「次は何だ」
「古代貨幣史考察を番外編、姉妹編としてやれなくなってしまいましたから、和同銭和銅元年初鋳説という教科書定説の短絡ぶりを暴きたいと思います」
「番外編はやめてしまったのか。それでは陪審裁判も取りやめじゃな」
「申し訳ありません」
 こうして、急遽、古代貨幣史考察を間に挟むことになりました


(つづく)





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