彦根ナショナリズムが井伊直弼の黒の実像を白い虚像ですげ替えた


 まず、長井健史検察官の説明に耳を傾けましょう。

「日本の近代化の最大の障害となったのが井伊直弼である。こういったら、おまえ、何をいうんだと十人いたら十人が私を非難し、白い眼で見るだろうと思います。しかし、考え方からして守旧的で、確信犯的に時計の針を寛永祖法の時代に戻そうとした、と、残念ながらこれが井伊直弼の実像です」

 長井検事の説明はつづきます。

「彦根の人が井伊直弼を美化するためにどれほどの歳月と労力を費やしたことでしょうか。明治時代のことですが、彦根出身者は横浜港を見下ろす掃部山を買い取り、丘の頂に井伊直弼の銅像を立てました。掃部山と名がついたのはそのためです。いかにも横浜港を開いたのは井伊直弼だといわんばかりに聞こえます。日本人はこの手のガセネタに弱いのです。しかし、時の神奈川県知事周布政之助は事実に反することなので銅像を撤去しました。ところが、郷土愛に燃える彦根の人はそれぐらいで諦めるものではありません。周布知事がいなくなると井伊直弼の銅像をちゃっかり再建してしまい、そのまま時は流れて、気のいい浜っ子はガセネタをガセネタと思わず、教育委員会がつくる学校の副読本で井伊大老を開港の恩人としてしまったのです。こうした小さな錯誤が積もって山となり、いつしか日本史は教科書日本史を幹として御都合主義的に枝葉を茂らせて事実とますますかけ離れていきました。事実とかけ離れた評価の最たる存在が、実は井伊直弼なのです」

 横浜開港百年記念切手の絵柄をご覧いただくとわかりますが、井伊大老の銅像が真ん中にでかでかと図案化されています。事実を知らない人は横浜港の開港の恩人は井伊大老だと勘違いしてしまうでしょう。事実、信頼抜群の教育委員会が勘違いして疑わないし、開港資料館の学芸員に至っては指摘を受けても知らん顔を決め込んでいるありさまです。

 以下は長井検事から秦野裁判長、原告団のひであきらさん、瑞雲院住職、宍戸駒子さんらに回覧された「井伊直弼に関するプロファイリング」のごく一部分です。

          

井伊掃部頭直弼と忍一件

 開国の阻害要因のうち最大のものが井伊掃部頭直弼です。この人くらい裏づけが乏しいのに極端に高い評価を得ている人もめずらしいといえそうです。井伊直弼の人となりや考えなどをよく表すのが忍一件と呼ばれる出来事で、嘉永三(一八五〇)年、直弼が彦根藩世子となって四年目にそれは起きました。

 溜間詰大名の家格は譜代大名中最高位ですが役職ではありませんからライン的な権限はなく意見を述べることのみ認められておりました。すなわち、スタッフ的地位と理解すればよいでしょう。

溜間詰(たまりのまつめ)大名の中で上位に位置づけられたのが、近江彦根藩主、陸奥会津藩主、讃岐高松藩主の三家で、常溜(じょうだまり)と呼ばれ、井伊家が筆頭でした。下位に位置づけられる播磨姫路藩主、伊予松山藩主、武蔵忍藩主、伊勢桑名藩主の四家は飛溜(とびたまり)と呼ばれました。ほかに老中経験者が一代かぎりで臨時に格付けされる溜間格が何人かいました。溜間詰大名はすなわち譜代大名の名門中の名門といったほうがわかりやすいかもしれません。

 事件の発端は飛溜の忍藩主松平忠国が世子忠矩を将軍に初目見させるとき自分が同道できない場合は同席に代わってもらって差し支えないかという点について老中に伺いを立てたことにあります。老中が伺いの趣旨を認めたことを忍藩主松平忠国ではなく溜間に伝達しため、直弼の知るところとなりました。

 下位の飛溜が老中に伺いを出すときは上位の常溜三家に相談するか挨拶するのが決まりでしたが、当時、常溜三家の当主は帰国して江戸におらず、井伊家世子の直弼が在府するのみでした。そのため、松平忠国は挨拶の必要なしと判断して直弼の頭越しに直接老中に相談したのです。

 要するに手続の問題ですから丁寧さを欠く嫌いはあっても、文句の一つもいって済ませるのが世間の通例です。ところが、直弼は激怒して、わざと問題を大袈裟に扱いました。

「同席同道を依頼しながら、事前に井伊家はじめ常溜三家に挨拶を欠き、頭越しに老中に伺うとは不届きであり、かかる場合は親戚が同道する溜間席の先例にも反する」

 直弼から横槍をつけられて驚いた忍藩は使者を井伊家に派遣して陳謝、溜間席の先例に倣い親戚同道と中身を改めて老中に伺い直したのです。

 世子の初目見当日、実際には忠国が同道して済ませたため、先の伺い書の一件は無用の手続で終わるはずのところ、直弼は自分をないがしろにした忍藩への追及の手を緩めず、意図的に国許にいる会津藩主松平容敬、高松藩主松平頼胤と連絡を取って常溜三家で議する問題にまで発展させたのです。このため、忍一件の裁定は会津藩主松平容敬と高松藩主松平頼胤が出府する嘉永四年五月まで持ち越されることになってしまいました。

 事の発端から一年近く経過して、ようやく直弼を加えた常溜三家の協議が実現しました。席上、直弼が忍藩再度の伺い書の内容が自分の例示した文面と異なることを指摘して、あらためて忍藩を譴責する事態となり、六月二十日、忍藩城使が彦根藩城使に取調方の不行き届きを陳謝したうえ、幕府にも不念書を提出して不都合を陳謝するという経緯により、ようやく一件落着に立ち至ったのです。

世子のときですらかくのごとし、いわんや藩主、大老となりしときにおいておや……。

 

譜代と外様の垣を明確にし、家格を重んじる士風に刷新すべし

スポーツや勝ち負けがものをいう物事では「タラ、レバは禁物」とされますが、歴史の考証は逆に「タラ、レバ的思考」を欠いたら、解釈に立体感が出てまいりません。

阿部正弘、松平近直、二宮金次郎ら三人が安政六年の大獄のとき存命だったらどうなっていたか、という推理洞察は極めて重要です。

なぜなら、井伊直弼ほどこの三人を憎悪した者はいなかったからです。

ところが、安政二(一八五五)年十月二日に江戸を襲った大地震の復興に働いた阿部正弘と二宮金次郎が過労のため相次いで亡くなり、松平近直は殉死してしまいました。ならばそれで終わるかと申しますと、徳富蘇峰が「井伊を殺したるは井伊なり」というように、忍一件に輪をかけたように性格をむき出しにして安政大獄を企て、阿部正弘、松平近直、二宮金次郎、ジョン万次郎ら「加州侯の大義」プロジェクトチームの残党というべき海防掛、将軍継嗣問題で自分に楯突いた水戸藩士らを身代わりに粛清していきました。

付け加えて申しますと、越前藩主橋本左内を死罪に処した罪名が「処士横議禁令違反」でした。直弼は士農工商の身分制度のゆるみとともにこれを最も嫌ったのです。その執拗さは忍一件で想像がつくはずです。

 井伊直弼が目指したのは寛永時代のように身分制度をかっちりさせ、間違っても「処士横議禁令違反」などのない譜代独裁体制に戻すことでしたから、百姓だった金次郎が幕臣となり、あまつさえ幕府財政の立て直しに尽瘁するなどの事態は、絶対に我慢がならないものでした。

 加えて勘定吟味役川路聖謨は二代遡れば百姓でしたし、韮山代官手代の斉藤弥九郎は越中の百姓の子でした。百姓でありながら幕臣ないし士分に取り立てられるということは能力が図抜けているからなのですが、そうした卑しい出自の者はもとより彼らを選抜した阿部伊勢守正弘、徒目付という下級役人から筆頭勘定奉行に成り上がって敏腕をふるう松平河内守近直に至るまで根こそぎ粛清せずにはおれない怒りが、直弼の胸にどす黒く渦を巻いていたのは火を見るより明らかでした。

崩れつつある士農工商の身分制度の箍を締めなおし、譜代と外様の垣を明確にし、家格を重んじる士風に刷新する。

これが直弼の考える世の中のあるべき姿だったのです。

井伊直弼がどういう人であったか忍一件などの事実が物語るように、強権的でおのれが人の上に立つことしか考えない、いうことをきかない奴は無事ではおかないという性格の持ち主ですから、そういう人間と同じ時代を生きることを好まず、つい「決して長生きすまじ」という思いに駆られた人は多いのです。江川坦庵、二宮金次郎、阿部正弘、松平近直らの「決して長生きすまじ」という気持ちが、よく理解できます。

 

井伊直弼と水戸斉昭の宿命的確執

井伊直弼と水戸斉昭の犬猿の仲はよく知られた事実です。

ペリーの第一次来航直後、阿部正弘が対応について意見を徴したとき、井伊直弼は二度に分けて意見書を提出しました。最初の意見書は嘉永六年八月十日付で、井伊直弼は「兵船を自負して恐嚇する姿は蛮夷の常とするところだが、けしからん」と非難し、「禁教のために行われた鎖国の祖法は変えるべきでない。米国の要求を容れない以上、当然、一戦交える覚悟で臨むべきである」と主張しました。

ところが、その一ヵ月前の七月十日に水戸斉昭が「和すべからざる十条五事」を理由に挙げて強硬な主戦論を唱えた事実を把握すると、ぬけぬけと前言を百八十度翻して、「交易の儀は国禁でも時世には古今の差がある。そこをよくわきまえて祖法だからといって墨守すべきではなく、二、三の港を開くことは祖法のうちと心得て、むしろ、わが国も火輪船を建造して海外に雄飛することを考えるべきだ」と述べ立てた。

これが井伊直弼を「開明の人」と理解したがる人たちにとって唯一無二の踏まえるべき事実なのですが、水戸斉昭との角逐に照らしつつ時系列検証を行うと真相とはまったく違うことがよくおわかりになりましょう。

安政大地震で補佐役の藤田東湖を失ってからの水戸斉昭は、頑迷さでは井伊直弼に引けをとらず、舵取りする人もなく、わが子一橋慶喜を将軍にしたい一心で突っ走り、井伊直弼はそれゆえに対抗してまだ幼い紀州侯慶福(よしとみ)を擁立、見苦しい権力争いに埋没していったのです。

安政大地震を契機に教条的で融通の利かない性格は瓜二つなのに犬猿の仲という二人が真正面からぶつかる構図が浮き彫りになりました。これも阿部正弘の死を早めた一因といえましょう。ましてや、二宮金次郎、阿部正弘を失った松平近直にどうすることができましょう。伊勢守あっての「松平伊勢守」なのです。井伊直弼が大老に就任したらどうせ無事ではいられないのです。

 以上のことからしますと、井伊直弼が大老になって関係した安政大獄と桜田門外の変は矮小化されたかたちで理解されているように思います。水戸斉昭と井伊直弼の反目と対立という以前に、井伊直弼が「何としてもこやつらだけは許せない」とする阿部正弘、二宮金次郎、ジョン万次郎、松平近直がおり、彼らは後世の人たちが考える以上に大きなことを考え、やり遂げようとした、だからこそ、井伊直弼としては許せなかったのです。

          

 秦野裁判長が全員が読み終わるのを待って、だれにいうともなく問いかけました。

「吉村昭は『虎ノ門外の変』を書いているくらいだから、井伊直弼について調べて相当にくわしいはずなんだが、何か見当違いのことを書いているようだな。事務所に帰れば証拠の本があるんだが……」

 秦野裁判長は北野アームスというところに事務所を持っており、一室を書庫にまるまる使って、そこには岩瀬忠震、阿部正弘、二宮金次郎、ジョン万次郎、プチャーチンなどに関する文献も含まれているのです。秦野裁判長がいう本をたまたま長井健史検察官が持参してきておりました。

「日経新聞が出した、この本ではありませんか」

「そうだよ。それだよ」

 二人がそれだというのは六十一人の作家が東海道沿いの各地を受け持って書いた『新・東海道物語』で、そのうち「桜田門」を担当した吉村昭さんの文章の問題部分を長井検事は紹介しました。

《(前略)この事件は、開国を実行に移すことにつとめた井伊に対して、開国に反対して外国勢力を駆逐しようとする過激な尊皇攘夷論者が激しい怒りを抱いて暗殺したのである。しかし、その後、強大な武力をそなえる外国と対決することが愚かしいという意見が次第に支配的となり、日本は開国の道をえらび、明治維新が成立する。結果的には井伊の考えている通りになったのである》

 長井検事は読むことさえつらいという感じで、自分の意見を述べました。

「資料を読めば事実が書いてあって、井伊は開国実務を妨害し、結果的に明治維新は井伊が最も嫌った世の中、そういうふうにはしたくなかった政体になったとわかるはずなのに、これはどういうことなんでしょう。事実なんて関係ない、教科書に書いてある通りに書く、つまり、バイアス優先で、事実なんか糞食らえなんですね」

 秦野裁判長がいいました。

「意識して、注意して、常に自制していないと、恐ろしいことだが、日常的に起こり得る危険なんだ。水戸斉昭はペリーが帰ると、条約の批准使節として自分と藤田東湖を派遣してくれと阿部に願い出ているんだから、東湖にいいふくめられたとはいえ、吉村のいうことは事実に反している。見込み、先にこうだと思い込んでしまうと、その線からはずれた事実は無価値、無意味に思えてしまうんだな。そういうものなんだよ。だから、初動が大事と俺はいいつづけた。最初に変な色に染まってしまうと、同じ色にしか目がいかなくなっちまう。人間とはそういうもの、だから、気をつけろと司法警察官にいいつづけた。吉村とは知らない仲ではないんだが、まさか、あんなに研究熱心な吉村がな」

「亡くなった方を悪くいうのは本意ではないのですが、《開国を実行に移すことにつとめた井伊》とは、これ、どこから引っ張り出してきたんでしょうね。もちろん、根拠のことですがね。石田三成は正義漢、三成と大谷吉継は親友と決め付けるのとまったく同じで、証拠となる事実がいまだ一つとして見つかっていないんです。本日は無理としても、井伊が開国を望まず、通商にも消極的であった事実、通商条約調印時の大老であったというだけ、そのとき、彼がどのような態度であったか、次回はきちんと証明してみせましょう

「やれやれ、いつになったら、関ヶ原の審理に入れるんだね」

「歴史的冤罪は小早川秀秋だけではないということを証明してからでないと、関ヶ原だけの問題に矮小化されてしまいますから、むしろ、事前審理に意味があると申しあげておきます」

「吉村には気の毒だが、うっかりしたことを書いた責任は取ってもらわんことにはな……吉村とは知らない仲ではないから気の進まないこっちゃが、われわれは後世に責任がある。せめても、笑われない程度にはきちんとしておかんと。日本史は文筆の徒のめしの種でもあろうが、何より日本人の精神史、心の履歴書だからな。いいかげんにお茶を濁して、というわけにはいかんだろう」

 本日の審理は二人の以上のようなやり取りで終了しました

 

(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング