島津惟新が秀家を匿った理由


 島津隊は西軍が総敗北するまでとうとう戦闘に参加しなかった。ここまではわかる。しかし、なぜ降伏せずに西軍方として、しかも、このときに至って戦闘行動を起したのだろうか。

 二木謙一著『関ヶ原合戦』はいう。

《『島津家譜』には、島津の西軍加担のいきさつについて次のように記している。島津豊久は惟新に、家康の勝利の明らかなことを説き、島津家を滅ぼさないためにも家康への味方をすべきであると勧めた。しかし、惟新は、これをさえぎり、

「その方の申す通り、我も左様には存ずるが、故太閤殿下に対する誓紙を破っては、たとい家康公に味方をしても、決して頼もしくは思われず、以来、島津家の誓紙誓言はいつわり事とされ、長く家の傷にもなろう」

といって西軍につく覚悟を定めたという》

これには少し解説が必要だろう。いわゆるパターン認識を持ち出すと「誓紙・誓言」は平安末期の頃から命より重いとされてきた。平安時代は熊野牛王の法印を押した紙に誓いを書くのだが、ひとたび誓約を立てたからには背いたときは命がないと信じられていた。誓う相手が太閤秀吉だからではなく、誓紙・誓言そのものが重みを持ったのである。武将の誓紙・誓言文化といってもよい。それが戦乱のつづくうちに崩れてきた。目的のために誓紙・誓言を破るのは仕方ないという気風が生まれたのである。豊久の意見が戦国期としては今様の考えなのであり、「島津家を滅ぼさないためにも家康への味方をすべきである」というのはむしろ慧眼というべきだ。

 もう一つ判断すべき重要な点は、惟新の言葉が暗喩するのは「家康も伝統的な精神文化を重んじている」という認識を土台にしていることである。

家康に味方することが家康によく思われない。

 本多政重の行動の基本もそこにある。だから、惟新は政重が西軍の核であるべき宇喜多隊に属することに違和感を持たなかった。むしろ、稀有な存在として親近感を抱いたものと思われる。二人の交渉の動機を考えるとしたらそのへんに求めるべきではないか。

 しかし、今は惟新のこれからの行動の動機を明らかにするのが先決である。西軍が総敗北したからには関ヶ原に留まる理由はないわけであるが、島津家の信用を守るためにはあくまでも西軍として戦って立ち退かなければならない。石田隊がもっと早く敗走していれば東軍の間隙を突いて脱出を図ることができたのだが、石田隊が最後まで踏みとどまったことで、島津隊の前に東軍の総兵力が結集する事態になった。

 このあとの島津隊の行動はすでに述べた。宇喜多秀家が中山道を佐和山城方面に逃げ道を取ったのに対して、島津惟新が伊勢路を選択したのは、宇喜多秀家が率いた七万一千のうち五万三千がその方面を固めていたからである。関ヶ原さえ無事に脱出できればほとんど無風の野を行くようなものだ。東軍の総兵力が結集する事態に関しても、それだけ目撃証人が多くなると考えればむしろ好都合であった。果たして西軍として振舞ったことで家康の戦後の処置も穏便であり、惟新が予想した通りの結果になった。むしろ、家康は惟新が平安以来の誓紙・誓言文化を体現したことをよく理解し称揚したい思いではなかったか。

 だが、それはあくまでも結果論である。惟新としては心証だけでなく具体的に目に見える保証が欲しかった。それが政重である。

 関ヶ原から脱出した政重は薩摩をめざす秀家と近江国で別れ、身を潜めたとされるが、家康が大津にしばらく腰をすえたことから考えて、到着が遅れている中仙道隊の本多正信を待つためだったと思われる。当然、家康に使いを遣って身の安全の確保に努めたはずである。そうしなければ田中吉政の蟻も洩らさぬ落人狩の網からは逃れられなかった。

 政重の場合、加賀前田家の功臣として無事に生涯を終えておりながら、中間の記録がほとんどないのは守秘義務のためと考えるとうなずける。それも単なる隠密ではなく特任の隠密だった。すなわち、政重が過酷な追及を免れたことで、俄然、彼の特殊任務とともに彼が持つ保証能力が大名間に強く認識されることになった。

 政重を召し抱えようとして真っ先に動いたのが小早川秀秋であった。秀秋は松尾山における逡巡が家康の心証を害したことを自覚して佐和山城の攻略をみずから買って出て名誉の挽回に努めたのだが、それだけでは安心できなかったのだろう。政重は秀秋の誘いを謝絶し高野山へ隠遁したのだが、個人的にいっても旧宇喜多家重臣であったからには応じられることではないし、父親の正信が反対したための対処の仕方であった。

 次に政重を誘った前田利長は加賀国に封じ込められて関ヶ原に駆けつけられなかった弱みがある。三万石の扶持は安心料である。しかし、政重はこれも断った。芳春院という超一級の人質があるからには利長の不安は杞憂にすぎないという判断だった。

 結局、政重が仕官に応じたのは清洲城を事前に明け渡していたため代わりに安芸国を宛がわれた福島正則であった。正則は関ヶ原前哨戦岐阜城攻略の際に敗将織田秀信の助命を強硬に主張した。他の全員が切腹を要求したのにそれを押し切ったのである。加えて戦後処理の軍法会議で毛利輝元や島津惟新のため弁護の熱弁をふるったというから、やはり政重を必要とするだけの理由はあったのである。政重が正則の求めに応じたということは裏返せばそうする必要があったということであろうし、関ヶ原合戦時、正則には「死に物狂いする敵に軍はせぬもの」といって島津隊を見送った怠慢の事実もあり、そうした正則に仕官することは秀家に対する間接的な支援の意味もあったのではないか。

 政重と惟新が具体的に接触した記録はないのであるが、このような見方をすると、心証としては密接な紐帯が透けて見える。惟新にとっては政重と最もつながりの強い秀家を受け容れることが、ある種の意味で安心料だった。亡き豊久が心配した「家康に味方しないと島津家は滅ぶ」という差し迫った御家の危機は、そのために回避されたのである。

 政重は秀家の薩摩潜伏に奔走しただけでなく、島津家の代替わりに伴って幕府に秀家の身柄が預けられたとき、敢然、前田家を辞して助命嘆願に奔走、八丈島流罪後も扶持米を届けるなど度のすぎた世話を焼くことになるのであるが、政重が秀家に対してかくも擁護に努めたのは秀家本人の人物にほれたというより重臣として仕官しながら宇喜多家を改易させたことへの贖罪であろう。

 さて。

政重の残る課題は阿虎を妻にするばかりとなった。そのためには米沢上杉家執政直江兼続の養子になるのが条件である。政重と阿虎は恋愛関係でも兼続からすれば政略以外の何物でもない。会津討伐を招いたからには四分の一への減封に留まらずどのような譴責を喰うかしれない。阿虎を於松に代えても今度は何としても政重との婚姻を実現させなければならなかった。

 大国実頼が娘の阿虎と政重の婚姻を激しく憎悪したのは、今となれば政重が敵味方両属の隠密とわかったからであろうと推測がつく。自分のために罪を着て高野山に遁世した父親を思う阿虎の気持ち、それを考えると、政重は強引に婚姻を迫る気になれなかったであろう。しかし、兼続は待てない。とりあえず於松を正室に迎え時期がきたら阿虎を側室にすればよいではないか、そのように迫ったにちがいない。

 於松の病死がなければ、政重が阿虎を側室に迎えるのはもっと早かったかもしれない。わずか一年で於松が病死してしまったため喪に服する感じでさらに四年も待つことになるのであるが、正室(継室)に迎える条件が十分に隙間を満たしてくれたものと思われる。

 以上で関ヶ原合戦のジグソーパズルは完成をみたのであるが、ともあれ、これほど複雑で紛れの多い歴史的事件はない。私は小田原合戦と関ヶ原合戦を「日本史考証上の二大冤罪事件」と呼んでいる。事実と解釈がこれほど食い違う考証の事例はほかにない。その二つに関係するのが家康と吉継であろうとは、ジグソーパズル式考証法を用いずにだれが気づくだろうか 
(つづく)




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