関ヶ原合戦も、関ヶ原合戦の考証も、第六回講座においてはいよいよ大詰めである。藤堂高虎の軍勢と京極高知の軍勢が大谷隊に向かって攻勢に転じるところからフィナーレの幕があくのだが、高ぶる気持ちを抑えて冷静に事実を追うことに努めよう。
二木謙一著『関ヶ原合戦』はつづけていう。
《だが、そこへ籐堂高虎、京極高知らの兵が、横合いから大谷隊に突入すると、大谷隊の攻勢も止まった。
その時、大谷隊の中から、
「それがし当手の軍奉行なり。目の前にて戦いを決せよ」
と大音声をあげて一人の若武者が進み出た。島清正である。清正は島左近の四男であるが、大谷吉継の家臣として従軍していたのであった。
この名乗りに答えて、藤堂隊の中から老武士が出てきて槍を合わせたが、島清正に首を取られた。老武士は、高虎の従弟の藤堂玄蕃であった。しかしその清正も、つづいて現われた玄蕃の従者である高木平三郎に討ち取られた。
この劇的な死闘を皮切りとして、両隊はさらに攻防を続け、敵味方の死傷者が数百に達したほどの激戦を展開している。
だがこの時、大谷吉継がまったく予期していなかった、意外な事態が起こった。吉継の配下に属していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、矛先を転じて、平塚・戸田の両隊に向かって攻撃しはじめたのである。
この四隊のうちの、脇坂安治の背反は、安治が、かねてから東軍の藤堂高虎らと打ち合わせていた筋書どおりであったといわれている。脇坂隊は、藤堂の兵の振る旗に呼応して行動を起こしたのであった》
脇坂安治が行動を起こしたのは午後一時少し前とみてよいだろう。合図が旗だとすると、藤堂高虎は開戦から五時間弱も脇坂安治を待機させたことになる。まことに注目すべきというか、注目せざるを得ない事実である。
それ以前の問題として午前八時に戦端が開かれてから現在まで藤堂隊は何をやっていたのだろうか。考えられるのは小早川秀秋次第ということが東西両軍共通の認識としてあって、松尾山の動向を注視しながら、そのときがくるまで極力兵力の温存に努めたのである。
その証拠に一進一退の似たりよったりの戦況のまま推移したのに秀秋が東軍方として行動を開始してからわずか一時間で勝敗が決してしまった。それは笹尾山周辺も同様であったと思われるが、ここでは藤川台付近で起きた事実を時系列にしたがって追っていくことにしよう。
一、脇坂安治・朽木正綱・小川祐忠・赤座直保が西軍の平塚・戸田隊を攻撃。
一、小早川隊、勢いを盛り返し、再び西軍を攻撃。
一、戸田重政、平塚為広の順に討死。
一、藤堂隊、大谷隊を藤川台に追い詰める。大谷吉継、湯浅五助の介錯で自決、享年四十二歳。三浦為太夫、吉継の首級を土中に埋めて追い腹を切る。五助、藤堂高刑におのれの首級を授ける。
一、東軍、総攻撃に移る。
一、小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊は天満山をまわり込み、背後から小西行長の軍勢を攻撃する。小西隊は総崩れとなり、伊吹山方面に壊走する。
一、藤堂隊、がら空きになった藤川台から宇喜多秀家隊に接近、正面の福島隊、北側の小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊とともに三方から攻め立てる。
以上が午後一時から二時にかけての藤川台周辺各隊の行動である。
藤堂高虎ないし高刑がわざと吉継の首級を持ち帰らなかったエピソードはすでに述べたからここでは割愛する。注目すべきは大谷隊を壊滅させた直後の東軍各隊の行動である。藤堂隊を残して小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊が天満山を近江側からまわり込み、小西隊を背後から襲ったというのだが、これこそ本多政重ら宇喜多勢を無事に落延びさせる伏線だった。
京極高知隊は相変わらず藤堂隊から離れずにいるが、吉継の首級さえ取ろうとしない戦いぶりを見て、「しまった」と後悔し始めたはずである。しかし、いまさらどうにもならない。
高虎はどういうつもりなのか。
訝しく思いながら見ていると藤堂隊が反転して笹尾山へ向かった。恐らく福島隊の背後を進んだものであろう。したがって、藤川台はがら空きになった。これこそ藤堂高吉が意図して設けた宇喜多隊の脱出路であった。
二木謙一著『関ヶ原合戦』はいう。
《小西隊が崩れ立つと、隣の宇喜多隊も支離滅裂となった。小早川秀秋の裏切りを怒って逆上し、
「おのれ! かの伜めと刺し違えて憤恨を晴らすべし!」
と取り乱す秀家を、家臣の明石掃部助全登が抑えとどめ、
「御憤はさることなれど、諸将の進退をも御下知あるべき御身にて、粗忽のおふるまいは如何なり」
と諌めた。激昂する秀家は、
「その方の意見はもっともなれど、秀秋が逆心を一筋に怒るは粗忽というにあらず、毛利輝元はかねての約を違い、出馬なきことさえ不審なるに、毛利秀元、吉川広家も約を変ずる上は、天下傾覆の時節なるべし。しからば今日討死して、太閤の御恩を報ずべし」
と、馬を引き寄せながらいい放った。
しかし、全登がなおも必死に秀家を抑えとどめながら、
「たとい大老・奉行の輩が、皆関東へ降参したとても、天下の危難をお救いになり、とにもかくにも秀頼公の御行く末をおはかり願えかし」
と、言葉をつくして諌めたので、秀家もようやく納得し、
「しからばそのほうに任せおくべし」
といい残し、数騎の武者とともに、小西行長と同じ伊吹山方向に逃走していった。
全登は、主君を逃がすために、二十人ばかりの兵とともに奮戦したが、まもなく全滅させられている》
明石全登はのちの大坂の陣で大坂方に名があるし、秀家の逃走経路も間違いである。同書のミスというより原典の記述がおかしいのだろう。伊吹山に逃げた小西行長、これから落延びる石田三成、ほとんどが捕まっているのだし、天満山を陣地としている秀家が向かうのはがら空きになった中仙道以外ではあり得ない。中仙道を疾駆すれば藤堂高虎には最初から追うつもりがないのだから、佐和山だろうが、大坂だろうが、岡山だろうが、今のうちなら味方の勢力圏内を好きなように駆け抜けることができた。
