時に午後零時半、ようやくにして秀秋は松尾山を下った。その小早川隊を迎え討つ大谷隊はどのように展開し応戦したであろうか。
松本清張著『私説・日本合戦譚関ヶ原合戦』はさらにいう。
《怒髪天を衝いたのは大谷吉継である。もともと、彼は秀秋の心を見抜いて、これに備えていたから、秀秋軍が松尾山を駆け下って味方を攻撃したのを見ても今さらおどろきはしなかった。彼は六百人の決死隊でこれを防いだ。そして、他の支隊も前面の敵を棄てて吉継の本陣に集り、一致して裏切りの小早川隊に当った。その勢いは五町にわたって小早川の兵を撃退し、さらに、家康から秀秋につけられた軍目付奥平貞治と、兵三十余人を仆した。大谷隊の全士卒がいかに秀秋に激怒していたかわかる》
松本清張は吉継が激怒し全士卒も激怒したように書くが、清張ほどの巨匠でもバイアスがかかるとこれほどの錯誤に陥るのかという思いである。原点は白紙でランダム、結論に至るまで曖昧手探りに徹して、いたずらに果断であってはならない。すなわち二木謙一著『関ヶ原合戦』はまったく異なる見解を述べる。
《まずは、大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘から始まった。吉継は、始めから秀秋の裏切りを警戒していたので、この変事に遭遇しても、驚きの色をみせなかった。あらかじめ指示を与えておいた六百余の精鋭の士が、襲いくる小早川の前衛隊を迎えうった。ことに平塚為広・戸田重政の率いる部隊の勇戦ぶりはめざましく、小早川隊を五百メートルほども退かせ、たちまちのうちに三百七十余人を討ち取った。秀秋の検使である奥平藤兵衛も討たれ、小早川勢の多くは再び松尾山に逃げのぼった》
前回にも述べたことだが、小早川隊の急襲にさらされた大谷隊を守ったのが馬防柵である。物理的な障害物としてものをいっただけでなく、駆け下ったはよいが馬防柵が待ち受けるという精神的圧迫のほうが大きかった。しかし、吉継の隊でなかったらこうはいかなかったろう。吉継は東西両軍いずれを問わず、生還を願わずにいるのだし、秀秋の出方は予定通りだったからむしろほっとして対応した。吉継の名で叙す「怒髪天を衝く」の激怒は現代人松本清張のバイアスから生じる清張本人の感情にすぎない。
吉継の怒髪が天を衝いたとすれば、目算を狂わされたためだろう。とうとう政重と合流できないで自分の予定された最後の時を迎える羽目になった。松尾山動かずとみて宇喜多隊に加勢するふりをしてわざと藤川台を明けて誘ったのが午前九時すぎ、それから三時間もじりじりして政重と合流するタイミングを図っていたというのにそれがならなくなったのである。
「これまで何をしておったか、たわけっ」
吉継でなくとも激怒したくなろうというものだ。清張の記述を批判するつもりはないと述べたのはそのためである。政重のことは自力ではどうすることもできなくなり、吉継は高虎・高吉父子を信頼するほかなくなった。吉継は松尾山からなかなか下ろうとしなかった秀秋に怒りをぶつけた。
「政重の身に万一のことがあったりしてみろ、魂魄となってこの世にとどまり七生まで祟ってやるぞ」
最初から勝利を度外視し生還を期していない吉継の反撃は猛烈の一語につきた。秀秋の手勢はそのために手痛い目に遭ったのだが、それが吉継の名を上げさせる結果につながったのだから皮肉というほかない。
さて、ここで、バイアスとはいかなるものか、凄まじい例を紹介しよう。
亡き秦野章元警視総監からの又聞きであるが、ある日、大河小説『徳川家康』が上梓されて経営者の間でブームを巻き起こしたとき、著者山岡荘八氏が秦野のオヤジに嘆いたという。
「本田技研の本田さんから手紙がきた。人殺しをして英雄になった家康を主人公にした小説を書くとはけしからん、なぜ書くのか返事を寄越せというんだ。返事のしようがないから放っておいたらまた手紙がきて、返事を寄越せというんだ。参っちゃってんだよ」
本田宗一郎といえば卓越したエンジニアであり、経営者としても超一級で、文筆も巧みであった。ところが、弁慶の泣き所というか、日本人の中の日本人ほどどっぷり浸かった「明治維新史観」に立って日本史を見てしまっていた。その年代の人だからやむを得ない抗議なのである。しかし、本田宗一郎ほどの人に「あなたは何か勘違いしていませんか」といえるだろうか。
文聖山本周五郎は「戦前の私の作品は焼き捨ててくれ」といった。
「上杉鷹山、明智光秀、徳川家康を書き終えたら、時代小説からはなれて現代小説一本でいくんだ」
こうもいったそうである。
なぜ明智光秀なのかわからないが、上杉鷹山はわかる。徳川家康にいたってはすでに構想が進行中で終章が先行して決まっていたという。
山本周五郎は小説の舞台となる現場を必ず踏み、事実をもとにシチュエーションを描くことができる人だったから、原田甲斐を主人公にして『樅の木は残った』を書くことができたのだし、『栄花物語』の田沼意次もあるがまま見据えることができた。だからこそ、明治維新史観や水戸学の臭みが抜けない戦前の自分の作品を忌避したのである。
ところが、戦後の学校教育は全体主義から民主主義への転換にばかり熱心すぎて中世と近世の日本史教育に関しては安直に戦前を踏襲して見直しを「現代史(大東亜戦争)部分」に限ってしまった。本田宗一郎の「家康嫌い」の原因は家康その人にあるというより明治維新政府が徳川人気対策というか、維新政府不人気対策として日本国臣民にすり込みを行った「日本史解釈の伝統的偏向」にあるわけである。従来からの関ヶ原合戦の解釈は「頼朝悪玉、北条義時悪党、家康悪人」と決めつける悪しきパターン認識を鵜呑みにする弊害が極端に出たにすぎない。
推理小説の泰斗松本清張も卓越した能力を斯界で発揮した人だが本田宗一郎と同断に悪しきパターン認識からは抜け切れなかったようだ。めずらしく考証に緻密さを欠いて「はじめに結論ありき」の書き方を犯してしまった。馬防柵の意味に注意を向けていないし、吉継の内面描写も不正確である。秀秋が東軍として決断すると予測していたら「やっぱり」と納得ずくの気持ちがワンクッション入るから、そこで吉継を激怒させたりしたら吉継本人まで三文役者に貶めてしまう。
「吉継は、始めから秀秋の裏切りを警戒していたので、この変事に遭遇しても、驚きの色をみせなかった」
このような認識に立つ二木謙一著『関ヶ原合戦』も同断である。裏切りを警戒したのではなく、ひたすら秀秋軍が攻め下るのを待ったのだ。裏切るというが、吉継は何をもって判断するのか。吉継自身が「隠れ東軍」なのである。敵とか味方とかは関係ない。天正十三年から十四年にかけて千人斬りのあらぬ噂を立てられた忌まわしい思い出を持つ病、吉継にしてみればそんな病で死ぬくらいなら戦場で武名を馳せて散りたいのが本意である。だから、吉継本人としては秀秋が東軍に味方してくれなければ困るわけだ。馬防柵は吉継の武名を馳せるためあらかじめ藤堂高吉が示唆した節があり、そのための重要な小道具なのであって、秀秋が欲に目がくらんで西軍に加担したら意味をなさなくなってしまう。
