松尾山に陣を置いた小早川秀秋は後世の「三成人気・西軍贔屓」というモーレツなバイアスの矢玉を浴びて無理やり暗愚にされてしまったが、そこにいたるまでの苦心は並大抵ではなかった。伏見落城から四十五日もの間、西軍の勢力圏で東軍加担を決意し、巧みに戦場を避け、だれとも遭遇しないように琵琶湖畔を移動し、狩りに明け暮れ、西軍にも都合よく連絡を取り、容易に尻尾をつかませなかった。それに伴う苦労は一万五千六百の兵の食と排泄を考えただけでも推測がつく。戦わなければならない運命にあるなら速戦即決が一番「苦労なし」である。
内府殿は何をのんびりしておられるのだ。
客観・公平な見方からすれば、秀秋としては江戸から容易に動こうとしない家康を大声で罵りたい気持ちだったはずである。ところが、四十五日間のモラトリアムからようやく解放されて、明日、晴れて東軍として働くというまさにその寸前、三成が悪魔の誘いのような誓書を届けにきた。
秀頼が元服するまで関白の座が約束された……。
この衝撃的で、破格で、魅惑的な誘惑……。
稲葉正成、平岡頼勝にも近江十万石という莫大な利を約束していた。
三成が打った絶妙の一手だ。
実は極めて最近まで私はそう信じて疑わなかった。秀秋が容易に山を下ろうとしなかったのは、三成が示した破格の条件のために迷いが生じ、それを見て二人の家老が態度を二分してしまったと考えていた。事実、稲葉は初志貫徹を唱え、平岡は熟慮を勧めた。本心は東軍と決しているのに熟慮せよということは、東軍から西軍への鞍替え、すなわち裏切りの勧めに等しい。二人の家老が耳もとで武将のあるべき姿とあってはならない姿の双方を交々に囁く。
一片の紙切れにそうなるような仕掛けをして、そうなるように仕向けた三成の才覚……。
亡き秀吉は才器がわれに異ならないのは三成のみといったというが、それはこういうところを指すのである。人を生かす才器ではなく「殺す」ことに長けた才器なのである。秀長を亡くしてからの秀吉は人を生かす才などかけらも持ち合わせなかった。三成にいたっては最初から持たなかった。
眼下の戦場で戦機が熟するにつれて、三成が罠と仕掛けた誘惑が妖気のように効力を増していった。関ヶ原合戦は最後の最後まで文書合戦の様相を呈したのである。
松本清張著『私説・日本合戦譚』はいう。
《秀秋は、山上に兵を集めたまま、眼下の戦局を観望していた。とはいうものの、はじめのうちは、朝霧のため視界が遮られ、銃声や鬨の声を聞くだけで、はっきりとは分からなんだ。
しかし、十時すぎになると、その霧も次第にうすくなり、戦闘の模様も視野に明瞭となってきた。しかも、眼下の高原にくりひろげられた両軍の戦闘は一進一退で決定的な観察はできなかった。
かねて黒田長政から秀秋の隊につけられていた大久保猪之助という者は気が気でなく、秀秋の老臣に、直ぐに西軍に攻撃を開始するように迫った。しかるに、ここでも老臣たちは秀秋の心事を忖度して、戦機未だ熟さずと称して動かなかった。東西両方からつつかれても、小早川主従は、まだまだ、とグズついていたのだ》
しかしながら、時系列の午後零時半現在に戻る前に家康らの行動を追う必要がある。松本清張著『私説・日本合戦譚』は家康の動きを次のように伝える。
《午前九時すぎ、家康は少し馬を進めて彼我の戦況を視察した。その視るところに従い、使を各隊に馳せて命令を伝えさせた。また、ときどき法螺を鳴らし、鬨の声をあげさせて士気を煽った。
本多忠勝は、家康に意見具申したように、松尾山の秀秋が当分は山を下る意思なしと判断したので、前面の戦闘が激烈となり、東軍がしばしば退却の色を見せるのをみて、進んで戦闘面の中央に進出した。正面の敵は小西、宇喜多隊である。この忠勝の新鋭部隊のため、小西、宇喜多隊はかなり撃破された。
家康は、十一時ごろ、さらに三、四町ばかり進んだ。時に正午に近く、雲間の太陽は頭の真上にある。東軍の諸隊、全力を尽くして攻撃したが、西軍の善戦で打ち破ることができない。のみならず、かえって度々退却を余儀なくされる有様で、勝敗いずれとも定まりがたかった。
これを見た家康は、たまりかねて伝令を馳せ、黒田長政に秀秋の進退を問わしめた。戦闘互角の状態とあらば、家康とても松尾山の秀秋と、南宮山の毛利秀元、吉川広家の向背が大いに憂慮されるわけである。
長政は家康の使者に、
「秀秋の態度はまだはっきりしていないが、もし、彼が応じない場合は、われらは当面の敵を破ってのち、直ちに彼に向かって突撃するだろう」
と答えた。長政は、秀秋を東軍に味方するよう家康に斡旋した仲介者だから、秀秋が違約すれば、死を決して彼を刺すつもりだった》
家康も長政も三成が秀秋に破格の約束をした誓書を届けたことなど夢にも思わない。十四日真夜中のことだったから探索の目もそこまでは届かない。原因がわかればもっと早く手を打ったのだろうが、わからないだけにどちらも疑心暗鬼に陥った。松尾山から動こうとしない秀秋の気持ちがまったく読めないのである。
松本清張著『私説・日本合戦譚』はつづけていう。
《家康の物見久保島孫兵衛も馳せ帰って家康に告げた。
「秀秋には西軍を裏切ってお味方する気配が未だに見えません」
家康は爪を噛んで、「さては、小伜めにたばかられたか」と悔んだ。家康は、気に入らないときや、腹が立つときは、よく爪を噛む癖がある。しかも中山道から上って合流するはずの秀忠軍が来ぬ。
「秀忠はまだ来ぬか」
と家康は旗本に訊いたが、その影も見えない。ここでその三万八千の大部隊が到着したら、どんなに助かるか分らないのだが、気の焦ることであった。家康は木曾路のほうを馬上から伸び上がってはふり返った。まさか、その大軍が信州上田の小城にひっかかって手間どっているとは夢にも思わない。作戦が齟齬するときは、二重にも三重にもなるものだ。
家康はあせって、
「では、秀秋がどっちに向かうか、ためしに彼の陣に向かって鉄砲を放ってみよ」
と遂に命じた。使番久保島は直ちに馳せ到って、この令を伝えた。そこで、東軍の前線銃隊は松尾山に向かって空弾で一斉射撃をした》
関ヶ原合戦において小早川秀秋がキャスチングボードをがっちり握る立場に置かれた事実はだれもが認めるところだろう。しかし、動かしがたいこの基礎事実をきちんと解釈した文献があるかというと、松本清張でさえもが「秀秋には西軍を裏切ってお味方する気配が未だに見えません」といったセリフを無批判に用いてしまうのが現実である。
西軍を裏切る……。
清張がどの文献から引用したか不明だが、西軍の者が「裏切り」というならともかく、東軍の者だったら決していうはずのないセリフである。このセリフを書いた人間の頭の中にある「裏切り者秀秋」というどす黒く渦巻くバイアスまみれの解釈から出た解釈で、まさに「解釈をもって解釈するタブー」を地でいくものだ。正しくは「当方に加担する気配をいまだに見せません」である。このようなことは犯罪捜査でいうところのプロファイリング的に考えれば簡単にわかることだ。
秀忠はまだ来ぬか……。
このセリフもおかしいといえばおかしい。なぜなら、「秀忠は関ヶ原にくることになっている」と頭から思い込んで決めつけてかかったセリフだからである。結城秀康を会津上杉の押さえに残したように、秀忠は上田城の真田の押さえで、がら空きになった江戸を攻められては困るから、中仙道隊を組織したのではなかったか。
そう考えて次のコメントを読むと、
「ここでその三万八千の大部隊が到着したら、どんなに助かるか分らないのだが、気の焦ることであった。家康は木曾路のほうを馬上から伸び上がってはふり返った。まさか、その大軍が信州上田の小城にひっかかって手間どっているとは夢にも思わない」
見込み解釈の恐ろしさが身に染みて感じられることと思う。
で、あるならば、家康の本心は「現れてはならない秀忠が現れたのだから、それに対して家康が取った態度」で判断すればよい。大津において面会を求める秀忠の意向を無視して家康が頑として会おうとしなかったのは、「遅れた」のが原因ではなく、「現われた」のが原因なのである。つい最近まで、『関ヶ原決戦』を書いた私ですら「現われたのが原因」とは夢にも思わなかった。
三成が江戸攻めを断念して関ヶ原決戦に方針を改めたのは、早くて「石田三成が大垣城から行方をくらませた八月二十六日から九月上旬までの間、すなわち関ヶ原の笹尾山であらかじめ何らかの細工をした」ときであり、もう少し早かったとしても大垣城に入った時期より前ではあり得ない。そうした時系列変化を押さえることも考証ミスを防ぐうえでは有効な心得であろう。
私がこれまで「三成が鼻先にぶら下げた利に誘われて秀秋が迷った」と勘違いしたのは、大谷吉継が松尾山側に馬防柵を設けた事実を軽視してきたためであった。プロファイリングという新しく登場した犯罪捜査法に疎かったこともある。だが、プロファイリングのノウハウを援用して考えると、知っておりながら失念している事実のあまりに多いことに驚いた。松尾山を下って真っ先に遭遇する馬防柵は、秀秋にしてみればあまりにでっかい目の上のタンコブである。だから、迷ったのではなく、そして馬防柵が弱るわけがないから、馬防柵と一対の大谷隊の戦力が衰えるのを待ったのだ。
とまれ。
