同様に考えると宇喜多秀家の処し方にもおかしな点がある。秀家の場合は本多政重の取った行動というべきかもしれない。その理由は追い追い述べるとして、ここで少しおさらいをしておこう。
家康が「在々諸々」へ「佐和山を屠察り、大坂に進撃」と触れまわらせたのが、昨十四日午後二時頃とすると、西軍が大垣城を出て関ヶ原方面へ向かったという知らせを受けたのが、十五日午前一時頃、全軍に出陣を命じたのは午前二時頃、自身の出陣は午前三時頃である。考えてみればこれもおかしな話である。夜中の三時に出陣するくらいなら、なぜ、きのうの明るいうちに出陣しなかったのか。
答えは簡単だ。西軍が関ヶ原に陣地を設ける前に到着したら、相手がどう出るか読めなくなってしまうからである。雨が降る中を関ヶ原に誘い出すのが目的の「在々諸々」への触れだったのである。すなわち、関ヶ原合戦のイニシアティブは家康が握っていたのであり、相手がくれたチャンスだから相手の動きに応じて従うだけなのである。
もちろん、みずから進んで袋の鼠となって桃配山へ向かうからには、袋の鼠にならないための手当てを怠る家康ではなかった。南宮山の吉川広家と毛利秀元が麓の安国寺恵瓊・名束正家・長宗我部盛親と一緒になって退路を断ちにかかり、余勢を駆って後方から襲い掛かれば東軍は壊滅的敗北に陥る。だから、後方の押さえは名からして重みを持つ池田輝政でなければならなかった。後詰にも浅野幸長を配した。さらに念を入れて山内一豊と有馬豊氏を桃配山と浅野隊の中間に待機させた。広家が明白に内応を約束していてもこれだけの用心をしたということは、三成の手の内をすべて読み切っていたということである。
日は昇り、霧も晴れて、家康は桃配山から笹尾山に三成の「大一大万大吉」の幟旗を望み、笹尾山の三成は桃配山に「厭離穢土・欣求浄土」の幟旗を遠く見据えていた。ようやく二人は指呼の距離に相まみえたのである。家康が後方対策に磐石の措置を講じてきているとも知らず、三成は笹尾山の高みから勝ち誇る思いで全体の形勢を観望し、楽しむ思いで総攻撃の戦機を計っていた。
眼前の島左近の働きは日頃の期待を裏切らないものだった。
ここで時計の針を開戦当時に戻して左近の働きぶりを振り返っておこう。
いざ日は昇り霧が晴れてみると、左近を待っていたのはこここそ西軍の心臓部とねらいすました東軍の的確な攻撃であった。黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、田中一政らが一斉に鉄砲を浴びせかけてきた。
黒田長政は三成の首級を挙げるために勇猛の将十五人を選抜しておのおのに足軽をつけ一隊を編成して岩手山に沿って展開しながら斬り込む戦機を待っているようすであったし、いくさ上手で鳴らした細川忠興は三人の子息を従えて白兵戦に突入する時期をうかがっていた。宇喜多騒動の後徳川家に引き取られた戸川達安は笹尾山を攻めれば旧主に弓を引く恐れなしと考えたのだろう、勇躍して銃撃戦に加わってきた。
「さては、敵は石田隊が笹尾山に陣取ることを事前に察知しておったか。これでは関ヶ原で待ち受けた意味がない。小人珠を抱いて罪あり、やんぬるかな」
左近は常日頃から大将風を吹かせ一度として勝ったためしのない三成畢生のいくさの場が関ヶ原であったことを悔やみながら、それでも臣たるべしを貫き死に花を咲かすべく奮戦、奇しくも宇喜多旧臣戸川達安率いる鉄砲隊に狙撃されて倒れるのだが、それはもう少し後のことである。
三成は満足して関ヶ原全体に視線を這わせた。
当面の戦場は一進一退で互角、東軍は家康の本陣を除いてすべて戦闘に加わった。西軍は松尾山と南宮山に有力な勢力を温存している。だれがどう見ても西軍が断然優勢だ。
「おや?」
三成の視線が隣の島津陣に釘づけになった。
北国街道を隔てた島津の陣地は東軍主力の猛攻にさらされる笹尾山の陣地とはまったく対照的に無風で、石田隊がどのようになろうともわれ関知せずと黙殺するようすに見えた。
「いったい島津はどういうつもりなのか!」
三成は怒って物頭の八十島助右衛門に命じた。
「薩摩の陣地へ行き、直ちに小西隊に加勢せよと伝えよ」
本当は笹尾山が加勢を必要としているのだが、哀れみを請うような気がして「石田隊に加勢せよ」とはいえなかった。三成が左近討ち死にと聞いたのは助右衛門を送り出した直後であった。
八十島助右衛門は島津豊久の陣地に馬を乗り入れて馬上から三成の命令を伝達した。
「いくさの最中にいまだ戦わずにいるのは義弘殿のお指図によるものか」
「ここはわしの陣地だ。よその陣地のことなど知るか」
助右衛門はむっとして惟新の陣地に向かったが、ここでも相手にされず、仕方なく戻って三成にあるがままを報告した。
「よその陣のことなど知るかとは何たるいいぐさ。直ちに出陣せよ、軍令であると伝えよ」
三成は激怒して、もう一度、助右衛門に使いを命じた。
助右衛門は再度豊久の陣地へ行き馬上からいった。
「軍令を申し伝える。直ちに出陣あるべし」
「馬上から物申すとは沙汰のかぎり、出直して参れっ」
馬上から命令するのは軍令違反であった。豊久は激怒し、刀を抜いて振り上げた。
「下乗せんかっ!」
豊久のみならず武将たちが揃って刀を抜き放った。
助右衛門は惟新の陣地に行く気も失せ、三成の許へ戻って泣きついた。
「島津は軍令を伝えても動こうとはしません」
「刀をもって軍使を追い返すとは……」
三成は半眼になって宙を見据え、怒りに任せて駆け出した。しかし、風を切って走るうちに冷静さを取り戻した。島津が動かなければ笹尾山と天満山が分断された恰好になり、西軍の戦闘能力が減殺されてしまう。三成は心の中で利害損得を計算しながら豊久の陣地に馬を乗りつけた。だが、彼を迎えたのは味方とは思えぬ敵意に満ちた無数の眼差しであった。命令では動かない、これは駄目だ、三成は直感的に感じて下馬し、詰問した。
「軍令をもって督促しておるのに、なぜ、兵を出さぬか」
豊久は伯父の惟新よりも穏やかな性格のはずであったが、三成の尊大な態度に接しているうちにむらむらと怒りがこみ上げた。
「目前に敵なし。さればとて自重しておる。文句あるかっ!」
「敵は必ずしも目前とは限らない。潔く縦横に出でて戦われたし」
「今日のいくさはめいめい自儘に戦い、家名に恥じぬ働きをするばかりである。折角のお申しなれど他家のいくさに関わっているゆとりはござらん」
三成は痛く自尊心を傷つけられ顔面を蒼白にして笹尾山に戻ると総攻撃の合図の狼煙を上げさせた。
だが、おお、何たることぞ。
東軍の背後に位置する南宮山には旗幟が翩翻と風に揺れるのみで合図の狼煙がなく、毛利秀元と吉川広家は動こうともしない。
松尾山も同断……。
「毛利が動かない、関白の座を約束された小早川が、なぜ?」
三成には永遠に解けない謎であった。
大谷吉継が重家を渡せと掛け合っても目的のため頑として応じなかった三成が、かつて毛利輝元が渡した一片の紙切れにこうまで期待し信じ切ってきたという不条理、これもまた永遠に説明のつかない不思議であった。結局、三成が上げた狼煙に呼応して狼煙を上げたのは小西行長と宇喜多秀家の陣地だけだった。
三箇所から上がった狼煙を見て名束正家が出撃を促すために寄越した急使を迎えて、南宮山ではちょっとした小競り合いが起きていた。正家の要請に応えて出陣を触れようとする毛利秀元を制止し、兵の前に吉川広家が立ち塞がったのである。
「動くことは罷りならぬ。毛利殿の兵とて道は開くまいぞ」
秀元は正家の急使に苦し紛れにいった。
「ただ今は兵卒に兵糧を遣わせているさなかなれば……」
後世の史家はこのいい逃れを指して「宰相殿の空弁当」と称した。
広家の理屈は単純であった。
あくまで第三極……。
三成の八月二十四日付書状による出馬要請に応じて、九月十二、三日頃、いざ大坂城を発向しようかというとき、増田長盛が家康に通じているという噂が流れたため、輝元はそれを理由に出馬を取りやめた。関ヶ原合戦を叙す従来の諸文献は家康が流した噂ではないかと憶測を述べているが、家康にはそのようなことをする理由がない。三成が増田長盛に宛てた九月十二日付文書が家康の手に渡ったのは早くても遅くても十四日午後、雨の予報を合図に秀秋は松尾山、家康は赤坂へ移動するという打ち合わせが十二日以前に行われていないと、十四日午後かっきり、しかもほとんど同時到着といった離れ業は不可能だからである。その人の性格からして、また広家の手紙でいってきた内容から考えても、輝元が果敢に決断し迅速に動くことは考えられなかった。
しからば、何びとの仕業か。
噂の効果から推測するかぎり、輝元を第三極から逸脱しないよう意をつくしてきた広家の方針に合致する。十二、三日というタイミングで噂を流すことが可能で、なおかつ動機を持つのは広家だけである。
