雨はやんだが霧は残った


 天候を度外視すれば三成に負ける条件はなかった。

 過去の例になぞらえれば武田信玄が猛追してくる北条氏康を半原の三増原で待ち受けて殲滅した構図と瓜二つであった。

 信玄が小田原城に迫ったのは永禄十二(一五六九)年十月一日のこと。守る北条氏康はあらかじめ米麦を刈り取っておいて、各地の支城から応援の軍勢を呼び集めて内と外から信玄を挟撃する作戦に出た。包囲四日、信玄は利あらずと判断して退却にかかった。

 信玄が退路に選んだのが最短距離の高座軍郡愛川町三増志田峠越えの道筋であった。信玄は小荷駄を捨てて足の運びを軽くし追撃する北条軍があれば途中で待ち受けて叩く考えだった。

 もとより氏康は籠城向きの武将ではない。本来なら「それ」と脱兎のごとく城を飛び出すのだが、今回に限って北条綱成が機先を制して真っ先に追撃戦に出た。氏康を出し抜くほどの猛追に次ぐ猛追である。氏康が追いつかないくらいだから、綱成の手勢のみ突出した感じで進んで後続の大将氏康を置き去りにしてしまった。

 信玄は猛追してくる綱成を半原の三増原で待ち受けた。小田原城を包囲したものの攻め落とすことができずに甲斐へ引き返す兵だから士気が奮わない。追う綱成は満を持しての追撃戦だから平地ならば信玄はこの世の人ではなかったはずなのだが、信玄は半ば自領のようにしている地域の地理をよく心得ていて旗立山と呼ばれる小高い場所に本陣を構えて待ち受けた。絶好のチャンス、このときを逃したら信玄の首を取ることはできない、遮二無二、意気込んで後続の部隊を置き去りにして、綱成はなだらかな斜面に挑みかかった。ところが、あに計らんや、敵と戦う前に地形を敵にまわしてしまったのである。息が上がって休みたくなるところを見透かしたような信玄の逆襲を受けたから、なんでたまろう、助かったのが不思議と思われるほどの大惨敗を綱成は喫してしまった。氏康の本隊が追いついたときはすでに合戦は終っていて、信玄は去ったあとだった。

 三成が構想する関ヶ原決戦は信玄の作戦に長篠で取った信長の戦法を加味したものだったから、だれの目にも西軍の勝ちと映る。二木謙一著『関ヶ原合戦』はいう。

《明治十八年に陸軍大学校の教官として招かれて来日した、ドイツのクレメンス・メッケル少佐は、関ヶ原合戦における陣形をみて、即座に「西軍の勝ち」といったと伝えられている》

 ただし、当日が雨でなかったなら、という条件がつく……。

 東軍の進軍開始は十五日午前二時過ぎ、福島正則と黒田長政を先鋒にして、加藤嘉明、細川忠興、藤堂高虎が関ヶ原へ向かった。西軍の戦闘部隊はすでに関ヶ原に到着して布陣に取り掛かったが、輜重隊の到着が遅れていた。宇喜多隊輜重の最後尾に福島隊の先頭が不意に出くわしたのが午前五時過ぎということだから、進軍の速度はかなり速かったようだ。

 赤坂から宇喜多隊輜重と接触した中仙道と北国街道の辻まで約二里半、それを三時間前後で突っ走ったことになる。雨の降る闇夜にしては並外れた急行軍である。行軍の隊形は福島隊が左側、黒田隊が右側の二列縦隊、それが宇喜多隊の輜重部隊に追突する感じで接触したことになる。福島隊は驚いて停止、戦闘に突入しなかった。なぜなら、開戦は午前八時だからである。敵味方が遭遇しながら、どうして戦闘にならなかったのだろうか。

 後続する東軍の到着と布陣を待つためではなかっただろうか。

 事実、黒田隊は右へ折れてねらい定めたように笹尾山の真正面に布陣した。福島隊も宇喜多隊の輜重をやりすごし、後方を進んでこれまた天満山の宇喜多隊本陣の真正面に布陣し終わった。注目すべきは京極高知隊の存在である。昨十四日午後に赤坂に到着した家康の計らいで大津城に籠城中の兄高次の応援を許されて近江へ向かって琵琶湖岸から狼煙を上げたのだが、生憎の空模様に妨げられた視界が利かなかったため通信不能となったという記録がある。それが関ヶ原の布陣図では福島隊の背後に記されているのである。昨日のうちに関ヶ原に引返して東軍の来会を待ち受けたとしか思われない。

 否、それ以前に、高知隊が琵琶湖岸へ出た経路だが、途中、戦闘が記録されていないから、北国街道を行き来したわけである。そして、赤坂へは向かわずに関ヶ原で待ち受けた。もちろん、来るべき西軍との合戦に備えてである。そうした場合、布陣する場所はどのようにして決まるのだろうか。当然、西軍の真正面である。すなわち、位置を把握している大谷隊の真正面であろう。

 福島隊が高知隊の存在を知って前面を遮断する恰好で戦闘隊形を整えた。最初から藤川台の正面に布陣するつもりだった藤堂高虎は驚くと同時に仕方なく高知隊の右手に布陣するほかなかった。高知隊以外はすべて東軍の布陣図を頭に入れ事前に打ち合わせた位置に陣取ったわけである。すべて視界ゼロに近い濃霧の中での手さぐりのような動作によって……。

 高知隊だけが布陣図を知らされていなかったため、図らずも藤堂隊の邪魔になる場所に布陣してしまったわけである。と、いうことは、京極高知は関ヶ原が決戦場になることを知っていたのだ。だからこそ、連絡が取れず持ち堪えているかどうかわからない大津城へは向かわないで、ここ晴れの戦場へ取って返したのである。

 戦闘が開始されるまであと三時間弱、その間、彼らは何をしていたのだろうか。

 ひたすら待った。

 それしか考えられない。

 これほど際立ったシチュエーションを従来の解説書はまったく見過ごしてきた。結果を知ることがバイアスとして働いた極端な例が関ヶ原合戦なのである。本書も最初は見過ごした。そして、個々の部隊を時系列に追いかけてモラトリアムの三時間に気づいて愕然として、すべてを白紙に戻さざるを得なくなったとき、忽然と疑問が湧き起こったのである。

 それはさておき、以上の記述で、懸案の笹尾山事前工作説が完璧に証明された。芋蔓式に関ヶ原決戦説も証明された。それに異議を唱える向きは、最早、どこにもおられないであろう。モラトリアム三時間の間に、今日に伝わるあのボピュラーな布陣図通りに東西両軍とも布陣が完了した。東軍の配置が意図的であることが証明されたことで、西軍の配置がかなり正確に推定されたことも裏づけられた。考証のまさに劇的瞬間といってよいだろう。

 従来の解説では戦闘が偶発的に開始されたように記述されてきたが、それも覆った。モラトリアムの三時間は東軍だけでなく輜重隊から報告を受けた宇喜多勢の本陣にもあったのだから、その間、秀家はどうしていたのか、という疑問が生じる。

 普通に考えれば、宇喜多隊から各隊に伝令が発せられたはずである。そうでなければならないのだが、実際にはどうだったのだろうか。もちろん、記録がないからわからないのだが、記録が残らなかった事実が資料を作成した江戸時代の史家が関ヶ原合戦の真相を知らなかったことを告発するものである。だから、わからないことはわからないまま先へ進もう。

 宇喜多隊は戦闘態勢に入りながら前方の霧に神経を集中した。

 開戦まで三時間弱、最も早く午前一時頃に笹尾山に到着した石田隊はどうしていたかというと、島左近が陣城の外に布陣するほかない非常事態に直面していた。到着早々、事前に準備した材料を柴や草で覆って隠したと思われる塹壕から取り出して、設計に従って作業に着手したところ、ぬかるんだ削平地の地面がこねられて泥田のようになってしまったためである。

 これではいざというとき足を滑らせて戦えない。

 笹尾山に削平地があったとするのは左近が陣城の外に出た事実と雨から類推した事実であるが、間違いではないと思う。誤算といってこれほどの誤算はなかった。削平地がこのありさまだったとすると、塹壕はさらにひどい状態で五門の大砲を取り出すことはできなかったと思われる。そこへ秀家から伝令が駆けつけて東軍が間近にいることを告げた。前にわからないとしたことを今になって断定するのは左近が陣城の前面に布陣した事実から割り出すことができたからである。したがって、左近が外に布陣したのは午前五時をかなりまわった頃ではなかっただろうか。

 ほとんど混乱に近い感じに陥ったのは皮肉なことに事前に準備したはずの三成の陣地くらいなもので、あとの西軍陣地は前方の霧の中に潜むはずの東軍にいつでも応戦できるように身構えていたに違いない。

 行軍中の東軍の後続部隊以外は時間が経つのがこれほど遅く感じられたことはなかったろう。午前六時頃、小雨になり明るみかけた中仙道をきて、家康が桃配山に本陣を置いた。午前七時少し前、雨はあがったが霧が残った。しかも、濃霧であった。中仙道と北国街道が交差する辻のあたりに布陣した井伊直政がじりじりし始めた。あたりはすっかり明るくなって、ときおり霧の薄れる瞬間に西軍の旗が見えることがあった。しびれを切らせた井伊直政と松平忠吉が抜け駆けの功名を企てて福島隊の脇を通過しようとした。そのとき、福島隊から声がかかった。声をかけたのは福島隊の先鋒の部将可児才蔵であった。

「本日の先鋒は左衛門太夫なり。誰殿にもあれ、先へは通すべからず」

「井伊直政でござる。下野公とともにみずから物見中なり。下野公は御初陣たるゆえ、先隊へ往きて敵合の激しき形勢、いくさの始まるを見物ありて、後学になし給わんと望むもの」

 直政は低く声を押さえて答えながら構わず前進した。

 直後に宇喜多隊に発砲する者があり、福島隊が攻撃を開始した。時に午前八時頃、黒田長政の別働隊十五人、笹尾山の石田隊に襲いかかった。黒田本隊、細川忠興隊、加藤嘉明隊も笹尾山へ進撃を開始した。前面に布陣した島左近隊に黒田長政、生駒一正、戸川達安の鉄砲隊が狙撃を行った。

 福島隊と宇喜多隊は一進一退……。

 三成がいる笹尾山から関ヶ原が見渡せるようになったのは午前九時頃であろうか。晴れていれば遠くから近づく東軍をまず五門の大砲で吹き飛ばし、さらには大砲で倒しそこねた敵を引きつけて鉄砲陣の連射で討ち取るはずであった。ところが、大砲は使えない、鉄砲は濡れて具合がよくない、まごまごする間に敵のほうから鉄砲を撃ちかけてきた。おまけにいきなりの白兵戦である。すべては雨が仇なすものであった。

 しかし、三成にはもう一つ頼みにする作戦があった
 

(つづく)




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