九月十二日現在、三成が家康の居場所を把握していなかったことは、彼自身が増田長盛に宛てた書状によって証明された。九月十四日午後七時以降は彼自身の行動によって家康が赤坂の岡山にいることを知っていたことが判明している。家康の岡山到着は十四日正午のことで、島左近と明石全登が赤坂の東軍に攻撃を仕掛けたのが午後一時から二時頃にかけて、三時頃には大垣城に引き揚げて、夜襲をやるかどうか軍議を開いているから、まだ家康の到着を知らなかった。軍議は紛糾して長引き、夕刻、ようやく物見が東軍のようすを知らせに馳せ参じてきて、家康の馬印が岡山に立っていて、佐和山城方面をめざすと触れ合っているという。三成はもちろん西軍の大多数の武将には寝耳に水の驚きであった。うつけたる体というほかない失態ではあるが、三成のそのときの心の中を正確に述べてやらないと気の毒である。
実は三成の気持ちは一点集中的に毛利輝元に向いていたのである。家康云々ではなかった。一度は棄てた命だ。いまさら惜しいわけがない。しかし、輝元が動いてくれないとこれまで何のためにやってきたのか、まるで意味がなくなってしまう。
三成にとって毛利輝元は大老が五人いる中で格別の存在であった。
秀吉が亡くなり朝鮮から帰還する武将たちを迎えに名護屋へ向かうとき、留守になる大坂を心配して五奉行は家康から誓書を取った。その誓書の文言に三成が修正を加えたことがわかっている。
「太閤様御他界以後、秀頼様へ吾等事無二ニ可致御奉公覚悟候。自然世上為何動乱之儀候而、もし今度被成御定候五人之奉行之内、何も秀頼様へ逆心ニハあらず候共、心こころニ候て、増右・石治・徳善・長大と心ちがい申やからあらバ、於吾等者、右四人衆と申談、秀頼様へ御奉公之事、胸を合、表裏無別心可遂馳走候。太閤様被仰置候辻、自今以後不可有忘却候。各半於干時悪やうに申成候共、無隔心互ニ申あらはし、幾重も半よきように可申合候」
文中「もし今度被成御定候五人之奉行之内、何も秀頼様へ逆心ニハあらず候共、心こころニ候て、増右・石治・徳善・長大と心ちがい申やからあらバ、於吾等者、右四人衆と申談、秀頼様へ御奉公之事」が三成の訂正した部分で、五大老(五人の奉行)のうちの者はたとえ秀頼に逆心を抱いていないとしても増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の四人と心違いがあった場合は輝元をして協力せしめるとしたのである。
石田三成が挙兵の根拠にしたのは実はこの誓書なのである。だから、秀頼の出馬より輝元の来援を何より頼みにしたのである。したがって、七月十二日、佐和山城における打ち合わせの席の吉継の忠告に従ったという記述は、伝聞者の創作であって根拠がない。吉継が三成にいったと伝えられる文言も、かつて三成の部下だった吉継にいえるような内容ではない。三成が下風についたのは輝元だけだから、副総帥格の秀家がいる大垣城の軍議であってさえ三成が当然のように主導したのである。
その文言の修正が物語る事実は三成が対家康のいくさを早くから視野に置いていたということであり、秀吉が亡くなった直後、三成が修正したことに大きな意味があり、極めて重要度の高い物証である。したがって、かつて七騎衆に追われて家康の懐に飛び込んだのもただでは死なないという捨て身もあったであろうが、家康が俺を殺したら輝元が討ってくれるだろうという期待があったればこそであろう。しかし、家康が誓約を守ったことで輝元が立つことはなかった。三成の輝元に寄せる期待と信頼はそのまま温存されて、とうとう九月十二日まできてしまったのである。
そして見事に裏切られた。否、とっくに裏切られていたのだが、三成はそのことにも気がつかなかった。毛利、毛利、輝元、輝元と呪文のように心に唱えるとき、「家康が赤坂にきている」という報告を聞いた。三成は二大誤算に同時に見舞われたのだ。平常心を欠いたとしても仕方のないところだろう。
夜の七時に移動を開始したということは、準備のための時間を差し引くと瞬時の決断であった。しかも、西軍の副総帥宇喜多秀家を差し置いての決断であった。輝元がこないと決まったからには吉継のアドバイスもヘチマもない、「みんな俺の命令に従え」である。
九月十四日深更、闇に閉ざされ雨に降り込められた関ヶ原藤川台の大谷陣地に再び場面を戻すと、時ならぬ三成の来訪につづいて小早川秀秋に渡す誓書に署名を求められ吉継はどのような思いを抱いたのか。
一片の紙切れに託された西軍の運命……。
秀秋は東軍であるというこれほど確かなメッセージはなかった。
もとより吉継は死ぬことしか念頭にない人間である。死に花を咲かすことしか考えないのだから、内心、欣喜雀躍、藤堂高虎・高吉父子への感謝の思いで胸が熱くなったことだろう。
藤川台には松尾山方向に馬防柵が設けられていた事実が、ここで大きな意味を持つ。
松尾山から平岡頼勝が下ってきて三成から作戦をいい含められ、誓書を受け取って再び山上へもどっていくまで小半刻は費やしたはずである。すなわち、午前一時、闇夜で降りしきる雨の中、それから馬防柵を結いまわすのは、状況的にも、作業上の理由からいってもあり得ないことで、馬防柵は事前に築かれていたとみなさないとおかしい。と、いうことは、平岡頼勝は吉継が設けた馬防柵を目で見て戻ったわけである。
松尾山から秀秋が駆け下るとき、真っ先に行く手を塞ぐ馬防柵の存在を知っていたからこそ、秀秋は身動きが取れなかったのである。秀秋はいたずらに逡巡しつづけたわけではなかった。
松本清張著『私説・日本合戦譚』はいう。
《大谷吉継は、最も秀秋を疑った一人だ。吉継は、十四日の夜、秀秋の陣営に赴いて、彼の志を変えさせるため直言を試みた。このとき、秀秋の老臣たちは、傍でいろいろ弁解した。
「秀秋は病のために出馬の機を失し、種々の嫌疑をかけられたが、本心は断じてお味方するにあるから、ご心配下さるな」
「秀秋殿はまだ年若であるから、おそらく佞人のために悪しきように誘われるのであろう。御身たちは、よくこの辺を心得て油断をされるな」
と、吉継は老臣たちを戒めて帰った。しかし、それで安心したのではない。彼はみずから秀秋の裏切りに備えて、その陣を立て直したのである》
吉継と三成が親友だったと勘違いする松本清張のバイアスは不問に付しておいて、この通りだったとしよう。
しかし、「西軍に味方せよ」といいたかったのだとしたら、三成が破格の条件を提示した誓書に署名までした直後の十四日夜に行く必要はない。雨と闇と盲目、身体不自由、輿に乗って、これだけ揃った悪条件を克服してまで松尾山の頂へ行くバカはいない。それくらいなら雨の降っていない到着直後の午後に行くのが正解である。吉継は雨を待っていたはずだし、観天望気を怠らなかったであろうから、なおさらである。
雨……。
これが、関ヶ原合戦を読み解く第二のキーワードである。
笹尾山の土木工作が藤堂側から吉継に事前に伝えられていたとすると、東軍勝利の方程式の解がすぐにぴんときたはずである。方程式の解は「雨」しかあり得ない。何もしらない三成は必勝の策を講じたつもりでいる。それを逆手に取って逆転勝利するための最大の味方が雨なのである。赤土の剥き出しになった削平地と塹壕は泥濘と化して使い物にならなくなり、足を取って動きを封じ障害物に化けてしまう。当然、塹壕に隠してある五門の大砲は取り出せなくなってしまうから無用の長物化してしまう。雨に霧はつきものだから密かに接近して白兵戦に持ち込めば地形の有利不利は関係なくなり、不意をつくだけ東軍に勝ち目が出る、などなど……。
清張のいう「陣を立て直した」というのは馬防柵のことではなく、老臣の意見が分かれるのを確認して、秀秋が東西両軍のどちらに転んでもうろたえないようにしたということだろう。年若い秀秋を誘う「佞人」の語が出るに及んでは、最早、客観的な記述とはいいがたい。事実のみ採用して解釈は捨てる、というルールを設けた意味はこういうときのためであるし、この場合のような主観的文言も捨てる対象になろう。
文書合戦の決め手は利よりも信頼である。一片の紙に書かれた約束、言葉で語られた約束、それを守るか否かはそれを行う立場にいる人間にしかどうすることもできない。垂井宿で重家を待たせるといって約束を反故にし、あまつさえ西軍に誘い込もうとわが子をその道具に用いた三成が秀秋にした約束を守るかどうかは未知数である。しかし、それはあくまで吉継が自分の立場で判断することであって稲葉正成や平岡頼勝になり代わることはできない。三成に成り代わって約束を守るのは不可能である。
ここに吉継が拠って立つ志が決した。
われには信の置ける政重がおり、高虎・高吉がいる。明日ある者は後生に願え、われは武将として名を惜しみ戦場に大輪の花を咲かすのみ……。
