伏見城の落城を見届けて敦賀城に戻った吉継は北国方面で働いていたが、調略をもっぱらにして戦闘は行っていない。八月十日、家康の要請を受けた利長が再び越前を攻略しようとしたときも、北ノ庄まで進出したが、情報戦に徹して直接対決は避けている。
七月十二日の佐和山会談の内容を考えれば吉継はすでに十分な働きをしたといってよい。それなのに関ヶ原に現われるのはどうしてだろうか。
実は吉継は調略に専念しながら家康の調略戦に巻き込まれていたのである。家康は丹羽長重に働きかけて前田利長と和睦させることに成功したほか、藤堂高虎の働きで吉継が率いる京極高次と脇坂安治を味方に取り込んでいた。吉継は北国を無風状態にすることに成功したわけであるが、西軍方の主だった勢力は東軍につくか形勢観望に転じてしまっていたわけである。
松本清張著『私説・日本合戦譚』は次のようにいう。
《西軍は、先に岐阜、犬山、竹鼻の線が東軍によって破られたため、すぐに大垣から使を大坂に出して毛利輝元に出馬を請うた。と同時に急使を越前に馳せ、大谷吉継に京極、脇坂らの隊を伴って関ヶ原附近に来会するように告げた。そして、三成自身は大垣城を脱出して、密かに佐和山に帰り、防禦に専念したのである。
これは、東軍が赤坂に集結して急には大垣城に迫らず、垂井、関ヶ原附近に放火したのを見て、三成はすぐにも自分の居城佐和山城を襲う計画だと早合点したからである。こんなところにも、総指揮官としての三成の狭量さが出ている。
天下の兵力を二分した、東西の大会戦が迫っているというのに、何ぞわが城の大事なる。自分のケチな城などは無視して、全体の作戦に専念すべきだが、どうも三成のやり方はコソコソしすぎている。しかも、大坂の毛利輝元に出した使者は、途中で東軍のために捕えられ、輝元のもとには達しなかったのである。それを三成は、最後まで知らなかったのだから、いよいよ万事、たちおくれている。
大谷吉継は、三成からの急報に接して北陸路の守備隊を残し、その子吉勝、次子木下頼継、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、戸田重政などと共に九月三日美濃路に入り、関ヶ原の西南にあたる山中村に来った》
目下のところ、吉継の藤川台布陣の理由にそれらしく触れたのは松本清張著『私説・日本合戦譚』が唯一である。出典は何なのか、清張の解釈なのか、いずれか知りたいものだが、本人が他界してしまった今、それもならない。ただし、三成が毛利輝元と吉継に来会を要請したのは八月二十四日のことであり、大垣城からコソコソ姿をくらませるのは二十六日から約一週間だから、「大谷吉継に京極、脇坂らの隊を伴って関ヶ原附近に来会するように告げた」とき、すでに笹尾山での工作を脳裏に描いていたのだろう。
時系列物差しで整理すると、「大坂の毛利輝元に出した使者は、途中で東軍のために捕えられ、輝元のもとには達しなかった」というのは本書が冒頭に証拠採用した九月十二日付書簡のことである。吉継の藤川台布陣は九月二日、脇坂安治らが三日だから、清張の記述は時系列が逆になっているし、吉継と安治の行程に前後一日の差があることを無視してしまっている。
前後一日の行程の差は後で触れることにして、当座、強調しておきたいのは清張の記述でも吉継の藤川台布陣がだれの指示によるものか判然としないことである。関ヶ原といっても広い、その広い関ヶ原の中でなぜ藤川台なのか、という疑問が一層強く働く。東軍が赤坂から佐和山城へ向かう通り道だから、その防禦線という見方もないではないが、九月十二日付三成の自白調書の内容と矛盾してしまう。南宮山の吉川・毛利の布陣とのからみをも含め笹尾山の陣城を念頭に置いた布陣と考えるほうが整合性に勝るし無理がない。
三成による笹尾山事前工作説……。
根拠はすでに述べた通りである。ここに気づかないかぎり、関ヶ原合戦はいつまでも記述の混乱と解釈の矛盾から脱け出すことはできない。先へいってあらためて新しい根拠を挙げて証拠固めを行うつもりだが、ひとまず角度を変えて京極高次と脇坂安治らの動きを追ってみよう。
二木謙一著『関ヶ原合戦』は次のように述べる。
《北陸へ向かった高次は、いまだ着陣しないうちに、前田利長が山口宗永の加賀大聖寺城を攻略して、金沢に軍を返したという報に接した。この時西軍の北陸方面指揮官大谷吉継は、いまや岐阜城を降して赤坂付近に集結しはじめているという東軍に備えるため、美濃方面に転出しようとして、高次にも同行を求めた。
そこで高次は、吉継より一日行程だけ遅れて従い、九月二日の夜、朽木元綱が近江の木之本に宿泊した時には、高次は東野にいた。そして翌三日には元綱との打ち合わせ時間どおりに出発して美濃へ向かった。だが、高次は途中で方向を変え、近江の塩津に出て垂見峠を越え、海津から琵琶湖を渡って、同日のうちに大津へ帰り、密書を井伊直政に送って、西軍を大津で阻止することを告げ、防戦体制をとったのである》
吉継と一緒に軍事行動を取る京極高次は井伊直政、脇坂安治は藤堂高虎が連絡を取り合ったわけであるが、吉継当人には誰が交渉を持ったのだろうか。直政か高虎のどちらかだとしたら、断然、高虎である。高次が吉継より「一日行程だけ遅れて関ヶ原に向かった」という事実に答えが隠されている。直政が吉継と高次を一人で説得したとすると、高次が「一日行程だけ遅れて関ヶ原に向かう」のは不可能なのである。当然のことながら、吉継を先行させるのが絶対必要条件なのだが、直政が吉継を先に関ヶ原に向かわせてから高次を説きにかかったら遅きに失して「一日行程の遅れ」ではすまなくなってしまう。逆に早すぎれば吉継に追い討ちをかけられる。だから、高次説得の担当が直政、吉継は高虎としないと成り立たないことなのである。結局、一日行程の差は吉継次第なのであるから、吉継が関ヶ原に向かって発向するのを待って一日遅れて離脱すればよいわけだ。
当たり前のことだが、高次が行程一日ずらすということは、高虎の吉継に対する働きかけが不調に終ったことを意味するもので、そこに重大な意義があるわけである。では、交渉の開始はいつかといえば、吉継が北ノ庄城で加賀金沢城の前田利長を牽制しているときであり、家康が利長に再度の出陣を求めた八月十日以後だろう。本書が前提とする吉継・高虎親友説に従えば、交渉の内容は敦賀城に引返して養生専一にして利長の軍勢をすんなり通してもらえないか、という調略と思いやりから発した内容だったと思う。
吉継はそれを明快に拒否した。しかし、三成が大垣へ来会を求めてくる二十四日まで二週間もある。高虎ほどの者が親友のため簡単に引き下がるはずがない。高吉なり高刑なりを派遣して口説き落としにかかったはずである。
それでも吉継の返事は「ノー」だ。
高刑は懸命に説く。
「高虎が心底思って勧めるのに、治部少に何の義理があって」
「覚悟を決したからには問答無用じゃ」
どこまでも噛みあわずに押し問答を繰り返すところへ、三成から西軍本隊に合流するようにとの軍令状が届いた。二十六日あたりと思う。月末近くになって追いかけるように藤堂高吉がきた。状況が変わったからである。
「笹尾山にかくかくしかじかの工作が行われたからには決戦の舞台は関ヶ原、事前に発見したからには西軍に勝ち目はありませぬ。どうか、敦賀城にて養生専一に願わしゅうござります」
恐らくこのような内容のことをいったであろう。
おのれのせいで運命を一変させた高吉を迎えて、贖罪のつもりで吉継は初めて本心を語り始めた。
一、敦賀城主としての地位にいささかも未練を持ち合わせない
一、長生きできぬからには武将らしく戦場で死にたい
一、ただし、本多政重だけは何としても助けたい
一、そのためにも西軍に属して宇喜多隊に合流しなければならない
以上の内容が語られたはずである。
こうしたシチュエーションを掘り起こすのがジグソーパズル式考証法の真骨頂なのである。吉継が敦賀城に引き返すのは八月三十一日から九月一日までの間だろうから、高吉に与えられた説得の時間はほとんどない。だから、高吉は即断するほかなかったに違いない。
高吉は笹尾山の土木普請を三成の仕業と見届けたうえできた。吉継を藤川台に布陣させておけばおのずと西軍の配置は決定する。すなわち、宇喜多秀家は天満山あたり、他は天満山と笹尾山の中間に布陣するしかなくなる。間に余分な兵力が入らず大谷陣と宇喜多陣は隣り合う恰好になる。政重と吉継が連絡を取り合うのにこれほど都合のよい配置はない。脇坂らは大谷陣と松尾山の間に布陣させれば連携の邪魔にならない。高吉は脇坂らにそれを指図できる立場にある。高吉は高次を無事に大津城へ入れるためにも吉継を関ヶ原に向かわせるほかないと思った。
だが、藤川台は関ヶ原で最も激しい戦闘が予想される。それが難点なのだが、だれよりも吉継本人がそれを望むのだ。
と、なると、答えは一つしかない。
「藤川台に布陣なされてはいかがでしょうか。そのうえで政重殿にいざとなったら刑部様に合流なさるよういい含めていただければ、それがしなり高刑が必ず政重殿の身の安全を確保します」
高吉は迷わず言明した。
政重の身の安全が確保できたうえに、おのれは存分に戦って武将として華々しく討死を遂げることができる。敦賀城と身の安全を保証されたところでもうじき病人として醜い屍を衆人にさらすほかない。吉継としてはどちらがよいか問うまでもないことであった。高吉は吉継のそうした望みを的確に読み取ったのである。吉継は高吉の成長を確かめた思いで目頭を熱くした。
「まこと、かたじけなし。あとはよしなに……」
九月一日、吉継は関ヶ原藤川台を目指して死出の旅に向かった。
京極高次はわざと一日遅らせて東野に移動した。脇坂安治もまた高吉に吉継の陣の天満山側には決して布陣してはならないと厳しくいい含められて、やはり一日遅れて発向した。
こうして舞台はようやく北陸から関ヶ原に移って役者が配置についたのである。
