解釈の過誤を防ぐうえで考証する側に対して強く求められる資質がある。考証の対象になる人物の見識に匹敵する識見を持つこと、解釈上の分別ともいうべきこの物差しを「識見尺度」または「見識物差し」と呼ぶことにしよう。早速、識見尺度を三成に当てると、彼が凡人ではないことは確かであって、秀吉が「才智においてわれに異ならないのは三成のみ」と誉めたのも事実であるが、そういう秀吉自身が類稀な才智を世の中のために発揮した形跡がない。秀吉のはいわば「自己都合の才智」でしかないわけで、それだけに始末が悪かった。大和大納言秀長(および大政所)が尻拭いしている間は秀吉も正体を露見させずにやっていられたが、ちょうど秀長が病床に臥せったあたりから、秀吉は随所で狂態を暴露してしまうのである。そういう認識を持っておく、それが見識なのである。秀長と秀吉のしがらみというか、木下家・羽柴家・豊臣家と改姓をしながら政権の座に座った家族の内情は、いずれ『天下取るおっかさん・大政所の生涯』として書き上げるつもりである。拙著が晴れて上梓の運びになって、お目にとまるようなことがあれば、大政所と秀長と秀吉の関係がよくおわかりいただけると思う。
さて、ところで。
直江状についても識見尺度に照らして考えれば、「痛快極まりなき古今の大文章」的言辞を弄する資格が景勝なり兼続にあるかという視点が生じるはずである。二木謙一著『関ヶ原合戦』が述べるように景勝が慶長四年八月に会津の若松に帰城して以来、神指城の縄張りはもとより領国内の城砦を修築したり、兵備を整えたり、浪人を召し抱えたり、戦闘準備に公然と着手したのは事実である。何のためという目的の問題ではなく、それ自体が弾劾に値する行為なのだから、家康弾劾書といわれる「直江状」を兼続が書いたとすると、それこそ天に向かって唾を吐くようなものだ。直江状なる文書は第三者的無責任さから出る「痛快極まりなき古今の大文章」的過剰な思い入れの発露によらないかぎり、到底、書けるような内容ではないし、兼続自身が「自己の所信を堂々と述べて反駁」などできる状況にもなかった。よしんば本物であったとしても、「万事は下向の様子次第にしようと、家康や秀忠の会津討伐軍を待ちうけるかの如き一句」に対応するものであり、ブラフ以外なにものでもないことを裏づけるものである。すなわち、本物であろうが、だれかの創作であろうが、そのようなことはどうでもよいわけで、むしろ、そうした認識を持てるかどうかが問われるのであり、実は考証ではそれこそが肝腎な決め手なのである。
要するに直江状の真贋論争などは枝葉末節だということである。枝葉末節ばかり論じられて肝腎の核心がすっかりぼやけてしまっているのが関ヶ原合戦について書かれた従来からの歴史書の特色なのである。プロローグでは便宜上二十七に抑えたが派生する疑問点を加えたらその数はどこまでふくらむかわからない。
そもそも三成を美化する視点が生じたのはいつの頃からであろうか。
もちろん、三成を打ち負かして成立した徳川政権の江戸時代ではあり得ない。家康が会津討伐に大坂を発向してのち三成の使いとして現れ毛利輝元を担ぎ出そうとする恵瓊に対して吉川広家が論駁した次のような発言が江戸時代以前の認識だった。
「万一、輝元卿が天下を手にしても、権力をふるうのは治部少ら奉行衆である。そうなったら内府へ帰服するより聞こえが悪い」
これが毛利家首脳の見識であり、諸大名を代表する見方の一つである。
正確を期するために強調すると、「内府へ帰服するより聞こえが悪い」といういいまわしは、どちらに帰服しても「聞こえが悪い」という含みであって、すなわち前述の第三極の見地であり、三成に帰服するのは両者の対比からみて最悪の選択肢という認識を暗に物語っているわけである。
しからば何が最善と思われていたのか。
パターン物差しでいうところの誓約が基準であり、秀吉が臨終間際に五大老から取り立てた「御ひろい様(秀頼)に対し奉りいささかも表裏別心なく御奉公を為し、盛り立て奉りそうろう事」の証文に従うことであった。それが第三極の精神なのである。
ただし、秀頼が淀殿の不義の子であって、秀吉のお胤でないことは今日の常識である。それをだれよりも知っていたのが秀吉なのだから、秀頼に跡を継がせたいための誓書というより、秀頼を材料に用いて「家康にだけは政権を取られたくない」という本心を押し通そうとしたものと思われる。
こうした裏を持つ誓書に従うという観点もまた極めて重要な事柄なので最後の段階でもう一度検証するが、秀吉に差し出した誓紙の文言が現実的でないことは百も承知のうえで従うものであり、したがって、(秀吉が念頭に置かない)三成に味方したのでは(秀吉が常に意識しつづけた)家康に帰服するより聞こえが悪いというのである。すなわち、広家のいいまわしのニュアンスとしては証文の内容に従って秀頼を立てることより、誓約を守る姿勢そのものが最善なのだ。だから、家康は関ヶ原合戦の前段階から戦後処理に慎重で多大に意を用いたわけである。
すなわち、関ヶ原合戦の火種は秀吉晩年の時代に生じ、秀吉の死を契機に燎原の火と燃え上がった、こうした大局観から出発するとわかりやすい。ちなみに今井林太郎『石田三成』は次のようにいう。
《三成は秀吉の死後、家康が忽ちにして誓紙を反故にし、勝手に諸大名と縁組を進めたり、或いは誓紙を交換して私党を作ったり、さらに知行を与えたりすることを苦々しく思い、幾度か家康を討とうと計画したが、いつも用意周到な家康に妨げられて果すことができなかった。しかも却って自ら佐和山に引退しなければならない羽目に陥った。このため三成の家康を憎む心はますます募り、佐和山引退後も家康の動静には常に注意し、家康を討つべき機会を虎視眈々として窺っていた。それ故慶長四年十月家康が前田利長を討つため、北国征伐を企てていることを知るや、事を起さんと計ったが、北国征伐が沙汰止みとなったため、未発に終った。一方家康の方でも三成のこうした動きに対して十分警戒し、このときも家康はその臣柴田左近を佐和山に派遣して、三成の動静をさぐらしめた。三成は佐和山を訪れた柴田左近を丁重にもてなし、脇差一腰と小袖五つを与えて、表面はあくまで他意ない様子を装うた》
同書は別のページで北国征伐宣言前後の家康の動静を詳しく追っている。
《伏見城に移った家康は、病と称して大坂に伺候することを避けていたが、毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利長の四大老を始め、主な大名たちが国許に帰った頃を見計らって、約半年振りに重陽の節を賀するとの触れ出しで、九月七日大坂に赴き、三成の旧邸に入った。この夜、増田長盛・長束正家は家康を訪れ、さきほど帰国した前田利長が、姻戚関係にある浅野長政及び土方雄久と謀を通じ、家康の大坂城に入るのを待って、家康を撃つ計画をめぐらしていることを告げた。このため家康は急いで伏見から兵を召し寄せて警戒を厳重にし、予定通り九日に登城して、秀頼及びその母淀殿に謁し、無事に下城した。しかし不慮の変を恐れて、家康は大坂城内にある三成の兄正澄の邸に移ることにした。正澄は当時堺の奉行であったので、直ちに家をあけて堺に赴いた。家康に迎合する増田長盛らは、さらに家康に対し、引き続き大坂城に留ることが望ましい旨を告げたので、家康はその言を容れて大坂城に留ることをきめ、伏見城はその子結城秀康に留守せしめることにした。しかも正澄の邸は余り要害のところではなかったので、北政所はその住いである西の丸を家康に譲り、彼女自身は京都にある秀吉のもとの屋敷に引っ越した。家康は九月二十八日西の丸に移って、ここに本丸同様の天守閣を築き、慶長五年(一六〇〇)正月ここで諸大名の参賀を受けた》
関ヶ原戦後の手当てまで考える家康が直前にこのような違反行為をするからには、恣意的で確信犯的行動であるのは疑いようがない。三成としては家康がお膳立てしてくれなければ行動を起こせない立場に置かれているのだから、家康としては善悪の尺度ではなく政局的判断から時代の要請に従ったまで……。
家康の動静に大坂にきて泊るときは藤堂高虎邸と決まっていたとするパターン認識を照射すると、次の疑問が湧く。なぜ信頼できる藤堂邸ではなく三成の旧邸や正澄の屋敷を宿舎にしたのか。答えは考えるまでもない。既存のパターンを踏襲したらあえて恣意的に行動する意味がなくなってしまうわけで、短期滞在ではなく「長期滞在である」という暗喩すなわち無言のメッセージだということ。それを理解したからこそ正澄は家康との摩擦を避けて屋敷を明け渡して堺へ移ったのであり、家康シンパの北政所は西の丸を家康に譲ったのである。正澄は三成の肉親、北政所は家康の理解者の立場から……。
先には三成を佐和山に引退させ、今度は兄の正澄を堺に追い払い、そのうえで西丸に天守閣を築いて、そこで諸大名の参賀を受ける。
三成に対するこれ以上の挑発はない。
ただし、引用文中の「家康に迎合する増田長盛らは、さらに家康に対し、引き続き大坂城に留ることが望ましい旨を告げたので、家康はその言を容れて大坂城に留ることをきめ」という記述は正しくない。家康か輝元のどちらかが大坂城にいるのが亡き秀吉が求めた義務であるから、別に他の大老の留守をねらって大坂入りしたのでもなく、長盛がおべんちゃらで家康を引きとめたわけではないことを付け加えておく。
さて、それとはまた別に、今井林太郎著『石田三成』の「慶長四年十月家康が前田利長を討つため、北国征伐を企てていることを知るや、事を起さんと計ったが、北国征伐が沙汰止みとなったため、未発に終った」という引用文をもう一度ここで参照して熟読吟味して欲しい。三成が事を起こそうとしたりやめたりする基準は何か、答えは前述した通りであり、だからこそ露骨に挑発されても、
「三成は佐和山を訪れた柴田左近を丁重にもてなし、脇差一腰と小袖五つを与えて、表面はあくまで他意ない様子を装う」
こうするほかないわけである。
