バイアス思考の恐ろしさ


 家康弾劾の書「直江状」という書状がある。家康はこの文書を読んで激怒し会津討伐を決意したという。ただし、一方で直江状を偽物とする説があり、他方に本物とする主張がある。家康と景勝の間に黙契があったとする新解釈を持ち出した以上、直江状なるものの真贋論争に決着をつける義務がある。

直江状偽物説を主張する二木謙一著『関ヶ原合戦』は次のようにいう。

《俗説では、会津の上杉景勝は三成と共謀して東西から挙兵して、家康を挟撃しようと企てたといわれ、そのために直江兼続が三成に送ったという「直江状」と称する古文書までが偽作されたほどである。

 景勝が前年(慶長四年)の八月に会津の若松に帰城して以来、領国内の城砦を修築したり、兵備を整えたりしたことは事実である。だがこれは、家康を討伐しようと企てたというよりも、秀吉死後の社会の動揺につけこみ、越後の旧領を回復しようと画策したものであったらしい。また当初において、景勝が三成と共謀して家康打倒をはかったという確かな証拠もみあたらない》

 今井林太郎著『石田三成』でさえ次のように記す。

そもそも上杉景勝が家康に対してことさらに強硬な態度に出たのは、景勝の家臣直江兼続と三成の間に、かねて東西呼応して家康を挟撃しようという策謀が練られていたからだということが言われている。しかし景勝がその態度を決定する五月以前において、三成と兼続との間にそのような策謀が行われたというはっきりした証拠はなく、むしろ景勝が家康と一戦を交えることを決意するに至ったのを見て、三成はこれと連絡をとり相提携するに至ったものと考えられる。三成が六月二十日兼続に送った書簡が『続武者物語』に収められ、それには家康が去る十八日に伏見を出発したことを報じて「兼々之調略任存分、天与令祝着候。我等無油断支度候間、来月初佐和山罷立、大坂江可令越境候、云云」とあって、挙兵がいかにもかねての計画であったように記されているが、この書簡の用語には疑わしい点があり、恐らく後入の偽作になるものであろうと考えられる

 ただし、直江状については次のように言及している。

《直江兼続は承兌の書簡に対して、自己の所信を堂々と述べて反駁し、景勝は心中毛頭別心がないのであるから、まず讒者を糾明せられるべきであると述べ、誓紙の提出も上洛もともに拒否した。そして最後に家康または秀忠が会津に下向するということであるから、万事は下向の様子次第にしようと、家康や秀忠の会津討伐軍を待ちうけるかの如き一句を附け加えた》

 直江状といわれるのは僧豊光寺承兌に宛てたものであるが、二木謙一著『関ヶ原合戦』が三成に送ったとしているのは別物なのだろうか。ただし、承兌宛の直江状にも偽作説があるのは厳然たる事実である。

 偽物だとするとだれが直江状を創作したのか。

 直江状を本物と主張する側は客観的姿勢で事実のみを見ないといけない立場にありながら「痛快極まりなき古今の大文章」(渡辺三省著『正伝・直江兼続』)と持ち上げる例が見受けられ、これではみずからバイアスの塊であると白状したのも同然であり、直江状の真偽を云々する以前に考証する側の資格が問題になってくるだろう。

 

 実はそれこそが従来からの関ヶ原合戦の解釈に共通するパターンであり、考証ゲームのルールに反する姿勢であり、だれがどう客観を装っても最初に「三成人気ありき」で、結局は「敗れたりとはいえ痛快極まりなき古今の大壮挙」となってしまうのである。比較的客観的に事実を述べていると思われる二木謙一著『関ヶ原合戦』でさえ「三成は正義感の強い性格であった」などとうっかり書いてしまっているのがバイアスの浸透が尋常のレベルではないことを物語っている。

三成に対する今日の人気が当時の人気に反しているのは歴然たる事実なのだから、そういう点から正してかからないとゲームとしても成り立たない。たとえば、前述の通り秀長死後の秀吉は極めて評判が悪く「殿下が死ぬのを待つほかない」とまで嫌われていたのが事実であり真実だった。同様に三成が正義感の強い一面を示した事実など何一つとしてなく、天領民の徳川人気に手を焼いた明治政府が「敵の敵は味方」という論理で行った「三成正義という虚構のすりこみ」の成果なのである。知らない間にわれわれは学校の先生の講釈や読書、テレビドラマなどから「三成は正義漢」と思い込まされてきた。直江状に対する「痛快極まりなき古今の大文章」といった賛美の感情もまた同根である。考証する側のこうした病根から検証して改めないかぎりわれわれ現代人はバイアス思考の落とし穴から永遠に脱することができないだろう。

さらに突っ込んたことをいえば、関ヶ原合戦の考証を歪めている最大の原因が「吉継・三成親友説」である。吉継が垂井宿にきたところからありもしない友情が考証者の脳裏で蠢き出し、最初から判断を誤らせてしまう。幼いうちから国家的に行われた歴史教育のすり込み効果のゆえであろう、冷徹な分析力を持つはずの松本清張でさえ『私説・日本合戦譚』の中で「三成は、がんらい、吉継とは親友であったが、吉継のほうは、また家康とも親しかったのである」と前置きしたうえで、次のように述べている。

《吉継は三成の懇請を斥けて、いったん垂井の陣に戻った。が、彼は、これまで多年の三成との交誼を考えると彼が気の毒になり、ここに翻然と三成の側に投じる決心になった。

吉継の占いでは、三成必敗と出ていたにちがいない。それを承知の上で、吉継は三成の帷幕に参じたのである。いわば、彼は三成と共死を覚悟したのだ。関ヶ原役を叙す者、ことごとく吉継のこの侠気を特記している》

 目に見える行動の記述に問題はない。しかし、目に見えない心の中の読みが違うのである。正しくはどうかという解明は後述するとして、ここを訂正しないかぎりいつまでも像が歪んで正常に焦点を結ぶことはないだろう。

 以上のごとき傾向ないし偏向もまたパターン認識の一つとしてみずからを戒め、もし、三成に好感するものがいささかでも心の片隅にあるときは、一旦、気持ちを白紙に還元して「三成が今日的人気に値する事実」を探してみる、それぐらいの慎重さを発揮してもらわないとどうにもならない。

 犯罪捜査において見込み捜査が問題視され、世論調査では先入観が忌避されるのはバイアスの恐ろしさを経験的に知り抜いているからである。バイアスはそれぐらい有害なのである。ところが、日本史にかぎっては、教科書が明治時代につくられて以来、ほとんど検証も、それに基づく改定もされないまま今日まで国民的規模のマインドコントロール下にある。こんな現象は世界的にいっても稀有なシチュエーションというべきで、しかも、それが一世紀以上もつづいてきた。

 白紙でランダム、曖昧、手探り……。

 ナンマンダブと念仏を繰り返すようにして、以上の言葉を唱えつづける。そうして融通無碍な基本姿勢をしっかり身につけたうえで、事実関係のみで判断する方法論に立脚しないかぎり、解釈の過誤はつづくであろうし、史料捏造の原動力「過度の思い入れ」を撲滅することなどできはすまい 
(つづく)




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