家康と政重との間には黙契があった


 対象を加えてクロス・モンタージュを多重に試みることにしよう。

 冒頭に掲げた二十六の疑問点の一つ「小西行長、安国寺恵瓊ら三成シンパと石田三成本人がことごとく追捕されたのに対して、宇喜多秀家、本多政重、明石全登、さらには島津惟新ら政重人脈の多くが逃げおおせたのはなぜか」を考えると、本多正信なり家康と政重との間には何か「黙契」があったという推測が成り立つ。すなわち、それが仕官の目的である。

 すると、黙契とは何だったのか。

 会津上杉百二十万石、備前宇喜多五十一万石、加賀前田八十万石と大大名家ばかり渡り歩いたこと、わずかな期間しか仕官しなかった福島家、出たり入ったり我が家のようにした加賀前田家を例外とすると、政重が敵対する側の大大名にばかり仕官したのは戦後対策として不安定要因を少しでも取り除くのが目的であった蓋然性が高い。目的を遂げるためには追捕をかけてはまずいわけである。

 敵対する立場にない加賀前田家からでさえ芳春院を江戸に人質に取っていることでもあり、ましてや芳春院の他界したのちのことを考えると同盟を維持するための布石が何としても必要であった。芳春院に代わる布石が政重の仕官であり帰参であろう。福島家への仕官に至っては東軍方にも仕官したのだぞというアリバイづくりの可能性大であるし、本当の理由は後述する通りである。

 黙契は存在したといわざるを得ない。だから、政重は手加減しないで存分に福島隊と戦うことができた。

 それにしても、政重に関係した人物たちの関ヶ原脱出後の因縁といきさつは不思議というほかない。関ヶ原脱出後、宇喜多秀家が薩摩の島津惟新に匿われたことが一つ。秀家を匿った島津家の罪が自首だけの理由で不問に付され、政重の奔走で秀家の罪一等が軽減され、なおかつ旗本になった花房正成を窓口にして扶持米を送ることまで許されたのがもう一つ。政重が加賀前田百万石を致仕し三万石の扶持をふいにしてまで秀家のために奔走したのはなぜかという疑問がさらにもう一つ。

 最後の疑問にはすでに答えてあるから、まず最初の疑問を解明しよう。

 薩摩の島津家なら薩摩弁という言語の障壁があるために隠密の潜入が難しく隠れ場所として最適であったが、関ヶ原からの逃走経路としては最長距離になり比例して危険の度合いは高まる。それは烏頭坂を突破した惟新についてもいえることであり、惟新と秀家の二例しかないのに二例ともその最難関経路を無事に突破するというのは、偶然としてあり得ないことではないものの奇跡に近いというべきだろう。やはり、ここは手心が加わったとみなすのが妥当である。

 当然、手心はあった。関ヶ原から脱出を図った島津隊の生き残りは牧田川を越えた時点で惟新のまわりに八十騎しかいなかったのだから、家康が攻撃中止命令を出さなければ全滅は免れなかったろう。

 逆もまた真なりで、隠密の監視が困難な薩摩に誰かを送り込むには秀家が最適なわけで、政重が秀家の便宜を図るために派遣する使いに隠密の役割を担わせれば少しも不自然ではなくなる。秀家を匿った惟新から家督を継いだ島津忠恒が幕府に自首したのは秀家が隠密の隠れ蓑に利用されていることに気づいたためかもしれない。

だとすると、秀家を薩摩に送り込める人間は政重にかぎられるわけで、他の者では不自然である。しかし、政重と惟新の接点をどこに求めるか、という問題が浮上してくる。

 隠密の監視の目が届きにくい薩摩の島津もまた最初から戦後対策の対象だったとしたらどうだろうか。当然、政重がからむ。と、なると、接点はいくらでもある。伏見城攻撃のとき、大垣城に集結したとき、関ヶ原に布陣したとき、政重と惟新が会談した記録が残らなかっただけだとしたら……。

 本多佐渡と島津惟新の結びつきはあえて考慮に入れないでおいたとしても、状況証拠としては政重と惟新に接点があったとみなすほかないであろう。政重が西軍に身を置く意義もそこにあるわけで、あらかじめ政重が奔走するという裏づけを得たうえで自首に踏み切った可能性が考えられなくもない。ただし、隠密の隠れ蓑に利用していたとすると、それはあり得ない。政重が三万石の高禄を放棄する理由は幕府の科人の弁護に奔走するからには加賀前田百万石の重職の地位でいるわけにはいかないだろうし、薩摩へ隠密を潜入させるための隠れ蓑を失った事後対策もあったであろう。しかし、こうなってしまうと秀家の使い道はもうなかった。本人が知らない間に徳川家の役に立ってきたのが罪一等を減じた理由であり、かくして八丈島流罪が相当という寛大な採決になったのであろう。当然、島津家に対する処置も自首を理由に不問に付されたものと思われるが、忠恒は腹の中では苦りきっていたに違いなかった。

 枝葉に類する疑問として秀家に扶持米を送るといった前代未聞の措置がなぜ認められたかという問題がまだ解明されていないわけであるが、その窓口となった花房正成を切り口とするとあっさり答えが出てしまう。

 花房正成は慶長四年の宇喜多騒動のとき大坂玉造の宇喜多詮家の屋敷に立て籠もって主君秀家に楯突き、三成の裁定により増田長盛に預けられたが、関ヶ原の合戦当時、長盛が西軍に加担したため高野山に登って中立を貫いた男である。戦後、家康に誘われて旗本となり、備中小田・後月両郡に五千石を知行した。秀家に楯突いた男だから自分から秀家のために何かをしようとは思わないだろうから、政重が背後から花房正成の背中を強く押さないかぎり八丈島の流罪人に扶持米を送るはずがない。流罪人に扶持米を送るといったことは幕府内部の人間が窓口にならないかぎり不可能だから、政重のほうから正成に働きかけて彼が窓口役を引き受けることになったのである。

 なお、扶持米の送り主を秀家正室お豪とする解釈を見受けるが、果たしてどうであろうか。関連なしとはしないが、やはり、発案は政重であり、小早川秀秋の死を受けて岡山城に入った池田忠継のための(戦後対策の一環としての)ガス抜きを目的として図ったと考えるのが自然である。これで三つとも一応説明がついたわけであるが、最後の段階でもう一度検証することにする。

 以上のことからわかるように、家康にとって政重はやはり彼の関係する相手の不安定要因を軽減する絶妙のカードだったことになる。これらを偶然の一致とみなす方法もないではないが、そうするといたるところで奇蹟を認めることになり、方法論的に感心しないやり方になってしまう。日本史からなるべく奇跡話に類する解釈をなくしていくという観点からも方法論的考証法は必要不可欠である 
(つづく)




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