少なくとも家康が小山会議を召集した時点では関ヶ原で戦うことなど三成の頭になかった。では、いつ思いついたのかということになるわけであるが、それは「三成があり得ないと考えた東軍の反転西上」を知ったとき以後であろう。しかし、今、検討を迫られているのは「家康が三成の思惑(上杉討伐軍の関東封じ込め、前後横三方からの挟撃)を読み切っていたならば会津討伐宣言は無謀の謗りを免れないのではないか」という新たな疑問に答えることである。
伊達の向背が定かでないという状況ならば確かに会津討伐は家康の命取りになりかねない暴挙である。しかし、最初から伊達の向背がはっきりしていたとしたら、どうだろうか。身を滅ぼしかねない暴挙はたちまち敵味方を篩い分ける的確な一手に変じるだろう。
政宗は信義を重んじる男だ。情においても俺に歯向うようなことはしない。
家康はそれくらい確かに政宗を信じていた。
かつて小田原合戦のとき、遅参して命が危なくなった政宗を弁護したのが家康だったからである。政宗がようやく重い腰を上げて小田原に現われたのは関白秀吉が「降伏する者をも絶対許さず、長陣になっても敵を干殺しにせよ」という皆殺しの軍令状を発令した直後だった。これまでの不参を敵対行為とみなされ、それを受けての遅参が「今頃になって何だ」とばかりに降伏と解釈されたら、政宗の命はまず助からないところだった。そこを救ってくれた家康に対する政宗の感謝の思いは折りにふれて伝えられたであろうから、協力の約は一片の書状で足りるほど確かだったのである。
伊達政宗の家康に対する全面的協力がなかったら、会津討伐宣言もなかったであろうし、東軍の反転西上は事実の通りには運ばなかったろう。むしろ、政宗の後援があるからこそ会津討伐を宣言したといってもよいくらいである。第五回講座で小田原合戦を取り上げたのはそれも含めてあらゆる面で関ヶ原合戦の底流をなしているからである。
もう一つ、家康にはあらかじめ向背を確かめておく必要のある相手がいた。加賀前田八十万石である。そのためにも次の事実は押さえてかからねばならない。かつて本能寺の変のとき、前田利長も信長に招かれて饗応を受けており、家康と行動を共にした可能性がある。当時、利長は信長の娘を正室に迎え越前府中城を貰ったばかりであった。
信長の娘を閨房に迎えた武将としては、徳川、蒲生、丹羽、筒井、中川などの各氏のほか前田利長、廷臣では二条、万里小路、徳大寺の各氏であった。利長(利勝)以外の婚姻には政略的な意味合いがあったが、利長の場合には信長の覇権がほぼ確立をみているだけにその必要性は認められない。
利長と信長の娘の婚姻がいかに破格であったかは、利家が現役パリパリで能登を領有する大名になったばかりの年に婚姻が成立し、奉行菅屋長頼が預かる織田直轄領越前府中城三万三千石が利家の子の利長に与えられたことでわかる。つまり、誠仁親王が践祚した暁には信忠が征夷大将軍となり、家康が後見、さらに利長が信忠の脇侍となって支える役割を付与されたと理解せざるを得ないシチュエーションだったのである。
岩沢愿彦著『前田利家』(吉川弘文館)は次の事実を告げる。
《前田利勝が信長の娘を娶った年は、ちょうど前田氏が能登一国を領知した年に当る。玉泉院と結婚した利勝は、前田氏が能登に遷ってからも越前府中に止まったと言われるが、おそらく利勝は織田家の奉行菅屋長頼に渡された越前府中に詰め、やがて府中三万三千石を与えられたのであろう。すると前田氏は加賀の柴田氏を挟んでその前後に置かれたことになる。信長がこの利勝夫妻を京都に呼んだのは、中国地方に出陣しようとする際であり、この時三河・遠江の徳川家康や甲斐の穴山梅雪も上洛している。中国に大軍を移動するに臨んで、東方地帯有力の大名を京都に召集したのは、あながち新知拝領の答礼をさせるばかりではなかったように想像される。
利勝は玉泉院と上洛の途中、近江の瀬田付近で信長の小者に逢い、明智光秀の謀反と信長の戦死とを聞いた。そこでとりあえず譜代の奥村次右衛門と恒川久次に託して玉泉院を尾張の荒子へ退避させ、自分は安土城へ入った。そして蒲生賢秀の兵と合流して一旦蒲生郡の日野城へ退き、光秀が討伐されてから府中に帰ったという。この間の利勝の行動には異説が多く、的確には知りがたい。しかし明智光秀の行動は、六月六日の黎明から午前九時ごろまでに本能寺と二条御所とを攻め落とし、その夕方にはもう近江の瀬田を攻め、中二日おいて五日には安土城に入るという程迅速だったから、利勝のほうでも思い切った行動を取ったことだろう。彼が非常に危険な状況にあったことは「あつち(安土)御さいなん御のがれ候」という文言で確認されるが、この時、利勝に従っていた新参者や輿舁き人夫たちは大事を前にして逃亡した》
安土で饗応を受けたのは家康だけではなかったのである。
文中「この間の利勝の行動には異説が多く、的確には知りがたい」とあるが、歴史検察官の立場としては「異説」を取りたいところである。利長が安土城に入ったとしたら尾張荒子まで道中の危険に長くさらしてまで玉泉院を退避させる必要はない。光秀が五日に安土城へ入ったというのはあくまで結果だから、事前の段階では安土城に退避するのが安全策の第一であり、それならば夫婦揃って入るべきである。それでいながら、玉泉院を尾張荒子へ退避させたというからには、そうせざるを得ない事情があったのだ。
ただし、越前府中ではなく、なぜ、尾張荒子だったのか。
なぜ、利勝の行動が不明なのか。
今となっては埋めようのない空白部分であるが、わからないのだから仕方がないといって放置してはおけない。まず考えられるのは夫婦して尾張荒子へ退避することだけはあり得なかったということである。岳父を襲った奇禍を告げられて、利長はさらなる情報の収集に走ったであろう。この場合、自分は瀬田近辺に留まるが玉泉院は先に退避させるのが常識である。
では、越前府中か。
山深い北国街道は危険が大きい。比較的平坦で迅速に駆け抜けられる中山道から東海道という経路が最適と思われるし、利長の念頭に本多正信が家康一行のために避難路として確保した裏白峠、信楽、丸柱ルートがあったとすると、荒子で落ち合う考えにも合理性が生じる。
では、なぜ、玉泉院も一緒に行動しなかったのか。
時間勝負のとき、家康の到着を一緒に待ち受けるより、当座、玉泉院だけでも先に落とすのが保護者たる夫として自然な思いであり、配慮であり、対処法というものであろう。いずれにしても、あらかじめ避難路を確保するといった芸当は秀吉と光秀に対する警戒心を前提にしないと成り立たない。本能寺の変の実行犯は光秀だが首謀者は秀吉という見込みで信長も家康も利長も警戒しながら行動したと前提してかからないと、当時、光秀と信長の不必要にもたついた動きに説明がつかなくなってしまう。供立が三十人しかいなかった事実から考えて、信長には本能寺から先へ行く気はなかったであろう。常に光秀を先行させて警戒しながら距離を保ちつつ本能寺へ入ったところを襲われたのだ。まさか光秀が反転して襲うとは信長も予想していなかった。最後の最後の段階でのまさかの油断、だから、信長は「是非もなし」と後悔まじりに反省の弁を口走ったのである。
家康も光秀が丹波亀山城へ移ったのを確かめてから堺へ入った。幼い妻を連れて足の遅い利長も安心して瀬田まで行った。ところが、一大変事が起きた。あれほど用心し警戒しながら進み、やれやれと気を許した直後だけに緊迫の度は一気に高まった。利長は家康の避難路を利用する前提でひとまず妻を尾張荒子へ落とし、自分はなお情報収集のために留まって、宇治田原で家康と合流したのではなかろうか。利勝に従っていた新参者や輿舁き人夫たちは大事を前にして逃亡したということだが、そうではなく主従関係の薄い彼らを危険視して召し放ったのだろう。だから利長の行動が不明なのであり、本人自身も語らなかったから伝わらなかったということになるわけである。
家康と利長の隠密裏のきずながかつての伊賀越えで生じたとしたら、徳川家と加賀前田家の特別な紐帯がすでに存在した一つの理由づけとして蓋然性を持つ。だから、家康が会津討伐に先んじて加賀討伐を宣言したとき、利長は景勝のように過激に反応しなかった。三成に籠絡された能登侍従利政という爆弾を弟に持ちながら、和議の使者として分別人の横山長知を家康のところに派遣した。長知は後述の本多政重と一緒に執政として加賀百万石を支える男である。また、このときの前田家の対応に大谷吉継が関与したとする文献もある。
それはさておくとして、長知に対して家康が突きつけた和議の条件が「アメ」と「ムチ」であった。アメは秀忠の娘珠姫を利常の正室に迎えよという申し入れで、ムチが芳春院を人質として江戸へ差し出せという要求であった。芳春院は利長の生母であり、利家存命中から加賀前田家の柱石であった。家中としては絶対に受け容れられない条件であり、何より本人が承知すまいと思われた。しかし、芳春院は使者横山長知を介して国許の利長に申し送った。
「侍は家を立つることが第一、わたしは年も取っているし、覚悟もできている。この母を思うがために家を潰すようなことがあってはならぬ。つまるところ、われらをば捨てよ」
実際は江戸へ向かうときにいったことばだが、常に変わらぬ心がけでもあろうし、けだし名言というべきか。
