内大臣徳川家康の会津討伐宣言が石田治部少輔三成の挙兵を誘う隠れたメッセージ であったとすると、三成がそれを家康打倒のチャンスと受けとめたのも事実である。だが、お互いに相手を倒せる機会だけでは行動に移らなかったのも厳然たる 事実。奇しくも二人とも同じパターンを証明してみせた、その決定的瞬間を再現してみよう。
松本清張は『私説・日本合戦譚』で家康側と三成側の本音が出た決定的瞬間を次のように見事に描き出した。
まず家康側から……。
《朝鮮出兵中は、加藤清正と小西行長とが反目していた。小西行長も根っからの武将 ではなく、泉州堺の薬屋の息子だ。だから、武将たちには薬屋とか町人といってバカにされていた。事実、朝鮮での小西の働きは批判される行動が多かった。そ して、帰還後、この朝鮮役の賞罰に関して二人の間に確執が起った。加藤清正、黒田長政、細川忠興、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政など、いわゆる 七将は、三成が軍目付と謀って、自分たちを秀吉の前に讒訴したと考え、よけいに三成憎悪の炎を燃え上がらせた。
この七将が、前田利家を看護中の三成を殺そうとしたことがあった。しかし、三成は利家の看護に邸内に入りこんで手がだせなかった。が、利家が死んだ夜、彼らはその三成殺害を実行しようとした。これを知る者があり、三成に密告し、また三成の親友佐竹義宣にも報らせた。
義宣は三成の屋敷に行き、彼を女乗物に乗せ、まず宇喜多秀家の屋敷に送り、護衛をつけて逃がしたが、その前途には危険がせまって、三成の安全な場所がない。このとき三成は敢然と家康のもとに飛びこんでいったのである。
三 成としては死中に活を求めた行動で、七将の意表をついたわけだ。しかし、三成には、家康が自分を殺すことはないだろうという確信があったろうと、多くの史 書は伝えているが、それは結果論であって、このときの三成の心中は、生死五分五分の目算ではなかったろうか。家康が自分を殺さないという保証は、どこにも なかったのである。
現に三成が救いをもとめて飛びこんだ夜、家康は、その参謀、本多正信を呼んで三成の処置を訊いている。
正信はそれに答えた。
「いま石田を殺すのは容易ですが、もし、この時期で石田を殺せば、大名連中は勝手な熱を吹くでしょう。しかし、彼を助けておけば、諸大名は三成憎しでかならず一致して殿にお味方するでしょう。いま石田を殺すのはもったいないですよ」
家康は、それを聞いて、
「実は、おれもそう思っているところだ」
と大いにうなずいたという。
つ まり、正信のいうところは、諸大名はいま三成憎しでかたまっている。彼らの共同の敵である三成を今、消してしまえば、七将の目標がなくなり、自我に返っ て、かならずしも家康に味方するとは限らないというのである。以上の話は「関原記」に出ているのだが、真偽は別として、家康の心理は出ている。
こ うして家康は三成を助けて、彼の居城佐和山に無事に帰らせた。ただし、家康も、三成が関ヶ原において、西軍の総指揮官的な存在になろうとは、夢にも思わな かったにちがいない。ただ、せいぜい、彼を生かしておけば、この謀略好みの男が、いろいろと策動して世を騒がしてくれ、ますます、こっちに有利になると判 断しただけだろう》
三成側については次のように記す。
《ところで、家康が大坂を発向して、近江水口に到着するまえのことである。三成の謀臣島左近が三成に進言した。
「今夜、家康は、水口に泊るそうです。すぐさま、家康の館に、夜討ちをかけたらどうですか?」
三成は、それを聞いて、
「それにはおよぶまい。かねて長束とは示し合わせておいたから、彼が水口で謀を行うだろう」
と、答えた。島は納得せず、
「天狗も鳶と化せば蜘蛛網にかかる譬もあります。今夜の機会を逃さず、ぜひ決行なされ」
とすすめたが、三成は愚図ついている。
そ こで島は、自身で三千人をひきい、水口の近く、葦浦観音寺のあたりから、大船二十余艘を調達して水口まで押寄せた。すると、家康は、水口には泊らず、その 夜のうちに通過したと聞き、島は地団太を踏んで引返した。この三成の優柔不断さを、あとで大谷刑部が大いに批判している。
さ て、三成は家康が下向するまでは、さあらぬ体でおとなしくしていた。彼は隅東権六という者を使として家康のもとに行かせ、このたびの上杉征伐にはお供した いが、隠居のことであるから、息子隼人佐に人数をそえ、大谷刑部少輔といっしょにお供させます、と申しでている。家康はこれを了承したが、家康とても三成 のこの申し出が詐術だくらいは、とっくに読みとっている。家康は肚の中でせせら笑っていた》
ま わりは殺すチャンスなのだからやるべしと躍起になるのに本人は確信犯的にわざと見逃してしまう。どちらも同じパターンを示したことで、家康も三成も単に相 手を個人的に殺すこと自体は目的としないで、連理の枝ごと一蓮托生に葬り去ることに目標を変換した事実が炙り出しになった。どちらも相手を「敵味方に色分 けするリトマス試験紙」として利用したのである。
以上のパターンが家康と三成の唯一の共通項であり、あるいはまた、家康嫌い、三 成憎しで団結した周囲との決定的な違いであり、なればこそ家康は三成を殺さず、三成は左近の水口夜襲策に賛同しなかった。とりわけ三成にとっては家康を殺 しても自分をつけねらう七騎衆を始末しないかぎり身の安全はなかったわけだから、あくまでも一網打尽に討ち取る機会を待つほかなかったのである。身の安全 策は七騎衆以外の大名を可能なかぎり数多く味方につけて家康と一緒に戦う構図に持ち込むのが必須の条件であり、それこそが挙兵の動機であり、家康を殺すと いうだけのための単独行動にはまったく意味を見出せなかった。左近の作戦行動も確かに一理あるのであろうが、そういうわけで三成は評価しなかったのだろ う。
家康が三成を殺さなかったのは彼のこうした運命的な構図が読めていたからであろうし、あえて仇敵の懐に飛び込んでいった三成もまた家康が望むところを読み切ったからでもあろう。
「どうだ。殺せるものなら殺してみろ」
三成には家康は殺さないという確信が九分九厘あったにちがいない。
関ヶ原合戦の前段階にはこうした腹芸が随所にちりばめられており、考証する側がそこに気づいて心理研究まで踏み込まないといけないという点に考証のハードルがある。
松本清張『私説・日本合戦譚』は次のように喝破する。
《三成は七将に追われて、危ないところを家康に助けられ、居城佐和山に引込んでい たが、しきりと城塁を修復し、将士を招いていた。しかるに、いまや家康は、みずから大兵をひきいて大坂から関東に赴いている。この機逸すべからず、彼は、 かねて直江山城守を通じて動かしていた、会津の上杉景勝と謀り、家康を挟撃するの態勢にでた。
このときの三成の胸中は、まさに天下の大博奕、乾坤一擲の大勝負どころだったろ う。彼は寺の小坊主出身にすぎぬ。以来、ひたすら官僚の道を歩き、秀吉の寵愛をうけたが、この履歴が武官派に対し、彼にどのようにコンプレックスとなって いたかしれない。彼からみれば、武将連中はいずれも頭のわるい荒武者にすぎない。しかも彼らは、その門地家格を自慢にして、三成を蔑視してきた。三成なら ずとも、いわれのない不条理であり、屈辱感である。
その上、彼は秀吉という大黒柱を失ってからは、まったく天涯孤独、その権力の座 からもすべり落ちた。太閤が生きているときは、ヤレ、石田殿、ヤレ治部殿と追従していた武将たちが、秀吉死後、掌をかえしたようにそっぽを向いたのも、腹 にすえかねたにちがいない。よし、それなら、おれでも家康と大勝負できないことはない、権力の鼻息をうかがってウロウロする腰抜けの武将たちに眼にもの見 せてくれんと、憤慨したであろう。
また、彼のクーデターの裏には、成功を信じるだけの計算があった。彼はおのれの才能を信じ、手腕を自負していた。
彼がどれだけ秀頼のためを思って、家康討伐の決心になったかは、はなはだ疑わしい。彼は挙兵の総帥に秀頼を戴かなかった。ただ、そのスローガンとするところは、秀吉の遺訓を無視する家康への非難と弾劾だった。
この家康糾弾は、秀頼への忠義に通ずるとはいえ、それはどこまでも漠然たるもの で、三成のかかげる錦の御旗は、家康の背信と専横への攻撃だけだった。それゆえに関ヶ原役で秀頼の手兵は動こうともしなかった。三成もあえて大坂と連絡し ていない。大坂の中立態度は、東西どっちが勝つか分からないための、形勢観望でもあった。いや、むしろ、大坂方としては、両軍が戦い、共に疲弊するのが、 最大に望ましいことではなかったろうか》
だれもが大坂イコール西軍と錯覚する現状で、松本清張が唱えた東軍・西軍・大坂 城の三極説は実に卓抜な大局観であり示唆に富む。大坂方という独立した勢力を中立の立場に置く考えは至って斬新で、三極説があってはじめて大坂方の「鵺 (ぬえ)的行動」が浮上するのである。家康にしてみれば秀吉の遺訓への違背はあくまで三成の家康糾弾への意図的な材料補給であって、信長にみせた信義が本 来であり真骨頂なのだから、大坂方の淀殿が秀頼を動かして秀家を西軍に送り込んだり、西軍の伏見城攻撃を傍観したり、そして、遂には鵺的衣を脱いで大津城 攻撃を敢行したことは許しがたい態度であった。豊臣家戸当主秀頼は天下に号令する立場にあるのだから何かに掣肘を受けることはないわけで、西国に居城があ るためやむなく西軍に加わらざるを得なかった島津惟新や小早川秀秋とは同日には論じられないし、第一、次第に西軍へ傾斜の度を高めたのは大坂方の大失態と いうべきではないだろうか。
何が大坂方の見通しを誤らせたのか。
こうした大坂方の視点を加えることで、このたびの考証はそれなりに厚みを得たのであり、実に「清張様さま」というほかない。