失明し歩くこともできない重体の吉継を戦場に駆り立てたのは何か


 疑問中の疑問が目が見えない、立ち歩きできない、家来が担ぐ輿に乗って移動するほかなかった大谷吉継が、なぜ、関ヶ原に参戦したのかということである。

 現代のわれわれは大谷吉継が関ヶ原に参戦した事実を知り、西軍の将として善戦し、潔く自決を遂げた結末をしっかり認識しているために、疑いを差し挟む余地を持たないでいるわけだが、仮に生きていたとして当の吉継はどう説明するつもりだろうか。

「ちょっと、待った。一応、一千の兵を従えているが、俺は内府殿に義理があって、たとえかたちだけでも会津討伐軍に加わろうと考えて垂水宿にきただけで、まさか関ヶ原で内府殿を敵にまわして戦うことになろうとは夢にも思わなかった」

 垂水宿にきたときの吉継ならば、必ずこういうはずである。

 タイムスリップして、私は吉継に面会して質問した。

「すると、持ち城のことも、子孫のことも、すべて捨て去るようにして参戦した、というわけではなかったのですね」

「いや、それは本当だ。だが、まさか関ヶ原で死に花を咲かせることになろうとは夢想だにしなかった」

「しかし、武人らしく戦場で死にたい、そのために城も、子孫も、何もかもうっちゃるなんて、そんなのは武人のエゴでしかないと思いますがね」

「何といわれようと構わぬ。内府殿に対する義理はそれほどに重い」

「ははあ、するてえと、天正十七年のことをいわれているわけですね。十一月に駿府に家康を訪ねて、北条を滅ぼした暁には関東を進呈するから東海の城を織田信雄に明け渡して欲しい。そのためにも先鋒を受け持ち、留守城には大和大納言秀長卿を入れるべし、この条件を呑むように迫った」

「あのとき、俺は死を覚悟した。だが、内府殿はこういった。条件を呑まねばお互い困ったことになりますな、と。内府殿がいわれた意味が、あんたにわかりますか」

「もちろん、わかります。大政所、大和大納言ともに病の床、これからは関白秀吉の好き勝手となれば、奴のねらいは家康の首に決まっているではありませんか。小田原合戦は関白対北条のいくさではなくて、関白対家康のいくさでしたからね。家康が怒ってあなたの首を刎ねようものなら、待ってましたと関白は駿府に攻め込む魂胆でしたが、家康はあなたにとって最も望ましい答えを出した」

「そうです。この世にないはずの身が生きながらえただけでなく、ようやく念願かなって敦賀城の主となったわけですから。それにつけても憎いのは殺され役を俺に押しつけた治部少、関白秀吉……」

「そのひとことを聞きたいばかりに、私はタイムスリップしてあなたに会いにきたのです。ありがとうございました」

「まあ、お待ちなさい。せっかく時空を旅して参ったのだから、そんなに急いで帰ることはないであろうが」

 私が現代に戻ろうとすると、吉継が引き留めた。

「どうせ聞くなら全部聞いてほしい。一部始終を語るから、後世の史家とやらに本当のことを伝えてもらいたい」

 願ってもないことだから私は姿勢を正して聞き役にまわった。

「内府殿はすでに江戸におられるというのに、俺はまだ中山道垂水宿で治部少の倅がくるのを待っている。うっかり遅れたのでも、まごまごしていて遅くなったわけでもない。治部少の最新動静を伝えるためにわざと出発を後らしたのだ」

「なるほど、なるほど。すると、待ち人は来ず、あなたを佐和山城に迎えるための使者がくるとなると、けしからんどころか、あなたには好都合なわけですね」

 そういっている間に、佐和山城から迎えの使者が到着した。吉継が驚いて私にいった。

「貴殿がいわれたように、早速、迎えの使者がきた。これから、それがしが、どのようなことを経験するか、貴殿にはお見通しなわけですな」

「直近のことまではお教えできますが、それより先はお話しできないのです。私はここでお待ちしておりますから、どうぞお出かけになってください」

 こうして吉継は佐和山城に向かったのであるが、話を進めるために吉継が行って帰った場面に描写を飛ばすとしましょう。

 佐和山城から戻ると吉継はひどく憤慨していった。

「治部少は俺に手紙を書いてくれという」

「真田昌幸に宛ててですか」

「左様。そっちがそのつもりなら、こっちも相応の応対がある。一千の兵をどのように動かすか、実際に見せてやったうえで、墓穴を掘らしてくれよう」

「そのようにお怒りの理由は何ですか」

「内府殿がそれほど憎いなら、左近が勧めたとき、なぜ、襲わなかったのかと詰ったところ、家康だけ殺しても俺は助からない。福島市松らと一蓮托生で滅ぼさないかぎり、俺は枕を高くして眠れないとぬかしおった。だから、見逃したのだと……」

 私はわざと知らないふりをしていった。

「しかし、一千の兵で佐和山城を落とせるとお考えですか」

「違う。佐和山城では意見をしたが、考え直した。いつか治部少が加藤清正ら七将にいのちをねらわれて内府殿の向島の屋敷に逃げ込んだとき、やはり、内府殿は治部少を殺さなかった。だから、今、俺が治部少と戦っても喜ばない。治部少に味方して、治部少に味方する者を一つ所に集めてやったほうが、内府殿は喜ぶと思う。この際、手紙でも何でも書こう。内府殿に敵対もしよう。それがわしの内府殿にする恩返しだ。否、わしにしかやれない恩返しとまでいっておこう」

「同じことです。味方になるのを拒んで戻ったあなたが一千もの軍勢を動かすのですから、当然、三成は敵対行為と勘違いしますよ」

「あらかじめ平塚為広を使いに遣って、治部少の誘いに呼応して伏見城攻撃に向かうことを伝える。その点、ぬかりはない」

 ここまで語れば十分であろう。

 最初に垂水宿にきたときの吉継は家康のために働くつもりだった。その気持ちは最後まで変わりはなかったのだが、佐和山城に行き、親友の島左近から水口宿襲撃を三成が拒んだと聞いて、かつての向島屋敷への避難に照らし、水口襲撃回避をヒントに反徳川連合を三成のまわりに束ねて配することが家康のためになると理解したのだ。

 ここからの吉継の行動は歴史に記す通りである。吉継が七月二日の時点でなぜ関ヶ原藤川台に早々と布陣し、馬防柵まで構築したのか、三成の指示以外考えられないことなのにそうではなかったというのも、これで説明がつくし、石田三成が大垣城から大坂城にいる増田長盛に宛てた十二日付の書状で「長束正家・安国寺恵瓊は、このたび、伊勢方面より出動した中国衆はもちろんのこと、大谷吉継および御弓鉄砲衆までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ」と見当はずれなことを述べている事実とも整合する。

 吉継は最初のうちは家康のために諜報活動をする程度のつもりで、一千の兵はそのカムフラージュのために率いたにすぎなかったのだろうが、敵として華々しく働けば働くほど家康のためになると気づいたから、一転して城も子孫も、そしてわが身をも犠牲にしたのであろう。

 ところが、明治維新政府史観の「徳川悪、その敵の三成は善」のお手盛り指針によって正義の使徒に祭り上げられてしまった。これによって、嘘でも、本当でも、英雄視されるという稀有なことが起きてしまったわけである。

 ああ、何て日本史はおもしろいのだろうか。

つくづくと私は思う。

 重体の吉継が関ヶ原まできたのは、増田長盛に宛てた十二日付の書状が物語るように人数集めに躍起な三成に呼ばれたためで、三成が呼んだのは吉継ではなく千余の手勢だったのである。したがって、「武人らしく戦場で死にたい」という願望には「みずからも演出に手を貸した天下分け目の合戦の場へきたからには」という注釈がつく。武人のエゴなどではなかったのである 
(つづく)




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