そこのけ、そこのけ、おかしな解釈、罷り通る


 閑話休題。

 本講座「その6」で述べた次の言葉を再掲する。

《三成が藤川台にきて平岡政勝と面会しているとき、松尾山に東軍方の目付役がいた事実を問題視しない考証とは何であろうか。東軍方の目付役が松尾山に到着したのはいつのことだったのだろうか。東軍の本多忠勝と井伊直政が秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に与えた『九月十四日付誓書』の存在意義がここで生じる。すなわち、目付役は九月十四日に書かれた誓書を持参して、明るいうちから松尾山に詰めていたことになるからである。これをまだ疑問のレベルにとどめるなら、疑問は冒頭に掲げた二十六より増えつづけて、どこまで広がるかわからない。到底、私一人の手には負えない》

 私だけでは手に負えない理由の1つが、専門家のカベである。私は少ない機会ではあるが、新聞にも、雑誌にも、団体の季刊誌にも、かなり異説を書いているのだが、今もって反論に接したことがない。反論大歓迎で、「逆ねじをくわせてやろう」と、むしろ待ち構えているのだが、徹底的に無視されて今日に至っている。

 理由の1つが小説家というレッテルにある。小説家はウソを書く。本当のことを書くよりも、おもしろくて感動的な作品に仕上げることが優先される。しかし、小説家のウソがウソであると判定することが許されるのは、日本史の考証がきちんと行われているという条件が満たされている場合である。

 たとえば、読売新聞平成25年8月7日付朝刊文化欄『戦国武将の実力』において、静岡大学名誉教授小和田哲男氏は「三成に殉じた『義の人』」のタイトルで大谷吉継を取り上げ、次のように書いているので、恰好の実例として引用する。ただし、前半部分は省略して、後半部分のみの引用である。

《吉継は、秀吉の使者として徳川家康と会う機会が多くあり、家康の人物とその器量を認めていた。秀吉死後、慶長5年(1600年)の家康の会津上杉攻めのとき、それに従軍しようとしたことにも明らかである。

 ところが、吉継が上杉攻めに向かおうと美濃(岐阜県)の垂井まで出てきたところ、三成から佐和山城(滋賀県彦根市)に呼ばれ、そこで挙兵のことを打ち明けられたのである。このとき、吉継は三成に思いとどまらせようと説得したが、三成の決心が固いことを知り、また、盟友を裏切ることはできないと自らも行動を共にする結果となった。「義の人」といわれるのはそのためである。

 吉継は奉行人として仕事をこなしただけでなく、人間観察眼を持っていた。関ヶ原合戦では西軍に属す形にはなったが、小早川秀秋の態度には不安を抱いており、自ら進んで、小早川秀秋の陣する松尾山の麓に陣を置いた。

 合戦の当日、吉継が危惧した通り、秀秋の寝返りによって自刃させられることになる》

 小和田氏には申し訳ないが、こうも都合よく、タイミング的にもぴったりに格好の記事が載ったものである。

 まず、初歩的な「事実の誤認」から指摘しよう。

 大谷吉継が藤川台(松尾山の麓)に布陣したのは9月2日である。それから遅れること12日、小早川秀秋が松尾山にきて頂上の砦に陣を置いたのは関ヶ原合戦前日の14日である。事実に即して書くとしたら、「小早川秀秋は、麓に(自分と同じ隠れ東軍と知らされている)大谷吉継が早くから陣地を構築しているのを十分に認識したうえで、自ら進んで、松尾山に陣を置いた」でなければならない。

 おまけに、松尾山には家康の側近 本多忠勝と井伊直政の家来(大谷吉継が見て見ないふりをして道を通した)がきており、秀秋の家老稲葉正成・平岡頼勝に『九月十四日付誓書』を持参していた。いつきたのかといえば、『九月十四日付誓書』の日付がアリバイで、14日以外ではあり得ない。と、いうことは、本多忠勝と井伊直政、そして、だれよりも家康は小早川秀秋が14日に松尾山にきて陣を置くと確信していたわけだ。

 一体、これは?

 少なくとも9月2日の時点で、関ヶ原が東西両軍の決戦場になることが、東軍の間では既知の事実だったことになる。関ヶ原が戦場になるとわかっていなかったら、失明状態で歩行不能の大谷吉継が藤川台に陣を置くいわれがない。それなのに、この隠された事実を取り上げた記事に寡聞にして一度も接したことがない。

 事実誤認の二つ目は「隠れ東軍」の小早川秀秋を頭から「西軍」と決めつけていることである。だから、「寝返り」や「裏切り」の語が飛び交ってしまう。すなわち、秀秋は三成の数次にわたる大垣入りの要請を無視して一カ月近く琵琶湖周辺をさまよい、「14日夕刻から15日朝方にかけて雨」と天候を読み、あらかじめ伝達を受けていた家康の指示に従って松尾山にきたのであり(なんとなれば、それが東軍が勝つための必須の条件だったから、たまたま14日になったにすぎないのだから、14日と示し合わせたのではない)、この事実をもって本講座は秀秋を「隠れ東軍」と断じているわけである。したがって、秀秋は寝返ったのではなく、逆に三成のちらつかせるおいしい話に迷いが生じざせたのであって、結局は最初から最後まで「隠れ東軍」としての態度を取りつづけ、家康から攻撃されそうになったために初めて旗幟を鮮明にしたということなのである。

 ついでにいってしまえば、吉継もまた実は「隠れ東軍」である。そうでなければ、秀秋の松尾山到着を傍観するわけがない。秀秋が足場をしっかり固めてから相手の出方を危惧するというのは、解釈として幼稚である。「隠れ東軍」の同志だから到着を黙認したのであろう。

 有名な垂水宿と佐和山城の行き来の場面における吉継の翻意の動機は、「三成だけでは反徳川大名を西軍陣営に集められまい」という判断から三成に加担し、西軍の召集にこれ努め、それとなく家康に報いたというのが真相に近い。このことはこれからもっと詳しく説明することになろう。

 小説家が考証の方法論に三十年間尽瘁して精度向上にこれ努め、日本史の専門家は「資料主義」を唱えながら解釈にまで踏み込んで平気でウソを書く。

 実はこれが現実なのである。

 資料主義に最も忠実な学者としては法政大学名誉教授の村上直さんがおられるが、「資料にない事実にはさわらない」というスタンスを貫いて、一般の読者から「村上さんは事実を伝えるだけだから、云々」と陰口を叩かれる。事実が示されているのだから、自分で判断すればよいのに、それがおこなわれない。実に悲しく嘆かわしい現実である。

 察するに、自分で判断すると、既存の定説と解釈が対立してしまうからであろう。専門家が判断を誤るわけがないという思い込みがバイアスとなって働くのである。真相はどうなのか、日本史考証の醍醐味は自分で判断することにあるというのに……。

 翻って、専門家のスタンスを問えば、すべからく村上直さんのようでなければならない。なぜなら、日本史の考証は「絶対に間違えてはならない」からである。かくいう小説家の私ですら、犯罪捜査法を援用して「証拠能力のある事実」と「証拠能力のない事実」を峻別し、証拠能力のある事実すなわち「踏まえるべき事実」を積み重ねることで隠れた事実を掘り起こしても、それをもって直ちに「証拠能力を持つ事実」とはせず、事実であることが合理的に説明できるまでは「暫定仮説として扱う用心」を怠らない。

 名指しで失礼だが、小和田氏の解釈には事実誤認が多い。読者は気づかずにそれを信じてしまう。専門家対一般読者の関係は村上直さんを例外としてほとんどがこのパターンである。このパターンの営々とした積み重ねが既存の日本史なのである。大半の専門家代表の小和田氏には村上直さんの爪の垢でも呑んでいただき、マスコミには自分たちの「ステイタス付与機能」をよく自覚して、コラムニストには「事実のみ述べてほしい」と注文をつけるよう注文するほかない。

 妄言多謝 
(つづく)




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