二極主義と三極主義の対決は三極主義に軍配


 三成に有利な展開になっているはずなのに家康が勝利した原因は二つ考えられる。

 まず簡単に説明がつくほうからいうと、諸将に呼びかける際に提示した選択肢の幅の差が原因として考えられる。三成は「東西いずれにつくか」と二極しか選択肢を用意せず、人質を大坂に集めておいて、「さあ、どうするつもりだ」と匕首を喉元に突きつけるに等しい方法を取った。それに対して家康は第三極として大坂方という中立的な緩衝地帯を設定したうえで、「東西いずれにつくも任意である」として結論を諸将の自由意志に委ねた。書簡ないし文書による勧誘は、そのうえですることだから、少なくとも抵抗感を相手に植えつけるようなマイナスはなかった。

 では、第三極の大坂方に身を置くとは、具体的にどのようなことなのだろうか。

ここでは、実例を三つほど挙げて説明に代える。

 慶長五年九月十四日、高野山木食上人応其が大津城にきて高次に降伏を説いた。それに対する高次の返答が第三極の立場をよくいい表している。

「我らは今度内府へ属し、寄手の諸将は輝元に味方して勝負を争う戦いなれば、さらに秀頼公の御身につながることではござらぬ。然らば天下の元臣たりし内府の味方なり。今更城の危きを見て、おめおめと城を明け渡すことは武門の恥とするところ、手の者を下知して防ぎ戦い、もし叶わずば腹切るべし。この由を輝元・長盛にもお伝え願いたい」

 すなわち、秀頼を東西両軍から切り離した立場に据える考え方が「三極説」というべきもので、これがあるお蔭で「三成には与したくない、さりとて家康とも参らず」という大名は三極説を精神的支えとして中立を通すことができたのである。中立ということは東西いずれにも加担しないということだから、どちらか片方に利害が偏ることはないはずなのだが、現実には東軍に寝返る者に加え、途中から第三極に態度を変える者が続出、西軍というか三成が大きな打撃を蒙ったわけである。島津惟新に至っては土壇場の関ヶ原で第三極に立場を変えたわけであり、家康が取った三極主義の成果の一つといってよいだろう。

「今日のいくさはめいめい自儘に戦い、家名に恥じぬ働きをするばかりである。せっかくのお申しなれど、他家のいくさに関わっているゆとりはござらん」

 島津惟新もまた表現こそ異なるが、家名を基準として中立に身を転じたことを意味し、したがって石田家の都合など関係ないという論理なのであるから、第三極のバリエーションともいうべき立場である。

 吉川広家にいたっては最初から第三極に身を置いた。西軍に加担しながら黒田長政を介して家康と連絡を密に取りつづけ、東西両軍の勝敗が決してのち関ヶ原から立ち去るに際して長政に次のように申し送った。

「後日、大坂において、輝元と同時に御礼申し上げる所存。この旨、よろしく内府公にご披露ありて給わるべし」

毛利輝元が大坂城に入ったのも、秀吉の遺言で大坂城には家康か輝元の二人のうち一人は必ず在城することになっていたから、そのことを口実にすれば必ずしも西軍に加担したことにはならない。かつて輝元が家康に与えた誓紙の中で「今度天下の儀、各々、申し分御座候ところ、我等こと、秀頼様の儀、疎意に存ぜらるの旨、申し入るの通り」といっていた。大坂第三極すなわち中立の考えが毛利を破滅から救ったのである。

究めつけが「秀頼は三成の挙兵とは無関係である」と江戸に書状を送った傅役片桐且元の素早い対処である。

家康が会津討伐の前から戦後処理に知恵を絞っていた事実は綿密に考証しないと浮かび上がらないことなのだが、家康に敵対的態度や行動を取ったからといって毛利・宇喜多・上杉の三家を改易してしまったら、合戦に勝利しても後につづく治世がうまくいかなくなってしまう。だからといって、寛大な処置ばかり取りつづければ足許を見られる。勝つ作戦も大事だが、戦後処理はもっと重要なのである。毛利に対する戦後処理が大坂第三極説で済んでしまったのは実に大きな成果であった。関ヶ原合戦終結直後、広家を通じて毛利対策をしてのけた黒田長政を真っ先に引見した家康の姿勢に褒賞と感謝の気持ちが率直に表れている。

 以上、これまで述べたそれもこれもすべて「大坂第三極という認識」をさりげなく広めながら最大限に活用したのが家康であった。人質を取ることによって逃げ道を塞いでおいて二者択一を迫った三成が、次第に信望を失って敗れたのは理の当然だった 
(つづく)




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