二極主義と三極主義というパターン認識


考証の対象を拡大して会津討伐から関ヶ原合戦当日に至るまで徳川家康と石田三成が発した書簡なり文書を視野に入れると、現存するものだけでもかなりの数にのぼる。滅失した分まで考慮すると文書合戦というほかない様相が浮かび上がってくる。

二木謙一著『関ヶ原合戦』(中公新書)は次のように述べる。

《家康が小山において石田らの挙兵を知った七月二十四日から、決戦前日の九月十四日までの間に外様の諸将に宛て書いた文書は、確認されるものだけでも百五十五通、八十二名に対して出されている。そのほかに秀忠のものが約十五通、そして井伊直政・本多忠勝・榊原康政ら、家康近臣のものが二十通ほど認められる。むろんこれらは関ヶ原合戦に関する内容の文書にしぼっての数字である》

 同書はさらにいう。

《家康が決戦前の約五十日の間に、手紙を与えた関東・奥羽の主な諸将としては、大田原晴清(下野大田原城主・七千九百石)、蒲生秀行(同宇都宮城主・十八万石)、皆川広照(同長沼城主・一万三千石)、芦名義広(佐竹義宣弟)、水谷勝俊(同下館城主・二万五千石)、伊達政宗(陸奥岩手沢城主・五十八万五千石)、南部利直(同盛岡城主・十万石)、秋田実季(出羽桧山城主・十九万石)、小野寺義道(同横手城主・三万二千石)、戸沢政盛(同角館城主・四万石)、仁賀保挙誠(同仁賀保城主・五千石)、最上義光(同山形城主・二十四万石)、六郷政乗(同六郷城主・五千石)、堀秀治(越後春日山城主・三十万石)、溝口秀勝(同新発田城主・六万石)、村上嘉明(同本庄城主・九万石)などがあげられる。

これらの文書の内容の多くは、上方における戦局を報ずるとともに、上杉や去就の疑わしい佐竹義宣の監視を依頼し、もし景勝が進出した場合には直ちにかけつけて討ち果たすよう指示したものである。もちろん志を寄せてきた者に対する丁重な返礼の書をも怠っていない。中でもとくに注目されるのは伊達政宗に対して八通もの手紙を出し、かつて政宗が秀吉のために没収された旧領七郡の返還を約束していることである。

第二に伊勢・美濃方面に対する作戦としては、伊勢は西軍の猛攻にさらされている富田信高の安濃津城や古田重勝の松坂城を救援しようとするものである。また、美濃方面の手当は、岐阜城攻めに向かった東軍の先鋒隊を掩護するとともに、東山道を行く秀忠軍の進路を開くことにもつながるのである。

伊勢・美濃の制圧は、東西両軍激突の際の勝敗を決する鍵であった。そこで家康はこの伊勢・美濃周辺の諸将に対しては、手あたり次第ともいえるほどの多くの文書を送っていた。すなわち、伊勢方面では稲葉道通(伊勢岩手城主・二万六千石)、氏家正元(同。居所不明・一万五千石)、瀧川雄利(同神戸城主・二万一千石)、福島正頼(同長島城主・正則弟)、分部光嘉(同上野城主・一万余石)、九鬼守隆(志摩鳥羽城主・三万石)、筒井定次(伊賀上野城主・二十万石)、寺西直次(近江・越前内に一万石)らに手紙を送り、伊勢における戦功を嘉賞し、あるいは協力を求めている。

また美濃方面では、市橋長勝(美濃今尾城主・一万一千余石)、遠藤慶隆(同小原城主・七千五百石)、妻木頼忠(同妻木城主)、徳永寿昌(同高松城主・三万石)、西尾光教(同曽祢城主・二万石)、横井伊織介(同赤目城主)ら、美濃の諸豪族に対して書を送って国内の西軍勢力の駆逐を命じ、飛騨高山の金森長近・可重父子(三万八千石)にも美濃への出兵を促している。さらに信濃の森忠政(飯山城主・十四万石)、真田信幸(上野沼田城主・二万七千石)らには秀忠の東山道行軍を支援するよう依頼している。そのほか、信濃木曾にいた木曾義昌の遺臣たちにも挙兵を促し、京極高知(高次弟・信濃飯田城主・十万石)には彼ら木曾遺臣への援助を命じていた。

第三に北陸方面への対策である。北陸では加賀の丹羽長重・山口宗永、能登の前田利政らが西軍に呼応し、大谷吉継の留守城越前敦賀の城兵とともに兵を挙げた。これに対して加賀金沢城主の前田利長(八十三万五千石)、能登の土方雄久らが東軍方に属し、互いに戦火を交えていた。こうした情勢に対し、家康は土方雄久を仲介役として、前田利長と丹羽長重とを和睦させる策を講じ、みごとに成功している。家康の近臣西尾吉次が、九月十四日付で丹羽長重に宛てた書状には、

「長重が利長と和睦したことを、家康様が満足されている。いかなることがあっても、この際は堪忍して上方筋で手合わせをするのがよろしいと思う」

と、いっている。

第四は九州方面への対応である。九州の諸大名はまさに東西まっ二つに分かれて対立する形勢であった。そうした中で、家康がとくに交渉を持った相手は、加藤清正(肥後熊本城主・二十五万石)と、黒田如水であった。黒田長政が家康の客将となって親近していたから、父の如水の協力を得られるのはほぼ確実である。そこで家康はとくに加藤清正をマークし、肥後・筑後の二国を与えることを約束して味方につけた。これに対して清正は九月四日付の書状をもって家康に二心なきことを誓い、西軍方筑後柳川の立花宗茂や、小西行長の留守城肥後宇土城攻めの主力となって活躍するのである。

このように、家康は、全国の諸将に対して驚くべきほど周到な策をほどこし、決戦当日までには、確かな手応えを感じていたのであった》

一書万兵の観があるが、前述のごとく利をもって誘うことなら三成もやっているし、誘う条件は家康よりずっとよいのだから、それでも家康に軍配があがったのはなぜなのだろうか。

 それは三成が諸将に対して「西軍に味方するか、東軍について敵対するか」という選択肢を二極主義でしか示さなかったのに対して、家康が以上の二極に「それとも大坂方に身を置くか」という一極を加えた三極主義の立場を取ったため、という見方がある。二極主義と三極主義の優劣については次回に述べる 
(つづく)




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