石田三成が大垣城から行方をくらませた八月二十六日から九月上旬までの間に関ヶ原の笹尾山であらかじめ何らかの細工をしたと考えないと、大谷吉継が九月二日になぜ藤川台に布陣したのか、見当がつかなくなってしまうし、もし、そうだとすると、とんでもない大問題が持ち上がってくる。しかし、とんでもない大問題に言及するのはまだ時期尚早である。
さて。
吉継が藤川台に布陣したのは三成の指示ではないとわかったからには、だれかの配慮とみなすほかない。あるいはまた大垣城に向かっていた吉継がまるで結果を知っていたかのように独断で変更したとするのは御都合主義というほかなく、説得力を欠くから、吉継に指図できる人間は笹尾山の細工を知り、藤川台が激戦地になることを知り、なおかつなぜか自身が望んで吉継と対戦するつもりの人間しかいないのである。と、なると、藤堂高虎以外にはあり得ない。
高虎こそは赤坂に進出して以来、垂井から関ヶ原にかけてなぜか放火してまわっていた張本人であり、佐和山城をうかがう擬態を絶えず見せつづけた当事者である。当然、関ヶ原界隈に間諜を放って三成の動向を監視していたであろうから、笹尾山で何か細工がおこなわれていれば気取られないようにして監視できる態勢が調っていたはずだ。したがって、関ヶ原にさしかかった吉継に接触するのもわけなかっただろうし、何よりも吉継に一日遅れて藤川台と松尾山の間に布陣した脇坂安治ら近江の衆は高虎の調略で東軍に旗幟を変更したのだから、藤川台が激戦地になると知っていた可能性が高い。しかも、合戦当日は率先して大谷勢と対戦し湯浅五助の首級を得、戦後には吉継の墓を藤川台に造立しているのであった。
残る疑問はなぜ激戦地と知って吉継に藤川台を示唆したのか、というその理由づけであるが、ここでは三成の行動を追うのが本来のテーマなのだから、今後、別にスペースを割いてそれはそれで考証することにして、しばらく保留にしておこうと思う。当座は吉継の藤川台布陣が三成としては理解しがたい出来事だったということ、吉継と三成の間には豊臣家奉行衆としての上下関係しかなく友情など存在しなかったし、ましてや親友の仲などというのは「垂井宿と佐和山城を往復し、遂には反対の立場を翻して味方した」その説明だけの御都合でしかないのであり、とんでもないデマである、そういう前提に立つことをあらかじめ宣言して考証を進めよう。
振り返ってみれば、八月二十六日から九月上旬まで大垣城から行方不明になった三成の動きは明らかに挙動不審であって、解釈より事実が優先するという摂理に従えば、関ヶ原に布陣した西軍陣地の中で塹壕があったのは笹尾山の三成の陣地だけであるから、塹壕掘りと大砲の搬入はその期間中の作業であったことは間違いない。吉継の藤川台には松尾山に面して馬防柵が結いまわしてあったといい、塹壕については記述がないのであるが、関ヶ原が東軍と西軍が雌雄を決すべく対決する合戦場であることを認識していなかったら、事前にそこまでのことはできないはずである。宇喜多秀家以下、島津、小西らは着陣早々に戦闘に巻き込まれたから、ほとんど陣地の体裁をなしていなかった。
ましてや、笹尾山の三成の陣地には大砲が五門も備わっていた。三成が「宇喜多秀家の今度の覚悟はあっぱれで、一命を捨てて働こうとの態度である。島津義弘も同様である」と称えたはずの島津惟新(義弘)がつむじを曲げて三成の軍令を無視したのは、真田昌幸が檄に応じて西軍に加担したとき「あらかじめ知らせて欲しかった」と不満を洩らしたのと同じ気持ちだろう。
暗いうちならいざ知らず明るくなるにつれて雨があがり、日が昇る時刻になると霧が流れて周囲が垣間見えるようになった。至近距離にある島津隊の陣地からは三成の陣地のようすがよく見えた。五門の大砲を確認したときの惟新は果たしてどのような表情を見せたのだろうか。
一人で承知して、みんなには何もいわないで、手前勝手にみんなを巻き込んだ挙句、自分だけ密かに陣地を築いておったとは……。
怒って当然というべきである。
「今日のいくさはめいめい自儘に戦い、家名に恥じぬ働きをするばかりである。せっかくのお申しなれど、他家のいくさに関わっているゆとりはござらん」
三成が救援を求めて談判したとき、惟新が返した言葉だ。
今日でも雨が降ったら土木作業はやらない。大垣城から関ヶ原まで四里十六キロの道は泥濘と化した。緩やかだが登り道がずうっとつづくのに五門もの大砲を移動させるのは徒労以外の何物でもない。三成の識見に疑義を生じさせないためにも高虎の関ヶ原事前準備説を採用するのが穏当である。
