九月十四日付小早川秀秋宛「誓書」を読み解く


 家康がわざと触れまわらせた佐和山攻撃命令が間諜によって大垣城にもたらされたのは、赤坂の東軍陣地に夜襲をかけるか否か軍議が白熱を帯びているさなかであった。



「まず佐和山城を屠り、さらに大坂に進撃する。内府はそのように命令し、全軍に出陣を触れましたる由」



諜者が報告すると衝撃のあまり三成の顔から血の気が失せた。だが、すぐに気を取り直して「関ヶ原で阻止する」といい、急遽、諸将に進発を号令した。居合わせる諸将はなぜもクソもない、夜襲どころではない、全面対決なのだ、よし遅れを取るなとばかりに、早速、陣地に帰って行軍の準備に着手した。



 ここからの三成の行動は実にドラスチックであった。それを間接的に如実に物語っているのが「九月十四日付小早川秀秋宛誓書」である。陣地に帰る諸将の中から小西行長を見つけて残らせ、島左近に行軍の準備を指図すると、三成は行長の前で筆を取って次のような文面の小早川秀秋宛誓書を書き上げた。



一、秀頼公が十五歳になられるまでは、関白職を秀秋卿に譲り渡す。



一、上方御賄いとして、播磨国一円を譲り渡す。もちろん、筑前は従前通り。



一、江州において十万石を稲葉正成、平岡頼勝に秀頼公より下さるべし。



一、当座の音物として、黄金三百枚ずつ、稲葉・平岡両人に下さる。



まず三成が署名し、行長が倣って隣に名を書いた。結局、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・長束正家・大谷吉継の五人が署名することになるのだが、あとの三人はここにいない。



 それから半刻ほどしてから西軍は石田隊、島津隊、小西隊、宇喜多隊の順に大垣城を出た。刻限は午後七時頃、当時、天候は篠突く雨、冷たく肌に染みる雨に打たれながら、石田隊を先頭にして西軍諸将の軍勢が大垣城を発し、これから関ヶ原に向かうのである。唯一の目印が前方右手栗原山に布陣する長宗我部盛親の陣地の篝火であったというし、口も利けず、馬の口をしばり、雨に打たれながら闇夜に隠れるようにしていく行軍の難渋さは筆舌に尽くしがたいものがあったであろう。なぜ、それほどの思いをしてまで関ヶ原へ移動しなければならなかったのか。



原因は二つ考えられる。



一つは小早川秀秋が松尾山に布陣したという報告を受けたこと。松尾山はかつて織田信長が砦を築いたといわれ、当日まで大垣城主伊藤盛宗の守備兵がいたようだから秀秋に追われて報告に戻ったのだろう。これがなんとも三成には衝撃的な大事件であった。



と、いうのは、三成が松尾山に陣取らせたかったのは自白調書により「中国衆」と明らかになっているからである。つまり、毛利輝元の軍勢か宇喜多秀家を予定していたと考えてほぼ間違いないわけで、現場のシチュエーションからは宇喜多秀家が有力である。片や覚悟があっぱれで一命を捨てて働こうとの態度を示す秀家と、こなたどっちつかずに呼べど答えず琵琶湖周辺をうろついてきた小早川秀秋とでは、信頼の度合い、安心の度合い、作戦上の効果、いずれにおいても段違いである。



もう一つが、毛利輝元が来会する前に家康がきてしまったことである。しかも、直ちに佐和山城を目指すという。先まわりして待ち受けるのが残された唯一の手立てなのだが、九月十二日付増田長盛宛三成の書簡が述べるように、本人の目論見では松尾山には毛利の手勢が入ることになっていた。



そこに最も疑わしい秀秋が取って代わって居座ったのだ。



よりによって金吾秀秋とは……。



総攻撃をかけて追い落としたいところだが、時間がないし東軍につけ込まれかねない。そこで最前したためた誓書の条件にものいわせてこっちを向かせようと考えたわけである。それなら三成一人の署名でもよさそうなものだが、「手許の逼迫は御推量ありたい」状態だから引け目のようなものを感じて保証人が必要と考えたのだろう。



三成が自軍に先行して向かったのが、安国寺恵瓊と長束正家の陣であった。狼煙が上がったら総攻撃に移るよう打ち合わせてから、秀秋宛誓書に恵瓊と正家から署名を取ると、午後八時、三成は再び関ヶ原へ向かう西軍を追い越しながら藤川台をめざした。



しかし、秀秋が松尾山に布陣したというだけでは三成ばかりか西軍までもが雨中の闇を突いて関ヶ原に向かう理由としては貧弱である。東軍が佐和山城を目指すなら勝手に遣っておいて追撃し、留守を預かる正澄や宇多頼忠と連携して城下で挟撃し殲滅するのが本来の作戦であろう。



それなのに、なぜ、秀秋を利で説いてまで関ヶ原に執着するのか。



前述したように藤堂高虎が主張する「関ヶ原決戦事前準備説」がその決定的な理由なのである。



従来の説によると三成は八月二十六日から九月上旬まで大垣城から佐和山城に行って防備を固め直したことになっている。それが本当ならあらかじめ対策を講じたのだから何も慌てて移動する必要はない。三成がそのとき一度は佐和山城に向かったのは確かだが、すぐに引返して関ヶ原の笹尾山に何か細工をしたと考えるほかないのである。現段階では推理推論にすぎないわけだが、それが事実でないと三成の十四日夜半の行動に説明がつかなくなってしまう。



 本講座では石田三成の「増田長盛宛九月十二日付書状」を彼の自白調書と断定した。加えて、「九月十四日付小早川秀秋宛誓書」も証拠採用した。これだけで「関ヶ原決戦事前準備説」は容易に感得できるのだが、ここではまだ関ヶ原に関係する事実がすべてそれを前提にして動いていくことを予告するだけで十分であろう 
(つづく)




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