まず関ヶ原事前準備説の検証から始めよう。
書状の中であの横柄で鳴る三成が長盛に伊勢に毛利の軍勢を出し松尾山にも守備兵を入れてくれるようにと泣きついているのが、彼があらかじめ関ヶ原で東軍を迎撃して殲滅する必勝作戦を胸に温め、笹尾山に仕掛けを施していた事実を連想させる。そもそも家康の居所も定かでなく、大垣城にいる段階で、「近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである」とはどういうことなのか。関ヶ原が合戦場になるとわかっていなければまったく存在価値のない城跡である。大垣城にだらだらと長居しているこの時点でだれもいない松尾山を意識し重要視することからして理解に苦しむ。
あるいはまた、西軍主力の伊勢出陣は大垣城の後詰であり、大坂の防衛線であり、「関ヶ原のほうが手薄だぞ」という暗喩を生み出すためのお膳立てなのである。あらかじめ関ヶ原を決戦場としていないとなぜ伊勢であり、松尾山なのか、皆目、説明のしようがなくなってしまう。
ほかにもわかったことが数多くある。
たとえば、大谷吉継と三成は親友の仲で、吉継が西軍に寝返ったのは友情に殉じたためというのが鉄板のごとき定説になっているが、冒頭に掲げた第十六番目の疑問項目を読むかぎり「吉継に藤川台に布陣するよう示唆したのが三成でないのは明らか」であり、まだ挽回の余地がある十二日の段階で吉継の勢力が「無駄になるようだ」と見捨てるような言辞を弄していることも親友説と友情を裏切る態度である。本人の自白だけに証拠価値はすこぶる高い。これまでは状況証拠の積み重ねにすぎなかったが、ここに本人の自白を得たことにより断定寸前まできているのは確かであり、詳しい内容は追って詳細に記述するが、吉継が関わった出来事すべての真相を裏づける状況証拠の数々が、三成の書状の文面で一段と光彩を放つに立ち至った。
三成の自白調書ともいうべき手紙が大津で東軍の手に渡ったという事実の意味するところも大である。当時、手紙を届ける手段を二木謙一著『関ヶ原合戦』は「書状を襟や帯・元結等に封じ込み、時には修行僧や行商人などに変装しての密使行」と説明している。行く先々で道を聞くようでは務まらない役だろうから、まず得意とする受け持ち範囲の地理に通じていたであろうし、大事な文書だけに経験も胆力もある密使が選抜されたことと思う。
ましてや、大垣から大坂までは西軍がほぼ制圧していたのだし、大津城は大坂方の軍勢に包囲されていたのだから、味方の関門をすり抜けるのに失敗したということではないはずである。恐らく大垣城四方八方に東軍の監視の目が張り巡らされていて、その警戒網に密使が引っかかったのだろう。どうやって東軍の手に入ったかは知るかぎりではないが、大津で奪ったからには十二日当日か十三日を出ないうちだろう。
したがって、家康は赤坂に到着した十四日昼過ぎには三成の手紙に目を通したものと思われる。読み通して三成の軽率さに半ば呆れ、半ば驚いたはずである。家康が目を凝らしたのが、八番目の項目であった。
《連絡のための城には毛利輝元の軍兵を入れておくようにすることが肝要である。これには子細あることであるから、御分別なされて、伊勢をはじめ太田・駒野に城を構えるがよかろうと思う。近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである。いかほど確かな遠国勢でも、いまどきは所領に対する欲望が強いので、人の心は計りがたい。分別すべきときである》
あとで触れるが「関ヶ原決戦事前準備説」の出所は藤堂高虎である。家康は高虎の報告に間違いなかったと事前に確かめることができた。これが最大の勝因といってよいくらいの一台快挙であった。高虎が主張する「関ヶ原決戦事前準備説」を採用して小早川秀秋を松尾山の砦に布陣させたが、実に正解であったと胸算用して家康は半ば勝利を確信したであろう。三成の書簡が仮に大坂城に無事届いたとしても毛利の軍勢は間に合わない。西軍の手の内を見透かしてしまったからには、最早、東軍の勝利は確定したようなものだ。
いくさの行方に確信を得た強み……。
勝敗にそれがどのように影響するかいまさらいうまでもないだろう。
それにしても驚かされるのは三成が何の疑いもなく迷わず「家康が西上しない以上」と書いていることだ。すでに家康本人は赤坂にきており、関ヶ原はここから半日行程の距離にある。
「この期に及んで敵の総帥の居場所も知らないくせに、『さてさて敵のうつけたる体たらく』とは片腹痛い」
家康は名案を思いつきながら声を立てて笑った。
西軍は総勢八万三千七百余と唱えるが、そのうち関ヶ原に向かうのは三万そこそこで、しかも烏合の衆だ。そのうえ、なおも数に頼ろうとしている。東軍はこれから大坂をめざすと触れたら三成は焦って関ヶ原に向かうだろう。秀秋は松尾山、吉継は藤川台、三成の陣地は笹尾山とわかった。と、なれば、東軍の配置も決まったようなものだ。高虎の意見では宇喜多秀家は松尾山と笹尾山の中間に当たる天満山あたりに布陣しそうだという。正則は秀家、黒田長政は三成の陣にぶつけてやろう。なぜか高虎は藤川台の吉継との対戦を望んでいる。理由はさておき、高虎は「関ヶ原が決戦場である」と喝破した功績第一の男だから、彼の好きなようにやらせておこう。
仮に家康が藤堂高虎に好きな場所に陣を構えてよいと許可したとして、しからば高虎が望みの場所に布陣できたかというと、そうではない。なぜなら、藤川台の真正面には昨日のうちに兄高次が籠城する大津城の救援に向かい琵琶湖の湖畔から狼煙を上げただけで雨もようの闇夜の中を引き返した高知に先を越されていたためである。大谷吉継の陣では篝火が赤々と燃えていたことと思う。
京極高知の行動も関ヶ原が合戦場であることを知っていなかったら不可能であり、あり得ない出来事である。
それにしても三成のうつけぶりはどうしたことであろう。東軍は相手の配置まで把握しているというのに、西軍は雨と闇に邪魔されて何も見えない。夜が明けたら関ヶ原特有の霧に紛れて接近し白兵戦に持ち込めば、折角、三成が用意した五門の大砲も使い道がなくなってしまう。
家康は今から明日の勝利を確信して西軍を関ヶ原に誘い出すべく、
「まず佐和山城を屠り、さらに大坂に進撃する」
と「在々諸々、諸軍」へ触れまわさせた。
関ヶ原合戦の考証は三成の自白調書から始めないとわかりにくいし、説明に合理性を持たせるのが難しい。増田長盛宛九月十二日付三成の書状があることはとっくに知っていたし、目を通さなかったわけでもないが、問題意識を持たないでただ漫然と読んでいたから、これほどはっきりしている意味を汲み上げることができなかった。疑問感受性というアンテナが未熟だと蜿蜒と無駄に時間を費やしてしまうという教訓である。
しかしながら、十年近い歳月を送ったとはいえアンテナが働いたのは事実なわけで、そのこと自体は実にめでたい。よくも悪くも今になって働き出したわがアンテナが次に感知したのが、三成が小早川秀秋に手渡した九月十四日付誓書である。
