ここに一通の書状がある。いたって長文である。石田三成が大垣城から大坂城にいる増田長盛に宛てた九月十二日付の書状で、以下は今井林太郎著『石田三成』(吉川弘文館)からの孫引きである。
一、赤坂の敵は今日に至るも、何らの行動も起こさず停滞しているだけで、何かを待っているように見受けられることから、みんな不審を覚えている。
一、大垣城には伊藤盛宗の家来をはじめ近辺の者まで人質に取っているが、敵より放火の才覚があり、伊藤は若輩ゆえ、家中の者どもはさまざまの才覚をするので、心を許すことができない。
一、今日の相談で味方の軍略もだいたい決まるであろう。一昨日、われらは長束正家、安国寺恵瓊の陣所を訪れ、彼らの内容を承ったが、その限りでは、事がうまく運ぶとも思われない。彼らは殊のほか敵に対して大事を取り、たとえ敵が敗走しても、それを殲滅する工夫も見せず、とかく身の安全ばかりを考え、陣所を垂井の上の高所に構えたが、そこは人馬の水もない高い山で、万一のとき人数の上り下りもできない程の山であり、味方も敵も不審を覚えていることと思う。
一、当地で苅田を行えば兵糧はいくらでもあるのに敵を恐れて人を出さず、近江から運ぶようにしているらしく、近頃は味方中が萎縮してしまっている。
一、とにかくこのようにだらだらと日を延ばしているようでは、味方の心中も計りがたい。御分別をなさるべきときである。敵味方の下々の取り沙汰では、増田と家康の間に密かに話し合いがついていて、人質の妻子は一人も成敗することはないといっている。これももののわかった者が申すのではなく、下々の申すことである。先書にも申したごとく、犬山に加勢に赴いた衆が裏切ったのも、妻子が大丈夫であるからと、下々ではいっている。敵方の妻子を三人・五人成敗すれば心中も変わるだろうと当地の諸将はいっている。
一、大津の京極高次のことは、この際、徹底的に処分しなければ以後の仕置きのさわりになると思う。殊に高次の弟高知が当地で種々と才覚していることは御推量のほかである。
一、敵方にようすを聞きに放った者が帰ってきて報告するところによると、佐和山口から出動した衆のうち、大軍を擁して敵と内通し伊勢への出陣も抑え、各自、それぞれの在所在所で待機するように命じたという噂が、この二、三日、しきりに伝えられ、敵方は勇気づいていたが、近江の衆がことごとく山中へ出動したので、敵方では噂に相違したといっているという。とにかく人質を成敗しなければ取られた人質について心配しないのは当然で、これでは人質を取った意味がない。
一、連絡のための城には毛利輝元の軍兵を入れておくようにすることが肝要である。これには子細あることであるから、御分別なされて、伊勢をはじめ太田・駒野に城を構えるがよかろうと思う。近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである。いかほど確かな遠国勢でも、いまどきは所領に対する欲望が強いので、人の心は計りがたい。分別すべきときである。
一、当地の儀は、なんとか諸将が心を合わせば敵陣を二十日以内に撃破するのはたやすいが、この分だと結局は味方の中に不慮のことが起きるのが眼に見えるようだ。よくよく御分別ありたい。島津義弘・小西行長らも同意見であるが、遠慮しているようである。それがしは思っていることは残らずいっている。
一、長束正家・安国寺恵瓊は思いのほか引っ込み思案である。貴殿に当地のようすを一目なりとお目にかけたい。さてさて敵のうつけたる体たらくといい、味方の不一致といい、ともにご想像のほかであるが、それ以上に味方中は蔑むべき体たらくである。
一、毛利輝元の出馬しないことは、手前はもっともだと思う。家康が西上しない以上、不必要かとは思うが、これについても下々では不審をたてていろいろいうことである。
一、たびたび申し入れたごとく、金銀米銭を使うのはこのときである。手前などは分相応には手許に持つだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手許の逼迫は御推量ありたい。この際が一番大事な時期だと思うので、貴殿もその心得でおられたい。
一、近江から出動してきた衆に万一不慮のこともあろうかと存じ、これがただただ迷惑である。輝元の出馬がなければ中国衆を五千人ばかり佐和山城に入れておくよう処置することが肝要である。また伊勢へ出陣された衆は万一のときは大垣・佐和山の通路を経ないで太田・駒野から畑道を通って直ちに近江へ退去しようという意図のように見受けられるので、長引くことと思われる。
一、宇喜多秀家の今度の覚悟はあっぱれで、このことは方々からお聞ききになるだろうから、申し上げるまでもないが、一命を捨てて働こうとの態度である。その分別御心得ありたい。島津義弘・小西行長も同様である。
一、当分、成敗しない人質の妻子は宮島へ移されるがよかろう。御分別がすぎてもよくない。
一、長束正家・安国寺恵瓊は、このたび、伊勢方面より出動した中国衆はもちろんのこと、大谷吉継および御弓鉄砲衆までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ。
一、丹後方面の人数がいらなくなった由であるから、その人数を少しでも当地へ差し向けるようにしてほしい。
以上が石田三成が増田長盛に宛てた九月十二日付書状の内容である。家康の着陣が確認されない段階で関ヶ原松尾山に言及したり、「私はあらかじめ関ヶ原を合戦の場とすべくいろいろと細工しました」という、いわば三成の供述調書といってよい内容であり、当該書状の重要性に気づくことができたことによって関ヶ原合戦の考証が劇的に進展をみた。これまで行ってきた考証ではプロローグで挙げたいくつかの疑問点をはじめ関ヶ原があらかじめ決戦場と決められていないと説明がつかないことがいっぱいあったのだが、ようやくにして突破口を見つけたという思いである。
