そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。
◎疑問感受性
(解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)
◎見識物差し
(歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)
◎モンタージュ法
(踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)
◎因数分解解析法
(発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎セグメント抽出法
(踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎パターン物差し
(パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)
◎時系列物差し
(踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)
◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
前置きはそれぐらいにして、どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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関ヶ原合戦、当座、二十六の疑問点
日本人で「関ヶ原合戦」の名を知らない者はまずいないだろう。いわれていることに疑問を持つ人もまた少ない。しかしながら、事実と解釈が関ヶ原合戦ほど食い違った例もまたない。
一、石田三成は徳川家康をどのように討ち取ろうとしていたのだろうか。
一、島左近は家康が水口城下にきたところを襲うように進言したが、三成が聞き入れなかったのはなぜだろうか。
一、大谷吉継は三成に対する友情から西軍に加担したというが、二人の間に友情を裏づける事実はない。むしろ友情があったらあり得ないことばかり起きている。それでも二人が親友と断定する根拠は何なのだろうか。
一、東軍諸将は家康に味方しただけでなく、東海に居城を持つ将は城の返還まで申し出た。なぜ、そうまでしたのだろうか。
一、関ヶ原に最も早く斥候を送り込んだのが藤堂高虎であるという事実。西軍方は方角の違う大垣城に集結しているのに、なぜ、高虎は関ヶ原に斥候を送り込んだのだろうか。
一、関ヶ原に真っ先に布陣したのは大谷吉継である。吉継が関ヶ原藤川台に陣取ったのが九月二日、翌三日には脇坂安治らが到着して松尾山の麓に布陣。そのとき、石田三成は大垣城にいた。それなのに、なぜ、関ヶ原に布陣したのだろうか。
一、結果として東西両軍が関ヶ原を決戦の場としたのだから大谷吉継の藤川台布陣は正解だったわけである。それにしても、小早川秀秋が松尾山に到着する十二日も前に、なぜ、藤川台に布陣したのか。
一、だれかが大谷吉継に関ヶ原が決戦の場であると告げたか、藤川台に布陣するよう指示したか、二つのうちいずれかでないと説明がつかない。吉継に関ヶ原が決戦場であると告げて藤川台に布陣するよう指示したのはだれか。
一、九月十四日午後、家康の配慮で大津城に立て籠もる京極高次と連絡を取るため琵琶湖畔に出て狼煙を上げた弟の高知が、なぜ同日中に関ヶ原に布陣して味方の到着を待ち受けたのか。
一、さらには吉継が松尾山側にあらかじめ馬防柵を結いまわしたのはなぜか。そして、それはいつ行われたのか。小早川秀秋が松尾山に布陣する十四日以前か、それとも当日のことか。
一、脇坂安治はすでに藤堂高虎に懐柔されて東軍に寝返っていた。安治が松尾山と藤川台の間に布陣したのはなぜか。最初から松尾山の麓に布陣するつもりできたのか、吉継を目標にしたのか。
一、九月七日の段階で、三成がいる大垣城からも東軍先鋒がいる赤坂陣地からもはるかに離れた南宮山に毛利秀元と吉川広家が布陣したのはなぜか。
一、家康が赤坂岡山に本陣を置いた十四日、関ヶ原松尾山に小早川秀秋が陣取った。家康は三成にいつ西上するかわからないと思わせておいてきっちり十四日に合わせたかのように赤坂に現われた。三成が報告を受けて「まさか」と口走ったほどである。大垣城にいる三成ですら家康の西上を察知できなかったくらいだから近江国にいた秀秋が尋常な方法で家康の動きを知ることは不可能に近い。それなのにきっちりタイミングを計ったように松尾山にやって来たのはどうしてだろうか。
一、三成は家康が赤坂に現れたという報告を受けた十四日、折角、大垣城にいるのに、夜分、雨もようの天候にもかかわらず見当違いの関ヶ原に移動したのはなぜだろうか。
一、三成が笹尾山の陣城に装備した大砲五門は十四日夕刻の時点でどこにあったのか。あらかじめ笹尾山に運び込んでおいたのか、それとも、雨の中、闇夜の道、時間に追い立てられながらひどく難渋して運んだのか。後者だとすると、なぜそうまでして五門もの大砲を持ち出す必要があったのか。
一、悪条件を考慮すれば、五門もの大砲となれば大垣城に残して移動するのが常識である。大砲五門はあらかじめ笹尾山にあったとみなすのが妥当だろう。対応する事実として、八月二十六日から九月一日まで、三成が大垣城を出てどこかへ行った事実が挙げられる。佐和山城へ行ったと推測されているが、何のためだろうか。
一、十四日夜半から十五日未明にかけての三成の取った行動は闇夜であったことを勘案すると説明がつかないほど迷いがみられない。よほど地理に精通していないとああはいかなかった。どうしてあれほど的確に行動できたのか。
一、当時、正木左兵衛を名乗った本多政重が直江兼続と養子縁組を成立させたのはいつか。養子縁組が実現をみたのは慶長九年だが、関ヶ原合戦以前に縁組が成立していないと前後のいきさつと整合しない。養子縁組の成立は果たしていつだったのだろうか。
一、九月十四日は島左近と明石全登が敵の赤坂陣地へ攻め寄せ、東軍方の中村一栄、有馬豊氏を誘い出して叩いた。その日の夕刻、東軍が関ヶ原方面へ移動し始めた。『関ヶ原御一戦記』は「在々諸々、諸軍え触れ申し候」と記す。それを西軍の間諜が察知して大垣城に報告すると、三成は軍議を中止して、急遽、関ヶ原へ移動を開始した。時刻は午後七時、東軍が察知して睡眠中の家康に知らせたのが翌十五日午前二時、そのとき三成は笹尾山に到着したばかりだった。家康はそれを待っていたように跳ね起きて直ちに桃配山へ出撃、迷わず本陣を構えた。敵が関ヶ原に移動するのを待ってから腰を上げたのだから、佐和山城や大坂城へ向かうつもりがなかったのは明らかで、「在々諸々、諸軍え触れ申し候」が陽動作戦であったのは間違いない。しかし、家康はなぜそのような行動を取ったのだろうか。
一、東軍が関ヶ原方面へ移動を開始した十四日夕刻の時点で、三成が恐れたのは関ヶ原で迎撃されるのを恐れたからではなかったのか。
一、東西両軍とも雨夜の暗闇の中で行動しながら相手に合わせて的確に陣地を構築したというのは結果を知るから疑問が湧かないので、これから暗闇の中を進む時点に時計の針を戻し「結果を知らない」という前提で考えると不可解極まりない。あらかじめ西軍の本陣がわかっており、味方の布陣も決まっていなければ、東軍としてはああはうまく展開できないのではないか。ましてや、東軍主力は笹尾山に向かい濃霧を利用して指呼の間に肉薄した。たまたまの偶然で三成の作戦を無にしてしまうような僥倖が起こり得るだろうか。
一、早くから関ヶ原に出没して、いざ決戦というとき、藤堂隊は福島隊をやり過ごしてまで見当違いの大谷隊に挑みかかり、それでいながら持ち帰った首級は湯浅五助だけ。家康は「五助の首を取ったなら吉継の首も取れたはずだ」と訝しんで説明を求めたが、高虎は答えなかった。そして、関ヶ原戦後、高虎は藤川台に吉継の墓を造立し、家康はそれを咎めなかった。どうしてか。
一、大谷隊が壊滅すると、小早川・脇坂・朽木・小川・赤座の各隊は小西行長の陣地に襲いかかった。このとき、宇喜多隊と藤堂隊はどうしていたのだろうか。藤川台から向かえば宇喜多隊とぶつかるのは必至なのに小西隊を襲ったということはすでに落延びたあとなのだろう。藤堂隊は藤川台に留まる以外は居場所がなさそうだが、どこで何をしていたのだろうか。
一、黒田父子が豊臣家から離反したのは秀長の死を契機とする。関ヶ原では黒田隊に宇喜多家旧臣の戸川逵安の鉄砲隊が加わった。逵安はなぜ宇喜多隊と戦う状況を避けることができたのか。
一、結局、笹尾山の陣城構築から考えて三成は信長の長篠の合戦を真似たと思われるのだが、なぜ勝敗が逆になったのだろうか。
一、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、などなど。三成本人とシンパの者がことごとく追捕されたのに対して、宇喜多秀家、本多政重、明石全登、さらには島津惟新ら政重人脈の多くが逃げおおせたのはなぜか。
きりがないくらいに疑問点がぼろぼろ出てくる。考証らしい考証が行われなかった証拠である。疑問点をこれほど積み残した杜撰極まりない考証もないわけであるが、ジグソーパズル式日本史考証法の対象としてはもってこいで、それだけにやりがいがある。面倒な批判などは後まわしにして、早速、考証に着手するとしましょう。