秀吉マイナス悪魔的知恵イコール愚物


 小田原合戦の真の勝利者はどちらかという究極の問いが出るところまでおおまかな真相は以上でほぼ炙り出せたと考えるわけであるが、豊臣秀吉の天下統一という皮相的な知識がバイアスとして働くためか、事実とまったく異なる記述が平然と罷り通るのは不思議というほかない。

 これも小田原合戦が内包する未解決の問題の一つといってよいだろう。

 北条氏無血降伏への道のりを玉葱の皮をむくように外縁の支城から落として本城を丸裸にした結果と多くの史書はいうが、松井田城が落ちたのは四月二十日であり、以後、前田利家は降将大道寺政繁を誘降の使者に仕立てて、極力、無血開城に務めた。力攻めすると戦利品が失われるが、城兵の降伏を誘ったほうが味方の損害も少なくて済み、多くの収入が得られるからである。そのために利家は秀吉から「二万余りの人数を率いて価値なき端城を陥したとて何になろう」と譴責を食い、早く鉢形城を落せと尻を叩かれている。秀吉をいらつかせるほど玉葱の皮むきは遅々として進まなかったのであり、石田三成が水攻めにした忍城に至っては最後まで落ちなかった。坂東太郎利根川流域の当地は有名な洪水多発地帯であって築城当初から「忍の浮き城」と呼ばれたくらいだから、それなりの対処法がほどこされていた。そこを水攻めにしたら持ち堪えるのが目的の相手に手を貸すようなものである。上杉謙信が放火して落とそうとしたのとは好対照の愚挙であった。

いわゆる「玉葱の皮むき」はこの体たらくで、自分たちのいる本城がいずれ丸裸になるのは北条氏には織り込み済みだったであろうから、後世の史家の期待に添えるような効き目があったとはいいがたい。ましてや徳川と北条に信頼という心の紐帯が確かめられた今、「支城を守る者たちはよく防いでくれている」という発奮材料にしかならなかったであろう。ましてや、荻窪口から八王子城、鉢形城に脱出するようなことはまずあり得ないことである。

 大づかみにいうなら、秀吉が得たのは織田信雄と家康の旧領であるが、その見返りとしてこれまで秀長の人望の陰に隠されてきた馬脚を現し、人望を劇的に失うに至った。これに対して家康は父祖の地を失ったものの関東を得たことにより、徳川氏への改姓という刺青が問題とならなくなったし、衆望を得た。物質的には秀吉の勝利は動かないまでも精神的な勝利では家康の足許にも及ばない結果となってしまった。その精神的鬱屈が不可解な戦後処理となって現前していくのである。

 伊達政宗の遅参を咎めて家康にとりなしを受けると許し、前田利家の大幅な到着の遅れに死を報いようとしてこれも家康にとりなしを受けて断念、本来なら味方になった松田憲秀、大道寺政繁に感状の一枚も授けるべきところなのに死をもって報いたり、そうかと思うと戦後に至って家康の側近本多作左衛門重次を房総の一隅にわずか三千石で蟄居させるなど、精神的ハレーションは支離滅裂であった。

 小田原城には大久保忠世を置き家康は江戸城を居城とすべしという他家への介入も、秀吉の家康への八つ当たりの一つであろうか。

 とてもではないが、勝利者といえるような姿ではない。

 小田原合戦から死に至るまでの秀吉の行状は吉川英治や松本清張の批判を持ち出すまでもなく、愚物の一語に尽きるのであり、最高権力者であるばかりに世の中は多大な迷惑を蒙ることになっていく。

 千利休の切腹しかり。

 関白秀次家の断絶ならびに一族みなごろしの悲惨。

 得るものなき朝鮮征伐。

などなど。

 これらをもって天下統一などとは……。

 大局観としての見極め、日本史を理解するうえで、それがいかに大切であるか。人物像を正しく結ぶうえで適切で必須の事実を踏まえることがいかに大切であるか。小田原合戦ほどそれを教えてくれるものはないであろう。そういう意味で小田原合戦は関ヶ原合戦と双璧なのである。

 たとえば、関ヶ原合戦の前日、赤坂岡山の本陣から大津城で孤立する兄の京極高次の救援に向かい、事実、琵琶湖畔に出て狼煙を上げたはずの京極高知が、明けて当日の朝、霧が晴れてみたら、前々から関ヶ原に陣地を構えていた大谷吉継をあたかも目印にしてきたかのように真ん前に陣地を構えていたという摩訶不思議、さらにはそれを疑問ともせず問題として取り上げもしないでいる現代の史家たち……。

 疑問やナゾは歴史の中にあるのではなく人間の脳にある。

 まるでそういっているようである。

 小田原合戦の疑問点、ナゾを解いたように、本講座は今から関ヶ原合戦の疑問点を数え上げ、ナゾを解き明かさなければならない。ただし、小田原合戦の解析はまだまだつづく 
(つづく)




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