家康とお万の方の間に頼宣・頼房という二人の男子が誕生するのは関ヶ原合戦をまたいでのことだから、当然、小田原合戦からの十年間にそれに関連する何らかの事実が見受けられなければならない。関ヶ原合戦へのメッセージ性の観点からいっても、関連事実が欲しいところである。そう思って調べると……。
果たして会津討伐宣言当時、お万の方は大坂城西丸にいた。
関ヶ原には北条氏直の養子となった氏盛が東軍方西尾吉次隊に属して参戦するのだが、彼は家康の配慮で下野国四千石取りから実父氏規の遺領を安堵され河内狭山へ転封したばかりだった。
ところで。
北条氏直の養子となった氏盛の実の父親氏規は、家康が竹千代の名で駿府の今川家に人質に取られていたとき、やはり人質として竹千代と屋敷を隣り合わせた仲である。そのときの家康(竹千代)と岡崎衆の苦境は以下のようであった。
松平氏の家城を安城城から岡崎城に移して三河一円を平定した清康は勇猛で才智に富み、若くもあったので家臣から将来を嘱望されたが、一族の松平信定が織田信秀に通じたうえで「譜代の重臣阿部定吉も仲間だ」と流言飛語を流して疑心を誘い、定吉の子弥七郎を唆して背後から清康に斬りつけさせて暗殺に成功すると、混乱に乗じて広忠をも殺害しようとした。子の軽はずみな暴挙に責任を感じた阿部定吉が広忠を救い出して伊勢に逃れ、大久保忠俊と協力して今川義元に援軍を求めて、ようやく岡崎城に復帰することができた。今川の援軍の見返りが竹千代の人質なのだが、駿府へ向かう途中で義理の祖父戸田康光の裏切りに遭い、永楽銭一千貫で織田信秀に売り渡されてしまった。それから二年後、広忠が近臣岩松八弥に暗殺され、岡崎城は主君を失い世子は織田の人質という空白状態に陥ると、義元はその間隙を逃さず岡崎城を占領し、安城城を攻めて織田信秀の庶子信広を捕虜にして竹千代と交換して取戻し、駿府に連れ去ったにとどまらず、岡崎城には鳥居忠吉を残しただけで重臣のことごとくを妻子ともども駿府に移住させてしまった。そのねらいとするところは岡崎衆に恩を売って織田とのいくさに先鋒として働かせることにあるのは明らかであった。
今川の管理下にある岡崎城で鳥居忠吉は今川の家臣に気を遣いながらも桶狭間合戦当時まで岡崎衆の気持ちを引き締めてきた。駿府に去った松平家の家臣が「今川殿は岡崎譜代の士をいくさでみな殺しにして主君を岡崎に戻さないつもりではないか」と絶望し主家を見限り退転する者が出る中、織田とのいくさで常に先頭に立ち、そのたびに勝利をもたらして、領土や年貢などの「もの」よりも大事なものがあることを家中に説いた。
人間は一人では生きられない。物が人を豊かにすることはない。たとえ物は乏しくても、あるかなきかの一つの物を二つに分け合って、こころを一つにして生きる喜びに勝るものはない。今、こころを一つにする主君にようやくめぐり会えた。それを祝おう。誇りとしよう。
二分された家中を見ながら、元康(家康)は元康で密かに教訓を得た。忠吉が説くことを裏返せば、「岡崎衆が誇りとするに値する主君になれ」ということである。
三河の大半を今川に占領され、重臣をも含めて家臣の半分を駿府に連れ去られた。駿府にきた家臣と岡崎に残った家臣との暮らし向きは雲泥の差であった。そこで岡崎衆の窮状を見かねて、元康は「せめて松平家の本領二千石だけでも返してほしい」と義元に頼んだが返事がなかった。初陣の寺部城攻めで織田方の首級百を取った功績として三百石を返してもらったが、人質を解くようすはなかった。そんな今川にいまさら何で恩義を示す必要があろう。今川が消えてなくならないかぎり松平家の独立はない。
しからば織田と手を組んで今川を倒すか。
不可なり。
元康は雪斎の教えを思った。
雪斎は臨終の床であったにもかかわらず『吾妻鏡』を元康に講義しながらいった。
――頼朝は兵を持たなかった。今の元康と同じだ。しかし、頼朝は伊豆で挙兵し、危ないときもあったが、最後には勝利した。唐の国の韓信は敵の項羽と百戦して九十九回まで負けつづけたが、百回目に勝って劉邦を漢の皇帝にした。そういうふうに今が不利でも最後の最後まで物事の優劣勝敗はわからない。人の運命には人智を超えた不思議がある。頼朝は源氏に忠実な桓武平氏を信じた。劉邦は九十九回負けつづけた韓信を信じた。金を貸すとか貸さないとか、与えたものを失えば済む程度の信頼や裏切りではない。裏切りなどとは当初から無縁で滅ぶときは共に滅ぶ覚悟の据わった信頼というものがある。
――それをつくれ。そういう信頼が無から兵を生み出す。
だから、目先の打算で織田と手を組むようなことをしたら、先々大きな利を生むはずの元手を失い、結局、末をよくしなくなってしまう。
スペースの関係でデフォルメしたシチュエーション説明で間に合わせてしまったが、元康と岡崎衆が桶狭間合戦直前に置かれていたシチュエーションから逃れるためのいくさのパターンは、「岡崎衆が信長に全面的に勝ってしまったら今川が残って、松平家は現状のまま大きな犠牲を払うだけ今より悪くなる。だから、岡崎衆が織田方と戦うことは避けられないにしても信長との正面衝突を避け、信長が今川に対してのみ勝たせるように仕向ける」ことしかなかった。他方、岡崎衆と正面衝突したら、相手を全滅させないかぎり織田方の勝利はなく、岡崎衆に勝利したとしても損傷が激しく、結果として無傷の今川方を利するのみで滅亡が避けられないことをよく知る信長は、岡崎衆と利害を一致させるいくさの仕組みを発明することで暗黙裡に気脈を通じたのであろう。
それも信頼あってのことである。
鳥居忠吉は領土や年貢などの「もの」よりも大事なもの、すなわち「信頼」と「協働の精神」を家中に醸成し、結果として家康に絶大なる援護射撃をしたわけであるが、その人こそ寡兵をもって伏見城を十三日間死守して家康に反撃の時間を与えた鳥居元忠の父親なのである。
関ヶ原合戦へのメッセージ性という観点からいうと、鳥居忠吉・元忠父子ほど家康の陰の力になった親子はいない。すなわち、慶長五(一六〇〇)年六月十六日、會津上杉討伐に発向する家康は、「我は小勢のため三千しか預けられず、汝には苦労ばかりかける」と詫びながら、鳥居元忠に伏見城を託した。苦労ばかりというのは駿府の人質当時からお側去らずとして「苦労を分かち合ったあの日あのとき」を元忠と体験した種々相を意味している。
それに対して、
「天下の無事のためならば、伏見城の守りはそれがしと松平近正両人で足ります。将来、殿が天下を取るためには一人でも多くの家臣が必要です。三千などとは申さず一人でも多く連れていってくだされ」
と鳥居元忠は答え、わずか一千八百の兵で十三日間持ち堪え、家康に反転攻勢のための時間稼ぎをしたのであった。
長々と永禄三(一五六〇)年当時のこと、それから四十年を経た慶長五年のことなどを長々と述べたのは、人質の幼児の時代から苦楽を共にした家康と北条氏規、鳥居忠吉・元忠父子の間には「信頼」があり、それが「寡兵よく大軍の働きをした」効果の絶大さを強調したいがためである。
さて。
家康は大坂城から会津へ発向する直前に留守居の佐野正綱に兵五百を与え、懇切にいい聞かせた。
「万一のとき、伏見城を当てにするな。西丸も捨て、真っ直ぐに江戸を目指せ。決して敵と戦わず、わが家族を守ることのみ専一につとめよ」
正綱が渋って同道を願うと、家康は重ねて説いた。
「会津はかりそめの陣だからついて参っても手柄は立てられぬ。戦場は伏見、大津、佐和山じゃ。わしが伏見を空ければ治部少が挙兵する。引き返すまで伏見が持ち堪えられるかどうか。それゆえ伏見を当てにするなと申すのじゃ。お勝らを託せるほどの手だれはそちしかおらぬ」
お勝らというからにはお久の方もいたはずである。主君家康がお万の方(お勝)を後生大事に思う理由を知らない正綱ではないはずだが、旗本きっての豪の者とされただけに聞き入れられなかったのだろう、念を押すほど強く禁じられた伏見城に走って鳥居元忠とともに討死を遂げてしまった。
ここで識見物差しを持ち出すと、家康ほどの分別者がお万の方をただ正綱に預けるということはないはずであり、正綱にしても伏見で待ち受ける運命が読めぬはずはないのだし、主君の命令をまったく無視して何もせずにいるようなことはあり得ない。家康は伝わる以上にもっと具体的に万一の場合の行動まで指示したものと思われる。伝わる記事によれば、お万の方は「大和の知る辺」に預けられて無事だったという。大和の知る辺はまだ判明していないが、大和郡山城の増田長盛というような推測はまずあり得ないであろうし、考えられるのはかつての大和大納言家の家老桑山治部卿法印重晴の次男で大和国御所一万石の領主元晴である。父親の重晴は丹羽長秀の与力を出自としており、藤堂高虎・高吉と縁が深く、そのつてで子の元晴は関ヶ原に東軍として参戦することになるのだから。
正綱はまず元晴にお万の方とお久の方を預けてから再び大坂城西丸に戻って西軍に対応し、そのうえで伏見城に向かったものと思う。
「お万の方の無事を確保したからには、こっちの勝手にさせてもらう」
こんなところではなかったか。
東軍についた諸将にしてみれば「戦場に働きの場を望む正綱の気持ちが正しく、側室の保護を第一とせよという家康の命令に無理がある」という受けとめ方だったが、同時にお万の方が北条の血を引くことは周知の事実であったであろうから、会津討伐発向に際して特に意を用いたことにも共感の意を寄せたにちがいない。小田原城無血明け渡しから十年を経てもなお約束を守ろうとする家康の誠実な姿勢は、むしろ、信長存命の頃から少しもぶれていないという驚くべき事実を際立たせるものであって、諸将はある種の感銘すら受けただろう。
家康が三成挙兵の急報を受けたばかりの小山会議において帰趨を諸将の自由意志に委ねたのは、その直後であった。
「諸将の妻子は大坂で人質になっているから、去就は自由意志に任せる」
自分も家族の安全を第一に図ってきたのだから、諸将もそうして欲しいという論理であり情理でもあった。こっそり笹尾山に土木普請を行い関ヶ原が決戦の場であることを我のみ承知して行動した三成と対比すれば、東西を問わず両者に寄せる諸将の信頼感に大きく差が開くのは当然の帰結であった。
またしても閑話休題。
小田原合戦を正しく理解しなかったら関ヶ原合戦の真相は見えない。関ヶ原合戦を念頭におかないと小田原合戦の真相は見えない。第五セッションを数える本講座のコンセプトをそのように表現して始めたわけであるが、もう一つ、「明治維新政府のお仕着せ史観」から脱却しないと、本当の日本史を天動説的認識から地動説的認識には変えられないという問題が横たわる。そのためにも早く明治政府史観から抜け出て「踏まえるべき事実」を自分なりに整理整頓して自分で判断する癖を身に着けていただきたい。
事実のみが真実を語り、政治が真実を語るとはかぎらない。
是非にも肝に銘じていただきたい。