現状の日本史は発明・発見の草刈り場


 碓氷峠から関東に攻め込んだ前田利家ら北国勢が松井田城に釘づけになって身動きが取れなかったこと、石田三成が「忍の浮き城」と呼ばれた武蔵忍城を水攻めにしてしまったため手出しできなくなって対面を失ったこと、伊達政宗が参陣の遅れで窮地に陥ったこと、これらは従来の記述を鵜呑みにしても大過はないと思われるが、関ヶ原合戦へのメッセージ性という観点からいうと、微妙に問題があるようである。そもそもなんで三成が忍城を攻めたのかという疑問がある。三成は忍城を落とせなかったから「起きなかった問題」になって、問題が隠れてしまったのだから、問題を炙り出すためにもタラレバ思考をする必要がある。すなわち、あのとき、忍城が落ちていたら、家康は常に三成に背後を脅かされるパターンに陥っていた。実現しなかったから、家康はこれ見よがしに好きなように振る舞ったのであろう。

仮に構想倒れに終わった忍城包囲戦の例から「構想力はあるが実現できない」というキーワードを抽出、関ヶ原合戦当時の三成のデフォルメ人物像を読み解くパスワードとして用いた場合、家康を関東に追いやって北の上杉と西の豊臣遺臣で挟み撃ちにする構想だったのだが、それが駄目になると関ヶ原を決戦の場としてそこに東軍を誘い込み一挙に葬ろうと構想したのだが、「雨」という天候を敵にまわすよう家康に仕組まれて敗北したシチュエーションが炙り出しになる。その原型が忍城攻略未遂なのである。

 すなわち、三成が忍城を攻略していたら、家康は深刻な窮地に追いやられるところだったのだが、もともと水害に対処して築城された「忍の浮き城」を攻めるのに「水攻め」だけはしてはいけないことだったのである。ちなみに上杉謙信が忍城を攻めたときは城下に火を放っている。

 本講座第十七回で提起した疑問を思い出していただきたい。

秀吉はなぜ軍令違反を理由に家康を断罪しなかったのだろうか。あるいはできない何か理由があったのだろうか。その前に、心理的にいって断然不利な立場にあるはずの家康が、なぜ、公然と軍令無視を決め込み、好きなように振る舞い始めたのだろうか。

三成の忍城攻めを家康が逆手に取ってねじ上げたのだとしたら……。

「端城攻めは三成もやっていることだから」

もちろん、理由はこれ一つではないと思うが、三成にとって家康と相容れない理由は少なくとも小田原合戦の時点で顕在化していたわけである。それにもかかわらず、三成は関ヶ原合戦でも同じパターンでしくじりを重ねた。すなわち、あらかじめ関ヶ原を決戦の場と見定め、事前に笹尾山に塹壕を掘り、大砲五門を運び込んでおきながら、家康に作戦を読まれて雨の日に戦いを挑まれてすべての優位性を台無しにされてしまった。鉄砲が勝敗を分けた長篠の合戦のとき、信長が度重なる家康の来援要請を無視して雨の少ない時期になってから行動を開始した、あの用心深さと比べるとき、三成のいくさ下手は決定的になってしまう。

それはさておき。

 いずれにせよ、前回述べたように秀吉の一人勝ちで終わりかけた小田原合戦の流れが、宗二惨殺をきっかけとしてなし崩しに形骸化していったのは事実であり、ここからの主導権は家康と北条氏の交渉が事態展開のイニシアティブを握り、秀吉は「よきに計らえ」とばかりに傍観者的になっていく。

 なぜなら、踏まえるべき仮説事実の枝葉の一つとして、「秀吉に敵対したことを不問に付し、関東移封を再確認する見返りに、家康は信雄が追放されても見て見ぬふりをすること」という密約があるからである。

 それがあっての、

「北条氏の血の存続を確約した家康と氏政・氏直父子との密約」

 なのである。

 ただし、検証はこれからだ。

 そのためには時系列的に大きく脱線して、思いもよらないことを切り口にしなければならない。すなわち、小田原合戦から時の隔たること十二年、関ヶ原合戦から二年後の慶長七(一六〇二)年、家康と側室お万の方との間にのちの紀州藩祖徳川頼宣が誕生し、翌八年には年子の水戸頼房が誕生した事実がここで重きを持ってくる。頼房は断るまでもなく永世副将軍家水戸藩の藩祖である。しからば、お万の方はいかなる女性かといえば、母親智光院は小田原北条氏第二代氏綱の四男で氏康の弟氏堯の血を引いており、勝という名であった。それがどうして家康の側室になったのかというと、「文禄二年、沼津本陣で、お万の方は家康に見初められた」と伝わるばかりで詳しい経緯は何もわからない。

 こういうときは、わかっていることから証拠固めしていくのが鉄則である。

すなわち、慶長七年当時、家康は六十一歳であった。お万の方が家康の側室になったとき十七歳だから子を産む歳として決して早くはないし、子を産む能力は十分にあった。それなのに「見初められて」から子をもうけるまで八年もの間があって、翌八年には年子の頼房を産ませるというのはいかにも作為的であり、現象的にいっても不自然である。だから、関ヶ原合戦に勝利して天下の帰趨が決するまでは閨房を営む暇がなかったと見なすのが妥当と思われる。

それにしても六十代になってつづけて子をもうけるのは涙ぐましい努力というほかない。しかも、頼宣を数え二歳で水戸二十万石に封じ、翌年には五万石を加増、それも駿府城にいる家康が頼宣を手許に置いたままの処遇である。慶長十一年には弟の頼房を常陸下妻十万石に四歳で封じ、こちらは伏見城在城のままの襲封であった。慶長十四年には晩年を意識したためか家康は自分の隠居地の駿河・遠江五十万石を頼宣に譲り、空いた水戸には頼房を移封して二十五万石を継がせた。頼宣は家康の十男、頼房は十一男であるが、まるで長男と次男にするような手厚い処遇である。

結局、家康は元和二年に七十五歳で亡くなるのだが、その三回忌に当る元和五年、頼宣は十八歳で紀州徳川家初代当主になり、名家老安藤帯刀が補佐することになっていく。恐らく家康の遺志だったのだろう、北条の血筋の子としては「三人目はいない」のだから、なけなしの北条の血筋の子を二人とも(たったの二人のうち二人とも)徳川御三家のうち二家に入れたという事実は実に衝撃的である。したがって、ゆくゆくは徳川将軍にその血が入るのは必至であり、事実、第八代将軍徳川吉宗にお万の方の血が伝わっていくのである。

おいおい、どういうことなんだよ。

正直、私は度肝をぬかれた。

こうして無造作にぽんと事実を投げ出すと、単に驚いただけのように受け取られてしまうと思うが、ここにたどりつくまで試行錯誤のリングワンでリングを八年以上も繰り返してきただけに、驚くだけでは済まされない。

だから、

「北条の血を徳川将軍に入れる」

家康が北条氏存続のかたちとして提示したのはこれだったのかと一気に納得がいったとしても、安直の誹りを受けることはないだろう。

 そこで思うに、伝聞資料が「見初めた」とするのは事実を粉飾するための説明的な付けたりに違いないということである。氏直の死去を受けて、手引きする者があってお万の方が沼津本陣で待ち受け、家康もまたそのつもりで接見したのだ。お久の方もそのときお万の方に相伴したものと思う。

 なぜか。

  当時は文禄の役で多くの大名が朝鮮に遠征するさなかであり、家康はそのとき五十二歳、戦国時代の武者道は戦時の女犯を厳しく禁じていたから、我から女性を物色するようなことはあり得ない。すなわち、小田原城無血開城の条件として縁組の密約が成立したとしても、小田原合戦のどさくさに紛れて実行に移すシチュエーションにはなかったであろうし、縁組が成立するとしたら政略がらみ以外の理由は考えられないのだから、小田原無血開城当時、家康の側室に送り込む女性をお万の方に特定できていたかどうかもわからない。ましてやお付きと思われるお久の方に至っては目星すらついていなかったであろう。ただ、母方に北条氏の直系にかぎりなく近い血筋を持つ女性という条件は話し合われていたであろう。前に述べたようにお万の方の母親智光院は小田原北条氏直系の血を引いており、条件はぴったりだった。間宮氏の血脈に連なるお久の方は条件に合わないから恐らくお万の付け人だったのだろう。家康が見初めたとするなら相手はお久の方のほうであり、事実、子をもうけなかったというのに最後まで家康の寵愛を受けた。本命のお万の方は家康晩年にもかかわらず紀州大納言徳川頼宣、水戸中納言徳川頼房を生み、その血脈は連綿として受け継がれ徳川第八代将軍吉宗に伝わったのである 
(つづく)




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