木下家、羽柴家の時代から「公儀のことは秀長に諮り、内向きのことはお寧に委ねよ」という秀吉を掣肘する内規が厳然として存在したということは、これまで折に触れて強調してきた。
記録に残るのは「公儀のことは秀長に諮り、内向きのことはお寧に委ねよ」という決まり事めいた申し合わせで、あらためて問題となるのが本能寺事変からのち「内向きのことはお寧と利休に」と変わったことである。この申し合わせを実現できた人間として信長を最有力人物としてきたわけであるが、実は本能寺事変後に利休が加わったことで、かなり割り切れない気持ちになっていた。もちろん、信長をはずわけにはいかないが、信長のほかにもいたと考えないと説明がつかない。秀長、お寧、利休は付託を受ける立場であり、本人たちにそのような力はないのである。そこで、気がついたのが大政所である。秀吉に桎梏を加える決定は桶狭間前後としないと辻褄が合わないから、その申し合わせに効力を与えたのは信長で動かないとしても、発案者の存在を考えると秀吉と秀長の人となりをよく知る大政所(本名なか)のほかには考えられないのである。小牧山合戦の後、家康との和睦に関して大政所がみずから人質を買って出たとすると、彼女は凡庸な女性ではなく、想像以上に傑出した女性だった可能性が高くなる。
いずれにしても、秀吉はその桎梏から逃れようとして本能寺事変を誘発させ、公儀を仕切る秀長に対抗する密かな手段として若い宇喜多秀家を養子にし、その軍勢を意のままにしようとしたのである。では、秀吉の思惑通りに運んだのかというと、次の事件が起きたことを考えると、どうも違うようだ。
石垣山に一夜城が完成してからのことであるが、秀吉が早雲寺の本陣を引き払って移ると、大坂から淀殿や松の丸殿が諸将の妻妾を引き連れてきて城で暮らし始めた。茶人や能楽師も大勢同行してきて、それからの日常はとても戦場とは思えないきらびやかな色彩に彩られた。秀吉はもとより大名までもがそのありさまだから、石垣山の尾根に開かれた関白道の両側には京・大坂あるいは近在からきた遊女が住みついて将兵を相手に春をひさぐなど、いつの間にか城下町らしき町並みまで整い始めた。
籠城方の北条氏政は持久戦ならこちらが一枚上とばかりに城内で茶会を催し、将兵には囲碁や将棋に打ち興じさせ、領民には祭礼を奨励して対抗した。
ある日、石垣山城の大手門前を一人の武将が乗馬して通りかかった。
「殿下の御前じゃぞ、推参者めが、馬から降りろ」
番卒が叱ると、武将は駒の歩みを止めて挑むように肩をそびやかせた。最初から腹に一物あってわざと乗馬して大手門前を通り抜けるつもりできたのである。武将は宇喜多秀家の家来で一徹者として知られた花房助兵衛職之という猛者であった。
いくさの間に最も忌むべきは女子であるとされた時代、何とうつけたるこの体たらく、敵をつけあがらせるばかりではないか、というのが助兵衛のいいたいことなのだが、面詰する機会がない。だからといって諦めるような男ではなかったから、わざと物議をかもすつもりで番卒にやり返した。
「どこが戦場じゃ。どこが御本陣か。殿下はどこにおじゃる。さればとて、茶の湯や能楽にうつつをぬかすたわけし大将に下馬する礼儀など、それがし、存ぜぬわ」
主君秀家が秀吉に呼ばれてきているのを知ったうえでの高声である。番卒が取り次ぐまでもなく野点の席に筒抜けだった。
秀吉は烈火のごとく怒って秀家に命じた。
「さても小面憎し助兵衛の致しようじゃ。八郎、ひっ捕らえて縛り首にせよ」
秀家は苦りきった。
助兵衛は武勇の誉れ高く、むざと殺すには惜しい人物である。またしても面倒を起こしおって、と秀吉に謝罪させるために立っていって連れ戻った。
「大言壮語を吐くからには汝にはさだめし敵の城を落す妙案があってのことであろう。名案を腹にしまったまま冥土へ送るのは惜しい。聞いてとらせるゆえ存分に申し上げよ」
秀家の気持ちも知らぬげに助兵衛は傲然といい放った。
「目の前に敵あらば果敢に挑むだけ。それ以上の名案はござらぬ」
「悪いことはいわん。助兵衛、理屈をこねず、ひたすら殿下にお詫び申し上げよ」
「理屈が通らなくなったら世は終わりでござる」
秀吉が怒って秀家に声をかけた。
「八郎、もう、よい。即刻、首を刎ねよ」
秀家の額に脂汗が浮いた。助兵衛を何とかして助けたいのである。日常から家来思いで大事にするのが秀家の取柄であったが、そればかりが理由ではなかった。備前岡山四十七万石宇喜多家の家中は国許組法華派と大坂組キリシタン派に割れて反目し合っており、秀家は幼いとき大坂に質子として送られてきてから豊臣家の養子となって北政所に養育され、父直家の死後、家督してからも大坂に留まって茶の湯や能楽に耽溺しつつ育った。そのために大坂組キリシタン派ばかりを大事にし、接触のない国許組法華派を放り出した恰好になっていた。助兵衛はといえば国許組法華派の領袖の一人なのである。助兵衛を成敗しようものなら大変なことになってしまう。
今回の騒動にしてからが、秀吉にする当てつけというより大坂組キリシタン派べったりの秀家に対するいやがらせであるのは明白であった。ここを助命せず秀吉の命令に従って助兵衛を成敗しようものなら、これから先、国許組がどのような行動に出るかわからなかった。秀家は秀吉にひたすら懸命に助兵衛の助命を請うた。しかし、助兵衛はわが命の瀬戸際だというのに秀吉に向かって懸命に助命嘆願を訴える秀家を冷ややかに眺めるばかりであった。
関ヶ原合戦前とまったく同じ宇喜多家のシチュエーションを、われわれはここにありありと見出すことができる。秀吉としては宇喜多勢をみずからの親衛隊とすべく幼主秀家を養子とし、偏愛・盲愛のかぎりを尽くしているわけであるが、関ヶ原合戦にかぎっていえば家康にいいように草刈り場にされてしまうわけである。その原因の萌芽を、今、ここに見ているわけである。
さて。
宇喜多家固有ともいうべき過激なエネルギーを理解しない秀吉ではなかったから、同情とも後悔ともつかない深い溜息をついて、遂には秀家の懇願を容れざるを得なかった。
秀吉が最も頼りにしてきた宇喜多家の家来にしてからが、このありさまなのである。木下家、羽柴家、豊臣家の今日まで、公儀を仕切り、事実上、家父長として振る舞った秀長を敬愛してやまない子飼いの大名諸侯の秀吉に対する不人気は言及するまでもない。
野村敏雄著『小早川隆景』(PHP文庫)は次のように記す。
《大納言秀長の死は、思った以上に、世間に深刻に反映した。
朝鮮通信使の来朝がきっかけで、巷では、秀吉の朝鮮出兵が噂となり、
「関白様、唐入り」
が囁かれて、世情不安を高めていたが、秀長の死が伝わると、さらに秀吉の悪政に対する怨嗟の声が、地上に吹き出してきた。
庶民にまで慕われた秀長の死は、秀吉の人気のなさを、この上なく露呈させる皮肉な結果を生んだのだ》
この不人気は一朝一夕に生まれたものではないはずである。小田原合戦時の宗二惨殺が秀吉の不人気に輪をかけたのはいうまでもないであろうし、織田の根切りで織田信雄を奥羽へ追放したことも不人気に輪をかけた。それより何よりも着目しなければならない点が、小田原合戦が秀長の参加しない秀吉単独のいくさだったことである。帷幄はもとより天下の人々がそのいくさぶりを目の当たりにした。到底、いくさとはいいがたい一部始終を……。
今日においても小田原合戦に人気がない最大の原因は、そこにあるのではないだろうか。当時の武将たちにしてみても、秀吉のいくさにはもう参加したくないというような……。
ところで、ここで、唐突なようだが、前述した『関東古尋録』の秀吉と家康の「関東連れションベン」を再掲することにする。前述したときは否定的見解を述べたが、小田原合戦のハイライト「宗二惨殺」まで言及してきたとなると、かなり事情が違ってくる。出典としての信頼性にどんなに疑義が問われる資料であっても、「伝わる事実は慎重に扱い、生かせるものは極力生かして用いたい」というのが本講座の基本スタンスである。
すなわち、長久手の敗戦のあと、秀吉が十万の大軍を楽田の本陣に残して大坂城に逃げ帰ったこと、小田原陣でも大坂に帰ろうとして小早川隆景に引き留められたこと、背後の家庭の事情、宗二惨殺による秀吉の不人気などを読み切って、家康が紙一重ぎりぎりのところで秀吉に対して極限の闘いを挑んだのだとすると、秀吉としては何らかの答えを出さなければならない立場である。秀吉が出した答えが『関東古尋録』が伝える秀吉と家康の「関東連れションベン」であったとすると、史料価値云々に関係なく事実として、俄然、信憑性を帯びてくる。
そこで、閑話休題。
一度はボロクソにくさした『関東古尋録』の「関東連れション」を事実として復活させた理由をここで強調しておきたい。よくいわれるのが、「Aの史料は信憑性に疑問がある」ということであるが、だからといって「書かれていることのすべてを否定してしまうのは短絡にすぎる」と反論しておく必要がありそうである。これまでは短絡した考え方が罷り通ってきたが、今後、日本史を新興宗教の類いではなく、より学術的なものにしていくためには十分に再考すべき事柄であろう。逆に非難すべき事柄に「第一級史料への盲信」がある。NHKの番組で桶狭間合戦を論じているのを視聴したのだが、該番組は『信長公記』の内容しか取り上げないから、まるで見当違いの「漆山」を桶狭間山と誤認する初歩的過ちを犯してしまっていた。そうではなく信憑性に疑問があるとされる『武功夜話』を読み、その記述に照らして現地を歩いてみれば、今川義元の本陣は「桶狭間山」の上ではなく麓であるとわかる。大池という溜池ともう一つの溜池の間が「田楽坪」と呼ばれる松林だったところで、そこからなだらかな丘陵の間を下ると一本道に出合う。田楽坪の名で呼ばれた平坦地の範囲の中に行政が特定した本陣跡が入っており、解説版が設けられている。『武功夜話』の詳細な記述に照らしても、そこが正しく義元の本陣であり、山とはいいがたいような背後の丘が桶狭間山だったのであろう。地形こそ第一級の史料ということでいえば、かなり広々とした丘陵地の間を「一騎打ち」の狭い道が通っていたわけで、もし、雨が降らなかったとき、信長は中島砦から一本道を行軍して今川軍を誘い出し、両側に散開して六メートルもある長槍で左右から突き伏せる作戦だった。深田でも行動できるように早くから川で合戦の訓練を積んだのである。しかし、現実には煙幕にはもってこいの豪雨が降ったから、奇跡の勝利みたいに受け取られるような展開になったわけだ。信長の勝利はあくまでも理詰めで確かな実戦訓練に裏づけられていたわけである。
桶狭間合戦の記述に関して、仮に『信長公記』で読むべき価値があるとすれば、今川が桶狭間山にいたとき「信長が中島砦にいた」という事実、そして「信長の目の前にあるのは手越川に沿ってのびる一本道であり、両側は身動きもままならぬ深田である」というこの二点である。
では、山の上に物見を配する今川軍がなぜ丸見えの一本道を通って本陣に接近することを許したかといえば、直後に来ったゲリラ豪雨が原因である。信長が早くから雨中行軍を演習してきたことはすでに述べた。それなのに『信長公記』は雨があがってから、信長に「かかれ、かかれ」と号令をかけさせている。それでは雨が降った意味がない。雨が降っている間に一本道を進軍して、雨が上がって視界が戻ると同時に、「かかれ、かかれ」と目の前の今川勢の中に突入したのである。第一級史料だからといって個々の事実すべてにお墨付きを与えるのは間違いである。個々の事実の吟味を怠ったら後世のよい物笑いになりかねないのが日本史の現状なのである。
すなわち、われわれが本当に取り組まなければならないのは史料の鑑定でも格付けでもなく、踏まえるべき事実の吟味であるということにはならないだろうか。
ところで。
もし、秀吉と家康の「関東連れションベン」は家康を関東に移封するという確約の再確認を議する場であったと解釈し直すと、秀吉はこの機会に「家康と北条氏の密約」の件は水に流して不問に付したということになる。このときの家康の最優先事項は北条氏救済であり、それが宗二と間際に交わした約束でもあったろうし、それらを実行し実現させるための絶対必要条件がわが身の無事であるから、『関東古尋録』が伝える事実の意味は極めて重大である。なぜなら、皆殺しの軍令は事実上撤回されたことになるから。
これで、説明はついた。
窮地に陥ったはずの家康を蘇生させた「秀吉の訓令違反に関する曖昧な対応」が関ヶ原合戦にどのようなメッセージを送ったか、次回はそのことに言及する。