一夜城着工から三日の間に起きたコペルニクス的転回(その2)

 一夜城築城着工が家康に与えた衝撃の大きさは、秀吉にはすでに織り込み済みであった。ところが、家康が気づいたときはもう遅いとなるはずだったのにそうならない。北国勢が松井田城で足止めを食ってこられない。こうなると一夜城着工は両刃の剣である。だからこそ、着工を急がせたのだが、完成するまでの間に家康に加えた打撃がわが身にどういうかたちで跳ね返ってくるかわからない。そのときのために調停役が必要になった。すなわち、一夜城は四月九日に築城に着手し八十日弱をかけて六月二十六日になって完成するのだが、それまでの間がよほど不安だったのだろう、秀吉は清洲城の留守居を受け持つ小早川隆景を早雲寺に呼びつけ、甥の秀次の後見役を命じたうえで、自分は大坂へ戻るといい出した。

かつて楽田に十万の軍勢を率いて布陣しながら、長久手で手痛い敗北を喫すると、秀吉は敵前逃亡同然に大坂城に引き揚げてしまった。ただし、今度の場合は勝ち逃げである。これが秀吉の保身術であり、わが身の防御法であった。小牧山合戦時と小田原合戦時にのみこの悪癖が出たのは前者の場合は秀長の協力がなかったためであり、後者の場合は秀長が不在だったことと密接に関係する。

大日本帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史・小田原役』は、『紳書抄』の記事が隆景の到着を五月二十日とするのを「五月初旬」と訂正して記述している。けれども、隆景が献策した淀殿や大名の妻妾を呼び寄せる案を容れ、秀吉がそれを各陣営の大名に命じたのは四月十三日だから、それ以前に到着していないと辻褄が合わない。隆景が早雲寺に姿を現したのは「五月二十日」でも「五月上旬」でもなく、これから述べる経緯から「四月上旬」とするのが妥当であり、一夜城に着工して家康に打撃を加える九日には到着していないと調停できないわけである。

さて。

秀吉が自分と入れ替わりに大坂へ戻るつもりと聞いて隆景は驚くと同時に呆れて反対した。

「凱旋する以外、殿下が大坂へ戻る機会はござりません。小田原城がすぐには落ちそうもないからといって、中途でご帰還なされては世上の不安を煽りましょう。一年、二年の長陣のお覚悟があるなら、淀殿、松の方様をお呼びなされて、大坂でなされるごとくお暮らしになればよろしい」

 秀吉にしてみれば「大坂と変わらない暮らし」などは二の次で、小田原から脱出するのが本当の目的なのだが、そのようなことは武将の中の武将とされる隆景には想像できないことである。秀吉はあれこれいい抜けようとしたが、とうとう隆景に正論で押し切られてしまった。かくして秀吉の小田原攻めは隆景の登場で性格を一変させるのだが、今は予告に留めておく。

 敵前逃亡を策して大坂へ帰ろうとして失敗した秀吉が、次に試みたのが織田信雄を韮山から呼び、井細田口に布陣させることであった。北国勢が来ない以上、信雄を背後に置くことは危険極まりない。信雄を井細田口に移動させてから、秀吉は元服したばかりの家康の嫡子秀忠を「小田原攻めの布陣を見せて経験を積ませる」という口実で駿府城から早雲寺の本陣に呼び寄せ、人質として担保してから、旗本を何人か選抜して引き連れ、舟でまず家康の本陣を親しく訪問した。

 臆病なくらい保身に意を用いる癖に、必要なときにはこういう大胆極まりない行動に出ることもある。こういう振幅の大きさが、私が今もって秀吉に決定的な評価を下すのをためらわせる原因であるが、それはさておくとして、秀吉は何事かといぶかる家康を誘い、次いで井細田口の信雄のもとへ行って野点を演じた。さらにそれから、家康と信雄と三人してわざと北条方に馬上姿を見せつけるように諏訪原経由で早雲寺の本陣に帰着した。

 北条方はこれを見て、

「秀吉を殺すまたとない機会なのに、どうして討たないのか」

 と、深刻に受けとめ、家康と信雄への疑念を深めた。徳川・織田・北条の間に何らかの密約があったとしたら、この時点で、立ち消えになったに違いなかった。

 臆病なくらいみずからの保身に汲々とする秀吉でありながら、だからこそというべきか、究極の保身ともいうべきことを平気でやってのけてしまう。すなわち、「北条と家康、信雄の仲を裂く」といったようなネガティブな意味を持つ罠を仕掛けるようなときにかぎって、秀吉はまるで別人のようにいきいきとしてきて、悪魔のような知恵を発揮し、大胆に、しかもいとも簡単にやってのけてしまうのである。

 臆病なはずの秀吉が、なぜ、あえて身の危険を冒してまで、以上のようなパフォーマンスを断行したのだろうか。

踏まえるべき仮説事実ということでいうと、秀吉が大局的見地から総合的に判断することはしない、すなわち時系列的連鎖によりシングルイシュー的に行動する傾向を強く持つ、このことは繰り返し述べたわけであるが、すべては大坂への逃亡計画が発端なのである。小早川隆景の小田原呼び出しはそのための重要な布石なのだが、案に相違して大坂への退避計画を隆景本人につぶされてしまった。

しからば、どうするか。

小田原在陣中の身の安全を図ることが喫緊の課題となった。

秀吉がこうまで保身に腐心することになった一番の原因は隆景の登場であるが、みずから招いたことだから仕方がない。北国勢に期待した「タマネギの皮き」は目途すら立たない。またしても、秀吉は考えた。

しからば、どうするか。

秀吉としては韮山城から織田信雄を呼びつけて、腹背に危険分子を背負うパターンを解消したいところである。しかし、それだけではもったいない。

何か気の利いたやり方はないか。家康が本陣を置く井細田口なら信雄は安心して応諾するだろう。

家康本陣への大胆な訪問策はこのとき秀吉の頭で閃いたものと思われる。

北国勢と連携して家康を腹背から攻める策はもう使えそうもないから、酒匂口の家康と井細田口の信雄を二人一緒に連れ出して、二人まとめて秀吉方に寝返ったように見せかけてやろう。

こうなると、秀吉にとっては、かえって好都合、「しめしめ、妙案、妙案」という流れである。いかに悪魔的な知恵の冴えがあろうとも、すべてに刹那的な悪魔の知恵の閃きなのである。しかし、効果覿面、小田原城内では家康に対してもともと懐疑的なグループが日増しに勢いを盛り返していった。

 小田原合戦ほど時系列にものごとを推移させて解析を加えないと判断が狂う事象はないといってよいかもしれない。本来ならおのれの保身目的の大坂帰還をフイにしてしまった隆景に当たり散らすところなのだが、秀吉には結果オーライだから恨むことはなかった。秀吉にしてみれば隆景を逆に褒めてやりたいくらいだったに違いなかった

(つづく)




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