秀吉に三たび追われて、殺されて


山上宗二のことを知らない人のために、彼がいかなる人物であったか、簡単に説明を加えることにしよう。

 山上宗二は堺の納屋衆の一人で、千宗易(利休)の一番弟子であった。織田信長には師の宗易より先に仕えたが、二十四歳上の師匠に茶頭を譲った。当時、宗二は三十八歳、「仏法は茶の湯の中にあり」とまでいう宗易に傾倒していたが、本能寺事変の直後、師匠が秀吉の茶頭となって利休を称するようになってから距離を置き始めたらしい。

 宗二が二度も秀吉から追放を受けたことはよく知られているが、惨殺されたのを加えると三度である。面相も口癖もよくなかったと資料は伝えるが、面相は関係ないだろう。問題は秀吉を三度激怒させた毒舌にある。毒舌にもいろいろあるが、だれかれ構わず悪態をつくパターンもあれば、ちゃんとした理由から当の相手にかぎって歯に衣をきせずにいうパターンもある。次の事実から宗二の場合は後者のパターンであったみなすのが妥当だろう。

 すなわち、のちの天正十九年に至って秀吉の命で利休が切腹させられてからわずか二ヵ月後、大徳寺の古渓宗陳は亡き宗二の一周忌法要を迎えて宗二の子の伊勢屋道七に「瓊林」(えりん)という諡号を与えた。「瓊林」という諡号の意味は「玉のように美しい人」である。前者のパターンでは宗二という人間に卑しさが感じられてしまって少しも美しくかんじられないから、ここでは後者のパターンとして宗二その人を理解すべきであろう。

 第一回目の追放は天正十一年十月九日のことであった。秀吉が謀略を用いて織田信孝と柴田勝家を岐阜と北陸に分断、賎ヶ嶽の合戦で二人を自殺に追い遣った直後である。

 すでに述べたことだが、当時、誓書には熊野牛王の法印が押してあって、それを破ることは死よりも恐れられていた。秀吉の当時の不人気ぶりはそのへんからきているのではないかと見当をつけてきたわけであるが、極めて最近、すでに目を通した『武功夜話・秀吉編』中の「筑前守分限となる」を読み直して驚いた。

《この度の北国平定によって、羽柴筑前守様は所領を著しく拡大されて、都合、二百二十万石となられた。その御蔵入地は江州、丹波をはじめとし、備前、摂津、泉州、伊賀など合計十三ヵ国にもおよび、まことに広大である。

 また、石見の銀山、但州生野の銀山、和(摂)州多田銀山に加え、七ヵ所の銅山、銀・金鉱山からあがる運上の金銀はおぴただしく、以下省略》

 省略した部分は大坂築城時のことで「御天守ならびに御金蔵などに収納された金銀は十数万両」と述べられている。

秀吉が誓書を反故にしてまで手に入れたかったものは何か。したがって、宗二が秀吉に何をいったか、追放という結果に照らせば容易に想像がつく。

同じ理由かどうかはわからないが、宗二と同様に秀吉を徹頭徹尾嫌い通した三河武士がいる。日本一簡潔な手紙文「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で知られる本多作左衛門重次である。小田原合戦を始めるに際して家康から軍旅の途中の秀吉をもてなすようにいわれたとき、「徳川の本城たる駿府城に秀吉を泊めるなど奥方を貸すようなもの」と本多重次がいってのけたことはすでに述べた。小牧山合戦後に和睦が成立し家康上坂の見返りとして人質になって岡崎城に預けられてきた秀吉の実母大政所の住まいに薪を山と積み、主君に万一のことあるときは覚悟せよと威嚇したのも重次であった。小田原合戦時には利休が秀吉を蛇蝎のごとく嫌っていた事実はすでに述べた。秀吉には一徹な人間に嫌われる何かがあったのは確かである。利休は家康の保護がなかったため屁理屈めいた理由で切腹を命じられ、本多重次は家康のとりなしで一命を取り留めたものの蟄居の身となってしまった。

さて。

 追放された宗二の行く先は加賀前田家であった。頼ったのは利家ではなく利長ではなかったか。本能寺の変の当時、利長は信長の娘を正室にし、越前府中城を授かっており、家康とともに饗応を受けたあとまだ七歳だった妻と京の遊覧に向かっていた。利長のほうがそれだけ信長と密接だったからである。それ以前にも大徳寺塔頭興臨院が失った能登の寺領復活のため宗二は加賀へ足を運んでいる。そのとき計算高い利家の人となりに随分と閉口したはずだから、頼るとしたら母親のまつにも信頼されていた利長しかいなかったと思う。

 ここで私の思い入れを述べることが許されるなら、次のようにいいたい。

 加賀前田家には利家付の重職として片山伊賀守延高がいる。徳川家康に通じていたという噂が伝えられており、利家没後わずか数日の間に誅殺されている。誅殺した二人の侍はなぜか恩賞を辞退している。遺族も加増されるかたちで越後の堀家に移籍してのち再び前田家に復帰している。こういうおかしな出来事に取り巻かれたナゾの人物である。このとき、宗二が金沢へ行ったのは前述の客観的理由よりも片山延高がいたためではなかったか。

 このように考えると、松井田城を攻める北国勢に片山延高がいたことにより、酒匂口に陣取った家康の背後への懸念はかなり薄れるわけである。のちに詳しく言及するが、前田利家は「タマネギの皮むき」が間に合わなかった理由で死の危機に直面した事実が家中に伝わっている。死の危機に直面した事実といえば有名な伊達政宗の遅参がある。二人を死の危機に直面させた秀吉側の理由は同一であろう。あくまでも仮説だが、このときの延高の行動が家康を利するものであったために利家に恨みを買ったとしたら……。

 秀吉、三成、利家、前田利政、前田慶次郎、いずれも後世の人々から好意的にみられているある傾向を持つ人物群である。しかし、アンチ家康であるという以外、一流の人物像を形成するに足る史実にめぐり合えないでいる。

 それはさておき。

 加賀前田家に寄食していてなぜか追放を解かれた宗二が、再び追放されたのは天正十三年四月のことであった。その半年前には家康と秀吉が小牧山でにらみ合いをし、長久手で敗れた秀吉は大坂に避難、信雄を相手に和睦を勝ち取って家康との全面対決を免れようと画策するさなかだった。ここで次回に触れることを先取りして事実のみ述べてしまうと、秀吉の避難癖は小田原が初めてではなく、小牧山合戦時と合わせて都合二度に及ぶ。このことを記憶に留めておいていただきたい。

 再度追放された宗二が小田原に現われたのは天正十六年三月初旬であった。それまでどこにいたかというと、恐らく大徳寺だろう。大徳寺百十七世住職古渓宗陳が三成と衝突して秀吉の勘気に触れ博多に配流された年である。このことにも宗二がからんでいたかもしれない。

 大徳寺第百十三世住職だった明叟宗普が同寺の二大末寺の一つ堺の南宗寺を経てもう一つの末寺早雲寺に下ったのは、宗二が小田原に現われた翌年のことであった。大徳寺はもちろん阿弥陀寺の清玉上人を含めた仏教界、茶道界の秀吉嫌いは今日の太閤人気と天地ほどの懸隔がある。どちらかが信長暗殺は秀吉が黒幕であったとする説の出所ではないだろうか。

 一方、小田原の北条幻庵は箱根権現の別当から還俗した人で、氏康、氏政、氏直と北条氏後半三代の後見を務めた一族の長老であった。治世の才覚はいうに及ばず仏教から茶の湯、連歌、和歌の道に幅広く堪能であったことから「西の細川幽斎」「東の北条幻庵」と並び称された。

 明叟宗普が早雲寺の住職となって小田原にきたのは家康が秀吉と和睦した直後であった。何か目的があって求めて小田原にきたように思われてならない。仮に家康が大徳寺人脈の請い願う「信長の弔い合戦」「打倒秀吉」の頼みの綱であったとすると、家康が秀吉と和睦したことは彼らにとって大いなる失望の要因だったはずである。宗二としても、宗普としても、最早、頼りがいがあるのは奥州の伊達氏と連携する北条氏なかんずく幻庵しかなかったであろう。その幻庵なく、懐疑派のグループに疑いの目を向けられて、宗二は不惜身命の決意をすることになる。だが、その決断をうながすには秀吉の近辺に新たな動きがなければならない

(つづく)




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