板橋城の攻防と一夜城着工の関係はこれまでの説明でおわかり願えたと思う。こうした動きが北条氏の降伏を人為的に早めたことは間違いない。それらしき動きの一つに「宗二惨殺」と「明叟宗普の断食自決」がある。一夜城着工が四月九日、宗二惨殺が起きたのが四月十一日、このわずか三日間に何が起きたのだろうか。
さらに、秀吉に宗二が惨殺されてから五日後の十六日、小田原城で明叟宗普が断食自決を遂げた。断食自決だから、少なくとも秀吉が一夜城の築城に着工した九日には断食を始めていたはずである。宗二と宗普の心の紐帯の強さから考えて、お互いに示し合わせたうえでのことだったのは間違いない。しかし、どちらも尋常の死に方ではなかったことを考え合わせると、あえてそれだけの犠牲を払っておりながら動機、目的ともに不明というのはどう考えてもいただけない。このように思い立ってから宗二惨殺と宗普断食自決の解析に要した歳月は実に十二年余、試行錯誤と思考のリングワンデリングの繰り返しだった。今は解析を済ませてわかってしまったから、「終わってみれば、やはり一プラス一は二」であるが、日本史にはこうした作業を必要とする場面が無尽蔵にあることを知ってほしい。
閑話休題的にいわせてもらうと、わかっていることが広大な平面のうち点みたいな事実が数えるほどしかない場合、まず効果的な事実を切り口にして仮説を立ててかかり、第一の仮説を証明するために第二の仮説が必要になり、そこから派生して第三、第四の仮説が必要になっていく。仮説の検証は学問的方法論として認知されているわけであるが、こうなると学問的許容の限界を超えてしまうといわれそうである。ただし、「ジグソーパズル式検証」という方法論を厳密に当てはめるならば、結果として単一の仮説検証法と原理的には同一になるのが道理だから、数少ない事実をも含めた仮説事実群が時系列位置、空間的位置において相互に矛盾なく整合するような「踏まえるべき仮説事実群」が必ず一つだけ存在することに着目すれば十分に学問的方法たり得る。もちろん、いうは易くで、私の場合は十二年間かかった。したがって安易な方法というより、百年河清を待つ愚直で汗を伴う極めて困難な方法論であると認識していただけたらさいわいである。
さて。
当時、秀吉の念頭を占めるのは、もちろん家康対策であったはずだが、大徳寺派の宗二と宗普の存在も気にかかるところだ。しかし、最大の支持者幻庵の死で、アンチ秀吉の二人は「二階に上がったところで梯子をはずされた」恰好になっていた。
七週目の講座で「北条氏内部には家康に対してもともと懐疑的なグループが存在した」と述べ、「このグループがのちにマイナスの意味で大きな役割を果たす」と予告しておいたのだが、いよいよ彼らの存在がものをいうときがきたわけである。ただし、起爆剤となる城外からの働きかけがなければならない。
しかしながら、ここからは、すべて仮説である。わずか一つでも矛盾が生じたら仮説は瓦解する。それが仮説のルールである。すなわち、一夜城着工の事実により秀吉が家康と北条氏の密約に気づいたと判明した以上、密約をなかったことにして、新たに対応策を話し合う必要に迫られた。まさにコペルニクス的転回であり、秀吉の悪魔的知恵が炸裂した瞬間であったともいえる。
この三日間を契機に包囲方と籠城方の間の動きがあわただしくなるのだが、まず三日間における双方の動きを追うことにしよう。
籠城方の動きから述べると、宗二と板橋城を死守する細川忠興の関係はすでに述べた。酒匂口に本陣を置く家康の帷幄には本多正信がおり、宗二とは本能寺事変、伊賀越え以前からの知己である。北条氏政・氏直父子と家康の仲立ちをして情報の交換に働いた人間は宗二だったのだから、このときも宗二が仲介に動いたものと思う。
「密約を実行しても成功する見込みはかぎりなくゼロに近くなった。無血開城を前提に北条氏の生き残り策を協議したい」
宗二と家康、正信、あるいは忠興の間で、どのような方法で連絡が取られたのかは定かでないが、こうしたシチュエーションが現実としてあったとしないと、その後の事実が矛盾なく成り立っていかない。
このとき、宗二と家康の連絡に疑義を呈したのが、家康に対してもともと懐疑的なグループであった。
「密約を白紙に還元したからには、最早、家康は敵とみなすほかない。無血開城などもってのほかである」
彼らに対して宗二と宗普はこれ以上籠城をつづけることの愚を説いた。
総構えを構成する鉄壁の大土塁は守るときは効果的だが、攻撃するときには逆に多大な障害になる。各口は敵に塞がれている。今は食糧が足りているが、領民を抱えてどこまで持つかわからない。食うに困ってから交渉を持ちかけるくらいなら、形勢互角の今のうちに交渉を開始したほうがよい。
宗二の説くところは理に適っているのだが、一夜城築城の情報も、城下町建設の計画も、正信なり、忠興なりから情報を得た宗二のいうことであり、それを信じてよいものかどうか、もともと宗二と宗普に信頼を寄せてきたグループさえ迷いをみせたくらいだから、家康に対してもともと懐疑的なグループが信じるわけがない。
どうしたら、信じてもらえるか。
宗二は追い詰められた。