密約が秀吉にすっかりお見通しであったとわかってから、家康や北条氏がどう動くかは、後世に暮らすわれわれにはすでにわかってしまっているわけであるが、では、矛盾なく説明できるかといえば、きちんと説明できる人は少ないだろうと思われる。
ただし、今、そのことは予告にとどめるとして……。
秀吉は異例なスピード感で築城に着手したわけであるが、現場から報告を受けて思わぬ障害に気づいた。具合の悪いことに早川の谷を隔てた真向かいの山にある板橋城が目障りなのである。完成間近まで小田原方に普請を気取られたくない。効果を高めるためにも隠し通す必要がある。奪取するほかないと秀吉は考えた。実は第一回と第二回の総攻撃のときに攻め立てたのだが、早川左岸に急峻な崖を落とす地形に阻まれ、山の麓に達するのが精一杯だった。
過去二回の総攻撃はひょっとすると板橋城奪取のねらいをカムフラージュすることにあったのかもしれない。このままでは手も足も出ないと考えて、秀吉は韮山城攻城戦でただ一人気を吐いたいくさ巧者の細川忠興を呼び寄せた。
「石垣城の築城はあくまでも隠密裏に進め、完成と同時にまわりの立ち木を取り払って籠城方の戦意を喪失させたい。そのための板橋城攻略じゃ。しかし、板橋城はどちらにとっても喉に刺さった棘での。今はこちらが痛い、こちらが奪取すれば向こうが痛がる。それゆえに石垣城が出来上がるまでは奪ったあとも死守せねばならん」
当然の帰結として一夜城着工はその分遅れることになった。
板橋城の攻略をしくじったらわが身もどうなるかわからんぞ。攻略できたとしても死守しなければならないのだから、これはとんだ貧乏くじだ。
忠興は捨て身の戦法でいくしかないと観念した。
早雲寺の本陣から早川口の自陣に戻ると、忠興は直ちに手勢を率いて板橋城の真下に当たる風祭で陣地の構築に取り掛かった。
板橋城が交代制の番城であったため決まった将を置いていなかったのが、忠興にさいわいした。板橋城の守備兵たちは過去二度にわたる戦果に奢り、死地に陣取ろうとする忠興の兵のすることを笑いながら眺めていた。
「細川忠興はいくさ巧者と評判らしいが、何かの間違いではないのか。あれでは攻めてくださいといわんばかりではないか。折角、築いた陣地が一晩で灰になるのも知らないで、ご苦労、ご苦労」
少しでも忠興を知る人間がいればこれほど馬鹿にしなかったのだろうが、生憎、当番の将が無能だった。
忠興は明るいうちに手際よく陣地を構築すると、夜を待って外に出て夜襲を待ち受けた。果たして板橋城から兵が攻め下って火を放ち始めた。だが、敵の姿がない。はてなと警戒したときは遅かった。細川の兵が一度に起って追撃戦に出た。そして、逃げ込む夜襲部隊と一緒に城の中に駆け込み蹂躙して板橋城を占拠することに成功した。
翌朝、報告に現われた忠興を秀吉は上機嫌で迎えた。
「小田原攻めの陣中諸手一番の仕寄りなるべし」
板橋城を奪取したといっても後詰を用意できない地形だから、死守するほかないわけである。秀吉は上機嫌でも忠興は口をへの字に結んでにこりともしなかった。
さて。
奪われたら奪い返す。それが戦国時代の常識である。したがって、小田原方としては直ちに板橋城奪回に出るはずなのだが、なぜか放っておいた。これもおかしいといえばおかしい。秀吉の立場からすれば「喉に刺さった棘」で痛いのだろうが、小田原方にしてみれば「後詰のない孤立した寡兵など気にするな」という程度でかゆみも感じない、そういう解釈もあり得ないことでもなさそうだし、なぜ兵を犠牲にしてまでそんなところを奪取しにきたのか、と、それぐらいの疑問は抱いて当然だろうから、確信犯的に放置したとみなす可能性も皆無ではない。むしろ、小田原城にいる茶人山上宗二と忠興の昵懇の仲を考えればこのほうが自然である。
当時、細川忠興は秀吉をどのように思っていたのだろうか。
秀吉の死後は親徳川派の中心になった。石田三成を殺そうとして追いまわした七将のうちの一人である。宗二との関係から類推して、このときすでに反豊臣・親徳川派だったと考えられる。だとすると、家康と誼を結ぶ北条方としては宗二を使って敵方の情報を得るためにも板橋城は奪回しないほうがよかったわけで、忠興が板橋城を死守することになったことで、秀吉の板橋城奪取は「頭隠して尻隠さず」的に一夜城築城計画が筒抜けになった可能性がある。その結果が、終盤への引き金ともいうべき「宗二惨殺」であった。
だが、「宗二惨殺」の真相を解読する前に、秀吉が一夜城を築きにかかったことを知った家康の驚きの大きさを読み解くのが先である。秀吉が一夜城を築いた本当の目的を解き明かさねばならない。