先鋒をまんまと秀吉に押しつける


 刀に手をかけた秀吉を見て、

「関白殿下がいくさ始めに御太刀に手をかけられるとはめでたいことだ。みなの者、お祝い申しあげよ」

 家康がそのように応じて、第一の罠から免れた、というところまでは前回に述べた。

 こうして家康は秀吉の疑いを逸らし、二十八日、二人で箱根山中城を偵察してから長久保城に戻って軍議を開いた。伊豆韮山城は信雄が攻撃することに決し、次に山中城攻略の配置を議する段になると、大将になるはずの家康が異議を唱えた。

「山中、韮山の両城を攻めれば北条の主力が応援に駆けつけましょう。山中城の攻略はあくまで副次的なもの、敵の主力に当たることこそ先鋒の役目。山中城にかかっている間に関白殿下に敵の主力を相手取られては面目が立ち申さず。ましてや、殿下はすでに御太刀に手をかけておられるのじゃから」

 秀吉は心の中で「狸め」と罵って応じた。

「応援なきときは面目を失うが、それでもよいか」

「そのときは間道をたどって小田原城の東に出、酒匂口を扼して関東一円の城との連携を遮断し、しかるのち、戦いを挑むのみ」

「ほ」

 秀吉の顔に喜色が蘇った。

 乱破や細作を放って敵情を事前に探索してから戦法を組み立てていくさに臨むのが秀吉のこれまでのパターンである。箱根側から圧迫を加え西側一帯を大軍で固めれば寡兵の北条は東の酒匂口を主戦場にするほかあるまい、と秀吉は踏んできたのだが、どうやって家康を酒匂口に陣取らせるか思案に暮れていたところである。家康が酒匂口に本陣を置くと自分からいい出したことで労せずして難題が片づいた。

 よし、この取引に乗ろう。

 秀吉はほくそ笑んで断を下した。

「その策やよし。なれば、山中城は秀次を大将にしてかからせよう。家康は左翼、堀秀政は右翼に布陣し、中軍が攻撃するのを見届けたうえで行動を決すべし。敵の援軍来るときはこれに当たり、援軍なきときは左翼の徳川勢は酒匂方面へ、右翼の堀勢は南面の間道づたいに下って早川口を固めよ」

 事実上の先鋒交代劇である。そういう不名誉を伴った異例の事態でありながら、家康も、秀吉も、どちらも満足して山中城攻撃に備えた。

 以上は帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史・小田原役』の記すところである。山中城から一里のところに家康、韮山から三〇町の位置に信雄が陣取ったとする毛利文庫『小田原陣之時黄瀬川陣取図』と照らし合わせれば直前に大幅な配置の変更が行われたことが確かめられる。

 山中城はまだ普請中、守備兵もわずか四千。二万の大軍をもってすれば容易に落ちるとみて秀次に当たらせた秀吉であったが、援軍として入っていた北条氏勝が脱出した以外、城兵は玉砕的に抵抗し、半日で落ちはしたものの秀吉の側近一柳直末を失う結果になった。

 韮山城からも苦戦の報告が届く。

 蒲生氏郷は片目とともに四百三十の兵を失い、福島正則は六百八十人を失い、いくさ巧者の細川忠興だけが外郭の一部を占拠したに留まった。寄せ手は信雄以下三万、城方は北条氏規以下わずか三千……。

 下田城を攻めている水軍も城主清水康英の反撃に手を焼いているという。

 家康めにまんまと難敵を押しつけられたわ。

 秀吉は今になって気づいて悔しがったが、後の祭りであった。

 家康は手勢を足柄方面別働隊、箱根方面本隊の二つに分け、それぞれほとんど戦わず無傷で酒匂口に達して本陣を敷いた。

 さて、ところで。

 小田原合戦が戦記好きの間で人気が今一つなのは、腹芸というか、知恵の闘いというか、激しい合戦は山中城の攻防と韮山城の攻防のうち緒戦ぐらいなもので、細川忠興の板橋城攻略は小規模だし、いわゆる「玉ねぎの皮むき」といわれる小田原本城の支城攻めは降伏勧告が主体でおもしろくないためではないかと思われる。小田原合戦には桶狭間合戦や関ヶ原合戦のような華々しさがほとんどない。

 それが理解を欠く根本的な理由ではないかと思うし、事実、合戦らしい合戦の描写は「その9」と「その10」で終わりである。だから、このかなりいかがわしい家康と秀吉のやり取りが「実は大いにわけあり」であることに気づいていただけめよう回を重ねたわけである。

 ここからはいよいよ一夜城築城がらみで家康と秀吉の内面戦争は局面を一変させていく。それがおもしろいか否かはメスのふるいよう一つであろう

(つづく)




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