同じことの繰り返しで恐縮ながら「理不尽というほかない要求をする秀吉も秀吉なら、応じてしまう家康も家康である」とは前回にも述べたことであるが、家康と北条氏の密約が関係するというだけだったら、「なんと理不尽な。さては北条氏との密約がバレたか」と家康は気づくはずである。それなのに思慮もあり用心深いはずの家康がうっかり秀吉の要求を呑んだという事実が物語っているのは、秀吉の隠された意図を紛らわしくする動機がほかに幾つかあったことを意味する。それが多ければ多いほど家康のアンテナにはかかりにくくなるわけであるが、当座は秀吉の隠し持つ意図を紛らわしくする動機の一つとして、家康が松平氏から徳川氏へ改姓した理由について言及する。
すなわち、平安時代のこと。
源氏の祖・経基王は京の都の西八条に屋敷を構え、鎮守府将軍や太宰大弐(だざいのだいに=大宰府の貿易の責任者)などを務めて富を蓄積した。経基王の朝廷での位は貴族に与えられる正四位上であった。
経基王のあとの清和源氏は多田姓を名乗った満仲、源姓に戻した頼光とつづいて、桓武平氏が関東に地盤を築いてから百年を経たころ、頼光の弟・頼信の代になった。源頼光が兄で、源頼信は弟である。清和源氏は頼光までが多田源氏で、頼信は河内源氏だから、嫡流が交代したことを意味する。新たに清和源氏の嫡流に直った源頼信は常陸守に任官、桓武平氏
村岡良文の子・平忠常を介(すけ=次官)として領地を治めさせた。
清和源氏と傍系桓武平氏の間で、ここに初めて主従関係が生じた。しかし、嫡流桓武平氏直方のみは相模守を任官して鎌倉にいたから、源氏とは主従関係になかった。
上野、常陸、上総の三ヵ国はかねてより親王任国に定められ、在京の親王が国守として地方豪族を介に任命して現地の管理を委ねてきた。当時の主従関係の強固さを強烈に印象づけたのが、長元元(一〇二八)年に起きた平忠常の乱であった。
武勇の誉れの高い源頼信が常陸守から転任して去ると、平忠常は納税と労役の義務を公然と怠り始めた。領地からの実入りが途絶えた朝廷の貴族たちは怒って、検非違使平直方と中原成道(しげみち)を追討使に任命し、忠常討伐に向かわせた。
嫡流桓武平氏直方に対し、忠常は傍系に当たるわけだが、官職に就いて朝廷とつながる前者に比べ、現実に領地を支配する傍系桓武平氏の後者のほうが、武力では圧倒的に勝っていた。
兵を向けられた忠常は武力で抵抗した。
平忠常は嫡流桓武平氏貞盛によって討伐された将門の子孫であるから、彼には「総領家何するものぞ」の思いがある。直方は総領家の面目にかけて戦ったが、傍系の桓武平氏がことごとく忠常の側についてしまったため、次第に窮地に追い込まれていった。
平将門の乱以来、朝廷の権威といえども、関東にまでは十分に及ばず、中央集権はまだ確立されていなかったわけで、そのことが桓武平氏の将来を決定づけた。すなわち、桓武平氏の場合、支配組織が未成熟な関東を基盤としたために、朝廷を舞台に活動してきた清和源氏ほど嫡流と傍系の区別が厳格ではなかったわけで、求心力を欠いたこのありようが嫡流と傍系が対立する桓武平氏の基本的な図式を生み出し、統治者を他に求める精神的下地になった。
さて。
官製の討伐軍では歯が立たず、平忠常の乱は三年にも及び、戦場となった耕地は復興も容易でないほど荒廃、桓武平氏の中で孤立した直方は、源氏の武力に頼るしかほかないと判断し、朝廷もその必要を痛感して源頼信を甲斐守に任命し、追討使として向かわせた。
一方、三年にわたる戦闘で疲弊の極に達していた平忠常は、かつての主人頼信が追討使に任命されたと聞くと、戦わずして降参した。支配組織の未熟な関東では武門の服従関係が血縁関係よりも優先されたわけである。
そうした傾向を知ってか知らずか、ようやくにして検非違使として、あるいは総領家の面目が立った直方は、忠常の乱の平定を喜び感謝し、頼信の嫡男・頼義に娘を嫁がせた。そして、源頼義が父親の跡を継いで相模守に任命されると、直方は鎌倉の屋敷を娘婿に譲って上総国へ去っていったのである。
関東へ進出するのが百年以上も遅れた源氏が、先に来ていた桓武平氏に主人として受け入れられた経緯は以上の通りであるが、鎌倉の主という観点からすれば、源氏は染谷、平氏に次ぐ三代目ということになる。さらに踏み込んでいえば、清和源氏は桓武平氏の嫡流とは姻戚関係、傍系とは主従関係で強固に結ばれ、「清和源氏でなければ関東は従わない」という関東独特の精神的土壌が醸成されるに至った。しかし、清和源氏嫡流と血縁関係を結んでも、桓武平氏嫡流直方の子孫の支配力は回復せず、逆に「軒先を貸して母屋を取られる」かたちになって孤立、ついに関東からさえも出て、伊豆の韮山に移って北条氏を名乗ることになってしまった。
かくして傍系の桓武平氏と絶縁した嫡流の一流は、遠く伊勢国へ移って伊豆の北条氏とは別行動を取った。これが後に白河法皇のご落胤清盛を得、なおかつ後白河法皇の画策によって清和源氏に取って替わる伊勢平氏の興りであり、のちの小田原北条氏の氏祖北条早雲がその末裔となって関東へと下り、かくして戦国時代の幕開けとなった次第……。
以上が踏まえるべき事実のごくごくさわりの部分であるが、「清和源氏でなければ関東は従わない」という運命的な不文律は、戦国時代に入っても堅固な精神的規範であった。全国的規模でいうと、忠義の規範が浸透するのは論語を朱子学というかたちで復活させた江戸時代なのであるが、関東では清和源氏に限定したかたちで忠義の観念が生じ、「いざ鎌倉」すなわち「鎌倉武士道」として結実が先行していたわけである。しかも、伊勢平氏の末裔小田原北条氏が五代目を迎えても、いざ鎌倉の精神的風土は変わらない。河越夜戦の敵味方分布の圧倒的勢力差を持ち出すまでもなく、源氏の系統の佐竹氏をはじめ桓武平氏の末裔が容易に服従しなかった現実がよい証拠である。
ところで。
時代は下って、松平姓を名乗った頃の家康は織田信長と同盟したことで西漸の道を放棄せざるを得なくなり、東漸するほかなくなった。しかし、松平氏は源氏の系統ではなく藤原氏の末流である。西漸していくであろう織田信長は平氏のままのほうが都合がよかったのだろうが、源頼朝を尊敬し手本としただけに家康は関東独特の精神的風土に通じていて、「清和源氏に改姓しないで東漸すれば北条氏の二の舞になる」と判断した。それが永禄九(一五六六)年の松平姓から徳川(得川)姓への改姓の隠された理由であった。
ところが、天正十年の織田・徳川・北条の三国同盟で家康は二進も三進もいかなくなってしまった。北条氏五代目氏直には信長の娘が嫁ぐことになっていたのだが、本能寺事変のために白紙に戻り、代わって家康の次女督姫が嫁した。なぜ家康の娘督姫が信長の娘に代わったのかというと、三国同盟のこともあり、勢力的にも拮抗した徳川と北条が戦えば痛み分けは必至であり、漁夫の利を得るのが秀吉であることは明明白白である。当面、対処すべきは対秀吉と考えて家康は督姫を氏直に嫁がせたわけだが、北条氏の家康に対する警戒心は「松平から徳川への改姓」以来なかなか根深いものがある。だから、むしろ、人質に近い意味の婚姻であったと思う。したがって、北条氏との密約が成立するには家康が東漸を撤回して西漸することを確約する必要があり、おそらく「秀吉を箱根山に誘い出して討ち西漸に道を拓く」というようなかたちで約束されたものと思われる。
踏まえるべき仮説事実として考えるならば、なぜ、そのような密約が必要になったのかというと、松平氏から徳川氏の改姓は明明白白な東漸の意思表示であって、織徳同盟時代は不可避で必要な措置であった。ところが、平氏末裔の信長は松平氏から徳川氏へ改姓した意味を知らないから清和源氏末裔の甲斐武田氏を滅ぼしたとき三国同盟を構想して、家康を窮地に追いやってしまった。したがって、当時、家康に本能寺事変を期待する気持ちがなかったかといえば、ないとはいいきれないものがあったのは確かである。いまさら何をいうかとお叱りを受けるかもしれないが、窮地に陥ったわが身を救うのが精いっぱいで、とでもではないが「家康黒幕説」の根拠にはなり得ないのだから、遅きに失したことにはならない。結局、畿内一円の制圧では秀吉に先を越されてしまうのであるが、家康が直ちに上洛の兵を挙げたのは「西漸」に道を拓くことで北条氏との間でのちのち必ず火種になるであろう「改姓の意図」をチャラにする意向が強かったためであろう。だが、時勢は秀吉に味方して、西漸はますます困難になった。こうなると背中の刺青と同じで「改姓の意図」は消すに消せない。
こうした経緯から、北条氏内部には家康に対してもともと懐疑的なグループが存在したわけで、このグループがのち「マイナスの意味」で大きな役割を果たすのであるが、今は予告にとどめておく。
そんなこんなで、家康は北条氏との交渉なり打ち合わせにあわただしく、北条幻庵の死の影響などもあって、秀吉に対する用心深さが減殺された結果、注意力散漫になり、事前の情報収集が不十分になったとしても、少しもおかしくはないであろう。