いつの頃からか、
「味方は一兵も殺さずに北条方を皆殺しにしてみせる」
大坂城にいるときから秀吉はこのように豪語してはばからなくなった。
と、いうからには、秀吉には北条討伐を宣言する前から作戦がすでにあったわけで、事実、宣言する前の段階で石垣山一夜城の名で知られる笠懸山城の設計図を用意しており、構造材・部材、石垣用の石をどのようにして調達するか、現地に細作を送り込んできちんと調べ上げていた。天守閣があり、石垣を持つ城となると、関東には一つもない。北条時代の小田原城は土塁と空堀を組み合わせた土城で、建物の屋根は瓦ではなく板葺であった。現状の石垣と天守閣を備えた復興小田原城は江戸時代のものを参考にしている。したがって、一夜城が完成すれば関東では初の石垣城であり、天守閣があったかどうかに関しては不明とされるが、天守台があること、秀吉の作戦のねらいから考えると「あった」とするほうが自然である。石垣山一夜城築城の第一の目的は秀吉の身の安全だが、北条氏に与える精神的ダメージも計算にあっただろうから、視覚的にいって総石垣より天守閣のほうが効果的であり、築かなかったとする解釈は成り立ちがたい。
以上の事実が問わずして物語るのは、秀吉は最初から北条氏を滅ぼす魂胆だったということである。さらに重大なことは、家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間に何らかの密約があったことを秀吉が察知していた可能性が大であることだ。それゆえに秀吉は北条氏を滅ぼして家康を東海から関東に移封することを真剣に考えるようになった。ただし、考えてすぐに実行に移せるようなことではない。そうした思いがまず生じ、何らかの推移を経てから、ようやく実行の段階を迎える秀吉の行動パターンに照らすとき、時期として思い当たるのが九州征伐を終えた直後である。天正十三年十月に九州の諸大名に総無事令を発し、翌十四年、島津氏が総無事令に違反したことを理由に島津討伐軍を起こした。秀吉自身が大坂城から九州に向かったのは天正十五年三月一日で、島津義久の降伏が四月二十一日だから、それまでは黒田官兵衛孝高が中国の毛利や四国の長宗我部を使って島津討伐に働いて、秀吉・秀長がぎりぎりまで大坂にいられるよう配慮した恰好である。理由は東海の織田信雄と徳川家康を警戒したという以外に考えられない。このときから秀吉は家康を東海に封じ込めておくだけでは安心できなくなって、箱根山の向こうへ追いやってしまおうと考え始めた。第一案主義のシングルイシューだから、あとは実行に移すのみである。第二案がないのだから、作戦立案は困難を極め、「よし、これでいこう」となったときには、結果として持ち前の悪魔的才智がいかんなく発揮されていたというような流れだろうか。
「才智においてわれに異ならないのは三成のみ」
三成は才智では秀吉に遠く及ばないのだから、秀吉は三成をほめたというより、彼をダシにして自画自賛したのだろう。
しからば秀吉の作戦とは……。
家康関東封じ込め作戦の伏線として秀吉は関東総無事令を布告した。九州征伐のときのパターンの焼き直しである。こういう創造性のなさと悪魔的才智という両極端のキャラクターが同時代の大名のみならず、後世の史家の思考を混乱させるのだ。九州の島津氏と大友氏の揉め事を北条氏と真田氏の領地争いに重ね合わせると、表面上の発端はパターンがぴったり重なる。しかし、北条氏討伐は秀吉の一方的な都合だから、北条氏が秀吉の裁定した国分案を無視したのは原因というより「口実を与えた」という性質の出来事にすぎない。
パターンに映していえば、北条討伐は小牧山合戦におけるパターンの再現である。しかしながら、だからといってうっかり総構えの小田原城を包囲しようものなら、家康・信雄連合軍と籠城方の北条氏によって挟撃されかねない。家康と信雄を東海に置くことはますます気がかりになった。そのためには家康を先鋒、信雄を第二軍として先発させ、留守城を合法的に乗っ取ってから出陣するほかなかったわけだ。
ここで初回に提示した天正八年一月の駿府城大広間における御前評定の場の発言を思い出すことにしよう。
「関東などの辺境に追いやられたら二度と天下など望むべくもありませんぞ。和睦など反故にして関白相手に一戦参らすべし」
「折角、関東をくれるというのに、それを断って得るもののないいくさをせよというのか。駿府城には作左を残すゆえ、関白を迎えたときには接待に手抜かりのないようにせよ」
井伊直政の意見と家康の論駁である。
と、なると、秀吉が家康に「関東をやる」と告げたのはいつのことだろうか。信雄を家康の所領に、家康を北条氏の所領に転封させ、結果として織田氏の所領を我が物にするのが目的、すなわち、織田の根切り。これを簡略に縮めて「関東をやる」といわせたのだろうが、果たしてそれでよいのだろうか。『関東古尋録』など興味本位に書かれた資料は竣工なった石垣山一夜城において「関東連れションベン」の場面を設定しているが、それでは家康と直政の会話が成り立たない。事実認識としても「関東をやる」という話ではなくて、「徳川発祥の地」「父祖の地」を取り上げる話だから、とてもではないが二人で連れションをしながらするような旨い話ではない。秀吉が家康に「信雄を家康の所領に、家康を北条氏の所領に転封させ、結果として織田氏の所領を我が物にする」という内容を告げたのは、やはり、天正十七年十一月某日、大谷吉継の口を介してのこととみなすのが最も合理的である。
井伊直政にいわせるまでもなく、いのちを取られても仕方がない話なのに、すべてオッケーの返事を貰えたのだから、吉継が家康の人物スケールに感嘆し深く傾倒したとしてもおかしくはない。そのために敦賀城主に任ぜられたとあれば、大きな借りさえできたというべきではなかろうか。
秀吉が吉継を介して伝えてきたこれほどに人をバカにした話に、家康が従容として従ったのはなぜだろうか。
おそらくこういうことではなかったか。
「関東をやるから北条討伐の先鋒を引き受けて欲しい。ついては、合戦の決着がつくまで留守城に大和大納言を留守居として入れることを承諾して欲しい」
ものはいいようである。関東をやるというだけで、東海の諸城を寄越せとはいっていない。ここで関東総無事令が伏線として効き目を現してくる。
第一案さえ保証してやれば、あとは人畜無害……。
しかし、家康が同意した(させられた)理由としては何の説明にもなっていない。これまでは他人事だからそれで済ますことができた。さすがにわがこととなると、そういうわけにはいかない。
そこで前回、前々回に仮説として述べた「家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間に何らかの密約」が理解の助けとして必要になってくる。家康ならではの秀吉像の認識も、同意を促す大きな要因であったのは間違いないが、もっと強制力の強い動機がなければならないだろう。すなわち、秀吉と家康の戦いという構図、これが小田原合戦の本質なのである。だから、石垣山一夜城の構想は秀吉の胸に秘められてだれにも告げられなかったはずなのだ。家康もまさか秀吉がそこまで手の込んだことをやってくるとは夢にも思わなかった。
つづきは、また次回……。