密約に反応せず逆に利用しようとする秀吉の悪魔的才智


秀吉と対決することを決断しておきながら北条幻庵が籠城策を取った作戦的矛盾、幻庵の死を受けて北条氏が籠城派と攻勢派に二分された事実、そこから読み取れるのが「家康と北条氏の間で交わされた密約」のほか、北条氏が「宗二と宗普から情報を得て信頼を寄せてきたグループ」と「二人の存在を疑問視して懐疑的な立場のグループ」に二分されたシチュエーションである。前者が籠城派、後者が攻勢派に該当するのはいうまでもない。

以上の事柄を最大限に生かしたのが天正十七年十一月の留守城明け渡し交渉であり、家康が受諾する前提となる条件が、「家康と北条氏の間で交わされた密約」が存在し、「秀吉が密約の存在を嗅ぎつけたことを家康は知らない」の二点である。小田原合戦の何たるかを読み解くうえで、ここがすべてといってよいくらい重要なポイントである。

さらには「パターンに映す」ということでいえば、小田原合戦は豊臣家、織田家、北条家が崩壊ないし衰退に向かう「因子」を抱えて進行したのだから、これをもって「秀吉の天下統一」と評価するのは目利き違いもはなはだしいということである。ただし、ここで詳しく言及することはせず、今はいいっぱなしにしておく。

さて。

前哨戦の段階で秀吉が満足したのが、北条氏内部に「宗二と宗普の存在と彼らがもたらした情報を疑問視して懐疑的な立場を取るグループ」が出現したことであった。

 すなわち、秀吉は幻庵の死で密約の効力が半減したのを感じ取る。

「討伐宣言を発する条件の一半が揃った」

 満足しながら、秀吉は思う。

感情的になっても一文の得にもならない。やつらの陰謀を逆利用して罠にかけてやろう。

現代に生きるわれらとしては感嘆の思いを禁じ得ない。

おお、秀吉の悪魔的才智の凄みよ。

 こんなふうに芝居がかっていいたくなるほど秀吉の悪魔的才智は、これ以後、芸術的な冴えを見せるのだが、秀吉の表の顔は第一案主義のシングルイシューで、やることといえば創造性ゼロで信長の猿真似ばかりだったから、顔の内側に魔性の知恵が潜んでいようとはだれにも想像できない。

事実に即していえば、秀吉は表の顔ともいうべき第一案主義のシングルイシューで何度も危ない橋を渡りながら、およそ十年もの長きにわたって裏に潜む魔性の知恵には気づかれず、とうとう本能寺事変を誘発させて目的の一半を成し遂げた。小牧・長久手の合戦ののち和睦を応諾して家康が秀長邸に到着した晩、秀吉が関白になりたい腹づもりで無邪気に土下座し、「明日、諸侯の前でおれに頭を下げてくれ」と頼んだことも、「関白になりたい」第一案に徹したがゆえの知恵の発露である。まさか秀吉が関白になりたいなどということを考えているとはだれも気づかない。

 総無事令は信長が天正十年に武田を滅ぼしたとき東国をいくさなしに統治するために案出したものだし、刀狩も「天正の治」の目玉政策として信長が早くから構想していたものだ。悪魔的である裏面では途方もなく創造性を発揮しておりながら公的な表面では模倣の域を出ない、このアンバランスさ……。

 このような人物像をだれが発明したのだろうか。

 それが事実ではなくまったくのフィクションだとすれば講座のコメンテイターたる私が発明したことになり、それこそ小説家冥利につきるのだが、残念ながら事実の裏づけなくしては思いつかないことばかりである。したがって、気づいてしまえば、「なるほど、なるほど、なるほどなあ」と呆気なく納得がいくのだが、秀吉の知恵の悪魔性を解き明かすのは一つひとつ事実の積み重ねに頼るほかないから、まだまだ端緒についたばかりである。

 幻庵の死を待って北条氏討伐を宣言したタイミングの取り方も、秀吉の悪魔的才智の片鱗である。秀吉が最も気にする大徳寺派の宗二と宗普に対して最大の支持者が幻庵であったとすると、アンチ秀吉の二人は幻庵が死ねば「二階に上がったところで梯子をはずされた」恰好になってしまう。もし、幻庵が存命であったら二人の存在はそれだけ重みを保つ。その逆を秀吉は事前に読み切ったわけである。

 抽象的な表現になるが、秀吉個人の意思決定は第一案主義ともいうべきシングルイシューでありながら周囲の動きを把握する観察眼なり洞察力は複眼的であるために、秀吉のまわりに起きる種々相は複雑怪奇な様相を呈していく。こうした矛盾が秀吉という人間を見えづらくしているわけである。亡くなった信長にしてからが、「こやつはどうも胡散臭い」と思うのだが、つい、表面的なシングルイシューぶりに目を晦まされてしまう。

 かつて、第三回講座で述べたと思うが、まだ信長が存命で甲斐武田氏を滅ぼして勝頼を自刃に追いやったと聞いたとき、中国陣にいる秀吉が「自分だったら勝頼を生かしておいて小田原北条氏が君臨する関東を攻略させる」と述べたことを紹介したが、自分の頭にないことは信長のすること為すこと模倣しながら、ひとたび自分はこうだと思うと、絶対に考えを翻すことはせず、とことんやりぬくのがいってみれば秀吉の行動パターンであった。すなわち天正十八年に起きた小田原合戦の遠い発端は天正十年のあの日あのときなのである。だから、秀吉の悪魔的才智を嗅ぎ取るには「資料を虫の眼で漁る」やり方からして改めてかかる必要があるわけである。

 いずれにせよ、北条氏は宗二と宗普という二人のキーパースンを迎えたことで秀吉を丸裸にしながら、秀吉は佐竹氏と結んで北条氏を丸裸にして対策を講じたため、有利不利の立場を逆転させられてしまう。かてて加えて、秀吉が「ある作戦」の準備を極秘裏に遂行したため、家康さえもが秀吉を欺いたつもりでいながら罠にかかり、小田原合戦の前哨戦は彼の独壇場になっていく。そうした家康の失態を合理的に説明するためにも、たとえ仮説であろうとも密約は存在しなければならないのである

(つづく)




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