みなさん、今年一年間、日本史エンタメ講座にお付き合いいただき、ありがとうございました。(平成24年12月31日)
あけましておめでとうございます。本年も日本史エンタメ講座をよろしくお願い申し上げます。(平成25年1月1日)
大晦日の更新ということで、一日早い新年のごあいさつになりました。先々には「小説日本史エンタメ講座」への衣替えなども考えておりますが、その前に日本史エンタメ講座がいつになったらゴールに到達いたしますことやら。おそらく25年中には終わらないと思いますので、引き続きお付き合いくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。家康・信雄と北条氏の間には密約が存在した?
小田原合戦は北条氏が中央の情報に疎かったことが秀吉の実力を読み誤る原因だったとか、結論が出ないでいたずらに長引くのが「小田原評定」の常だったと誤って認識された挙句、今日においてさえ小田原評定の語が「会議は踊る」的な意味で広く用いられるなど、噴飯もののウソや誤用がまことしやかに罷り通っているわけであるが、「西の幽斎、東の幻庵」といわれた北条幻庵が秀吉の小田原討伐宣言直前まで存命であったこと、アンチ秀吉の大徳寺派人脈の山上宗二、明叟宗普が小田原にきていたことなどを考えると、情報に疎いどころか秀吉の暗部まで知りすぎていたくらいである。小田原評定を誤って伝えた元凶の書『松屋筆記』は国学者山田与清が文化十二(一八一五)年から弘化三(一八四六)年にかけて諸書を読み漁ってまとめたものだから、時間的隔たりを質的に判断すると現代書も同然であり、筆者の洞察力・認識力の欠如を自ら露呈しているようなものである。今日においても踏まえるべき事実を踏まえないでうっかりしたことを書くと、同じような自爆的行為に陥る危険があると警告している。
もちろん、一方の当事者たる秀吉には、そのような認識はなかった。むしろ、秀吉のほうが幻庵の死を待って討伐を宣言し、北条氏の分断を促して評定を紛糾させたと見なすほかない経過をたどった。
「第一案を保証してやりさえすれば、あとは人畜無害」
と、こんな感じで、家康と秀長の秀吉に対する認識が一致していたことは第4回講座で述べた。もちろん、仮説である。北条氏なかんずく幻庵、宗二、宗普の三人にそうした認識があったかどうかというと、三人は秀吉を挑発する姿勢を最後まで貫いて意図的に「関東総無事令」に違反した節があるから、その事実の背後に隠れてしまって見えないからわからない。ただし、三人の旺盛な戦意が秀吉という悪魔的人間に対する認識と警戒心の欠如につながったのは間違いない。
さて。
北条氏による真田領名胡桃城奪取は確信犯的で、わざと秀吉の小田原征伐に口実を与えるものであった。
この点も従来の見方と異なるところである。
ここで「家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間に何らかの密約があった」という仮説を持ち出してきて解説しやすくすることにご理解を得ておきたい。秀吉の悪魔的才智によって実現を妨げられたため結果として表向きにならなかったのだが、この仮説を用いないかぎり小田原合戦が内包する疑問や当事者の不可解な行動に説明がつかなくなってしまう。
すなわち、北条氏によって討伐の口実を与えられたはずなのに、秀吉がすぐに反応しなかった事実は、以上の仮説を抜きにしては語れないものがある。こうした仮説上の事実を事前に嗅ぎ取ってしまうあたりが秀吉が悪魔の化身たる所以なのである。本能寺事変を誘発させた秀吉にとっては、その真相を知る宗二と宗普の存在が気になるところだ。問題は宗二と宗普の二人が北条氏のだれと深く結びついているか、であった。と、なると、秀吉がどこまで小田原の事情に通じていたかという観点こそ、「北条氏が上方の事情に通じていたかどうか云々」といったことなどよりはるかに重要になってくる。
しからば、秀吉は小田原の事情をどの程度把握していたのかというと、北条氏と対立する常陸国佐竹氏の取り込みに熱心だったことから考えて、かなり正確かつ詳細に把握していたと思われる。関ヶ原合戦の前段階で加藤清正、細川忠興ら七将にいのちをねらわれた石田三成を救出したのが佐竹氏であることを考えると、このことも関ヶ原合戦への明瞭なメッセージ、シグナルの一つとして記憶しておく必要がありそうだ。すなわち、前田利家が亡くなったとき、三成は加賀前田家の大坂屋敷に詰めていて、そこを七将に襲われかけるのであるが、佐竹義宣が事前に動きを察知して七将が押しかける前に前田家伏見邸に脱出させた。そのとき三成が殺害されていたら関ヶ原合戦はなかったのだから、これほど重要なメッセージはない。
すなわち、秀吉は常陸国の佐竹氏から情報を得て小田原の事情を熟知し、宗二と宗普を受け入れたのが幻庵であることを知った。さらには小田原評定において「籠城」と決し、外郭大土塁を築いて総構えにした事実をも正確に把握するに至った。
では、挑発しておきながら、なぜ籠城なのか。
この矛盾が発する問いかけに秀吉は気づいて、なおかつ疑問が内包する答えを見つけた。さらに帰納的に推論を重ねるならば、のちに述べるように秀吉の本隊と合流したとき家康は北条氏との直接対決を極めて巧みに回避するのであるが、徳川勢が先鋒であることを勘案すると極めて面妖なことであり、それをすんなり許した秀吉も挙動不審とみなさざるを得ない。ここでは以上のような事実を見出し的に提示するだけだが、秀吉や家康の行動なり姿勢を「終わってみれば常に一プラス一は二」の基本ルールに整合させるには、家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間に何らかの密約があったという仮説を立ててかからなければならなくなってくる。
家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間で結ばれた密約が存在したとすると、秀吉の小田原征伐は「飛んで火に入る夏の虫」と化してしまう。それを事前に察知できたことは秀吉にとっては実に大きかった。
しかし、秀吉はそれに対してもまた、まったく反応しなかった。
なぜかというと、秀吉は幻庵の死を待ったから。
ここでもまた帰納的に推論すると、秀吉の北条討伐宣言を受けて、小田原方は「籠城すべし」「箱根を越えて富士川に迎え討つべし」と意見が対立し紛糾したのであるが、この事実が物語るのが、幻庵が北条氏の意思決定のキーマンであったということであり、すでに籠城と決し居城を総構えに直しておりながら攻勢に出ようとする意見が出たこと自体が「小田原はリーダー不在の状態になった」ということ。秀吉はこのときを待っていたのである。そして、同時に密約の存在を確信した。リーダー不在となった北条氏であったとすると、台頭する攻勢派の主張を籠城派が頓挫させるのは不自然であり、積極的な攻勢派を上まわる積極策、すなわち家康との密約があったためであり、そうだとすると箱根を越えて関白軍を迎え討つのは好んで同士討ちをしに行くようなものだから絶対に認められない。攻勢派は自分たち以上の積極策を籠城派の主張に見出したからこそ引き下がったのである。
結局、かくして小田原評定は籠城に落ち着いて、秀吉が期待する「家康対北条の直接対決」はお流れになってしまうのだが、それによって密約の存在が確かになったことを勘案すると、差し引きおつりがくるほど大きな意味があった。
普通ならここで烈火のごとく怒って家康なり信雄を呼びつけて問いただすところなのだが、秀吉は激することなく至って冷静、知らん顔の半兵衛を決め込んで家康・信雄連合軍と籠城方北条氏の間にあったであろう密約を最大限に活用していくのである。