小田原合戦から関ヶ原合戦へのメッセージを読み解くとすると、真っ先に強く印象づけられるのが、東海の留守城を豊臣方に明け渡させるための家康へ使いすることの危険性である。結果として実現したから簡単な役目だったと考えがちだが、とんでもない錯覚である。大谷吉継だから、あるいは相手が家康だから、さらには吉継と家康の組み合わせだったから無難に役目を果たすことができたと考えるべきだろう。
今回にかぎって、なぜ、奥歯に物の挟まったようないい方をするのかというと、史料が多いといわれる関ヶ原合戦、小田原合戦であるが、踏まえるべき事実に関するかぎり、記述が曖昧で、利用価値が低く、当然の帰結として手探りの解析に終始することは避けられない。そういう意味では史料が多いことが必ずしもよいとはいえないようだ。
果たして私が知るかぎりの文献は吉継が駿府城に赴いて家康と小田原征伐について会談したという程度の杜撰な記述しかしていない。たとえば天正十四年から堺奉行となった石田三成の補佐として吉継は下僚に甘んじてきて、いつの間にか、「蜂屋頼隆の死去により絶家、城主不在となっていた敦賀城」を吉継は秀吉から拝領して天正十七年十二月中に入国しているのだが、残念なことに城主に任じられた日付が省略されてしまっているために、
「家康との交渉を見事にまとめたから褒美として敦賀城を拝領したのか」(疑問・その1)
「それとも敦賀城主として使いに立ったのか」(疑問・その2)
何がどうなっているのかさっぱりわからない。
なぜ、こんなことで迷うのかというと、「犯罪には動機があり、行動があり、かくして犯罪事実が生じる」という考え方が身についてしまっていて、材料がすべて満たされないと「犯罪事実(歴史事実)」と認めないからである。資料から得られるのは「天正十七年十一月、大谷吉継が秀吉の使いとして駿府城へ赴き家康と小田原征伐について会談、具体的な内容について話を煮詰めた」という行動が独立して語られ、それと関連性不明のままもう一つの「敦賀城主に任命された大谷吉継が初の国入りを果たしたのは、天正十七年十二月のことであった」がぽんと投げ出される。
もちろん、私は自分の不勉強を棚に上げるつもりはないが、ここが肝腎要の踏まえるべきシチュエーションなのだから、著者が時系列的推移を知っているなら読者が混乱しないように次に問題にする因果関係をきちんと書いてもらわないと困るわけである。すなわち、「疑問・その2」の答えが「ノー」だとすると吉継は三成の下僚として家康のもとに交渉に赴いたことになり、敦賀城主への栄転は、俄然、成功報酬的な性格を強く帯びてくる。褒美の大きさから考えて「容易な使いではなかった」ことがわかる。
以上の出来事の日付や詳細な経過を知っているという人から見たら、「なんでそんな推測をしているの?」という疑問を抱くことと思うが、恥をかくことを恥じるよりも、「踏まえるべき事実」の重要性と所在ポイントを広く告知することを優先した結果とご理解願い、なおそのうえに何らかの手立てにより事実関係を訂正していただけるとありがたい。こうして日本史の解釈はより深まっていく。
さて。
前回述べた天正十八年正月に開かれた御膳評定の席で、
「関東などの辺境に追いやられたら二度と天下など望むべくもありませんぞ。和睦など反故にして関白相手に一戦参らすべし」
と、井伊直政が怒号し、
「徳川の本城たる駿府城に秀吉を泊めるなど奥方を貸すようなものでござる。お考え直し願えませぬか」
本多作左衛門重次が驚いて異議を唱えたことはご記憶と思う。
いずれも天正十八年正月だから「後の祭り」なので、天正十七年十一月の交渉の席に二人が同席していたら、到底、成立する内容ではなかった。これは断言してもよい。したがって、「疑問2」はあり得ない。吉継がどれほどの自信家であろうと「敦賀城主にしてやるぞ」という餌なしには引き受けられない役目だからである。それゆえに成立したのが不思議であり、先述のごとく、「大谷吉継だから、あるいは相手が家康だから、さらには吉継と家康の組み合わせだったから無難に役目を果たすことができた」のであり、もって吉継が家康に大きな借りをつくったという新しい事実が浮き彫りになってくる。
ところで……。
時代小説の大家松本清張は『私説・日本合戦譚』中「関ヶ原の戦」の章で次のようにいっている。
《大谷吉継は、らい病のためにほとんど視力を失い、身体も自由ではなかった。三成は、がんらい、吉継とは親友であったが、吉継のほうは、また家康とも親しかったのである》
大家松本清張ほどの人が「三成は、がんらい、吉継とは親友であった」としてしまっているのは残念である。他方の「吉継のほうは、また家康とも親しかった」という結論についても裏づけとなる事実を説明していない。
私はかつて警視総監であり法務大臣でもあった秦野章さんの自宅に毎土曜・日曜日、朝から夕刻まで二年近く通い、「あんたのために話してやるんだ」という前置きを受けて、
「法律には文学もある」
「刑事訴訟法は検察のバイブル」
「予断が冤罪を生む」
「初動捜査が犯罪捜査の命運を分ける」
などなど、犯罪捜査の何たるかを徹底的に叩き込まれた。
私はどちらかというと世論調査の草分けたる社団法人輿論科学協会で定性分析を手掛けた調査畑の出身だから、一見、畑違いのように思われるかもしれないが、そのとき、犯罪捜査の基本とマーケティングリサーチの基本の共通項・類似性に驚いたものであった。その頃はまだ日本史の「にの字」にも興味を持たなかったわけであるが、実体験による定性分析ノウハウの蓄積、耳学問による犯罪捜査法の知見を得て、そうした眼で日本史の記述に接したとき、そのノウハウなき杜撰なお手盛り解釈のオンパレードぶりに失神しかねないほど驚いたのであった。
「清張さんよ、あなたもか」
である。
あまりネガティブなことばかり述べると、その傾向を持つ人間かと誤解を受けかねないので、「さすが周五郎」という実例を挙げて湿った気分を訂正しておこう。
山本周五郎は文句なしに時代小説界の最高峰であるが、
「戦前に書いた私の作品はすべて燃やしてほしい」
編集者にそう語ったという。
さらには、
「徳川家康を書いたら時代小説を書くのはやめて、現代小説を書く」
こうもいったという。
モンタージュするときこの二つの発言が物語るのは「皇国史観との決別」である。わが敬愛する「秦野のオヤジ」ですら水戸学に心酔していた。戦前世代の中でも明治生まれの人は皇国史観による強烈な国家的マインドコントロール下にあったから、それは致し方のないことなのである。果たして山本周五郎作品の中には「夜明けの辻」などのほか尊王主義を唯一絶対神のように信じて疑わずに書いた作品が数多く紛れ込んでいる。戦後に育った私ではあるが水戸学的心情を解し、どちらかというと生理的には近いほうであるはずなのに独特の「臭さ」が感じられて違和感を覚えた。それだけに周五郎御大が「戦前に書いた私の作品はすべて燃やしてほしい」といったことを読み知ったとき、「さすが周五郎」と救われた思いがしたものである。おまけに「徳川家康を書いたら時代小説を書くのはやめて、今度は現代小説を書きたい」といったというのだから、文句なしに御大の前にひれ伏すに至ったのであった。
明治初年のころ、年貢の率が寛大であった天領民の徳川人気は絶大で、御開港場横浜の劇場で維新を美化するために徳川を悪く解釈した台詞を役者がいったとたん、観客が怒って大騒ぎになり公演が中止になったというくらい。すなわち維新政府の人気はどん底で、反面、徳川人気は絶大だった、というのが現実であり、事実でもある。だから、明治政府は維新を美化するプロパガンダとして徳川家康をずるがしこい悪者に仕立て、その宣伝文句を後世にまで垂れ流した。周五郎御大はそれに気づいたからこそ「戦前に書いた私の作品はすべて燃やしてほしい」と編集者にいい、「徳川家康を書いたら時代小説を書くのはやめて、今度は現代小説を書きたい」と宣言せずにはいられなかったのだと思う。以上の事実は犯罪捜査的考証を徹底して行う人であったことの裏返しで、だからこそ、戦後に入ってから『樅ノ木は残った』『栄花物語』『長い坂』などの名作長編を数多く残せたのだと私は理解している。
清張さんも政治・経済・歴史をよく理解する方だったが、それでも周五郎御大には及ばないと感じたのが、関ヶ原合戦について記述した「関ヶ原の戦」の章だった。
大事な部分なので前置きに重きを置いたが、私の調査の及ぶ範囲で「三成は、がんらい、吉継とは親友であった」ことを裏づける事実はとうとうというべきか、現在に至るまで遂に出なかった。三成が奉行、吉継が部下という関係はつづいたが、それをもって親友とするなら、現在の上司部下は軒並み親友としてひとくくりしなければならなくなってしまう。上司というのは部下にとってはなるべくなら距離を置きたい存在である。人生を共にしたり、生死を共にしたい上司もいないわけではないが、上下関係という枠組みから親友とはなりがたい。大局的見地からいって「三成と吉継は親友はおろか友人の関係ですらなかった」と結論してよさそうである。逆に、それに対して、「吉継のほうは、また家康とも親しかった」という結論の裏づけとなる踏まえるべき事実として知見を得たのが、天正十七年十一月の対家康交渉であった。
「吉継は三成とは親友はおろか友人の関係ですらなかったが、家康には大きな借りをつくった」
天正十七年十一月の使いをもってこのように解釈し、「家康は三成を単独では殺さず、三成もまた家康のみ殺しても自分は助からないことをしっかり認識していた」という共通の動機に照らして考えるならば、垂井と佐和山を往復する間に去就を反転させた吉継の不審な振る舞いは、俄然、合理性を帯びてくるではないか。ただし、ずっと先のことを詳細に言及するのは『関ヶ原前譜』『関ヶ原戦譜』の解析のときまで待たねばならない。