家康と秀長の精神的紐帯はいかにして生まれたか


秀吉の遠大にして壮大なる陰謀に秀長が気づいた時期を明かすといっておきながら本講座はまだ解き明かさないわけであるが、別に勿体をつけているわけではなくて、それが『もう一つの太閤記』の結末を意味し、小田原合戦の重要な切り口になるから安直に結論を述べる気になれないだけである。

「日本という国にはまだ国史が編まれていない」

 このことに気づいた人でないと本講座が解析した事実を信じようとしないであろうことは容易に推測できる。あちこちで、ありとあらゆる機会をとらえ、事実を踏まえながらいろいろと説いてきたが、最も前向きの反応ですら「信じたいと思う」というものでしかなかった。いずれも「信じる、信じない」というレベルの域を出ず、自分なりに事実に即して検証して判断を下そうとはしないし、踏まえるべき事実を見つけることができないからやれないのかもしれない。こうした宗教的スタンスにとどまってばかりいてはすでに過去のものとなった明治維新政府の思う壺である。

「明治維新は三流のクーデターにすぎない」

 かつての私は明治維新バンザイの立場だったから、ある書物でこのような文章に接したとき、「まさか、冗談だろ」と本気にしなかった。しかし、念には念を入れて検証に努めた結果、天地がひっくり返るような幕末史パラダイムシフトを体験することになった。国史たり得ない日本史を国史と信じているかぎり、それは新興宗教のレベルにとどまり、他を排斥することによってのみ成り立つほかなく、他に通じる道をみずから閉ざすことになってしまうだろう。私がやったように、「ひょっとして」と自分で考え自己変革に努めるように訴えるにはどのように整理して順序だてて述べればよいのだろうか、と考えあぐねているのが目下の状況である。

 さて。

 分家撲滅に言及したついでに関白秀次家断絶について触れてしまうと、秀次の行状も秀保と似たりよったりとされるが、一説によると石田三成が秀保の行状を参考にしてでっち上げたとされる。秀吉が分家撲滅に走った原因は秀頼を後継に据え直すためといわれてきたが、そうと決めつけるのは早計だろう。秀頼が秀吉の血を引いていないことはこれまで有力な傍証によって証明されてきており、秀頼継嗣を分家撲滅の動機とするには筋が違うようである。

 しからば、分家撲滅の動機は何か。

これまでの秀吉の行動パターンを振り返ってみるとき、目的に対する執着は異常なほどであっても、手段となると行き当たりばったりで、ともすれば一貫性を欠く。たとえば、天正元年の時点で秀吉がすでに信長を殺す算段をめぐらせていたことは安国寺恵瓊の手紙から明らかであるが、その殺意の発露は松永久秀の謀反に便乗しようとしたり、光秀に四国国分案の変更という罠を仕掛けたり、とにかく使える材料は手当たり次第に使っていくというものであった。すなわち、常に第一案しかなく、「第一案が不発だったときは第二案でいこう、それでも駄目なら第三案」という用意周到さがなかった。この未熟ともいえる行動パターンが信長にしても、秀長にしても、家康にしても、秀吉の叛意を見抜けなかった原因なのである。秀吉のこうした杜撰な手口を補ったのが「ひとたび思ったことは絶対に実現させる」という異常なまでの執念であった。その執念が次なる標的秀長に向いているのはすでに述べた。だから、分家撲滅の動機は「秀長殺害がまだ実現していないため」という一点に尽きる。そのためには丹羽長秀を利用し、それがまずかったとなると大和大納言家に問題児秀保を養嗣子として送り込み、秀長が死ぬと次は千利休、次は秀次と目標を変えていった。自分を掣肘したり、座を襲いそうな者は取り除く、それが秀吉の唯一一貫した行動パターンであった。秀頼が後継として無事でいられたのは幼くて排除の対象とならなかったからである。だから、死ぬ間際になって後悔した。

「秀次を殺すのではなかった」

 秀次は秀保と同じく実姉日秀(俗名智子)の子である。秀頼は淀殿の子だが、父親はわからない。秀吉の子ではないことは懐胎可能な期間中秀吉が淀殿とまったく別の場所(肥前名護屋)にいたから明らかである。淀殿懐妊直後には淀殿の周囲から大勢の処刑者が出た。

 このあたりで秀吉・秀長兄弟の父親について本講座の見解を述べておこう。諸説がある中で、智子、秀吉の父親が木下弥右衛門、秀長、朝日姫が継父竹阿弥であるとするのが本講座の見解である。文献によらず現実に把握できる範囲の人格・性格・行動などをセグメントして判定した。母親が同じであることを土台に考えると、姉の日秀の子秀保の非道ぶり、秀吉本人の悪魔的性格などを勘案するとき、二人とも父親の弥右衛門の血をより強く受けていたと考えられる。人格者秀長、嫁ぎ先で夫婦仲良く幸せに暮らしていた朝日姫は継父竹阿弥の血が出たのだろう。だから、弥右衛門と竹阿弥は同一人物とする説には乗りにくい。秀吉と秀長には父親を異にするという溝があったのだが、秀長の努力で問題にならなかった。だが、仙丸を廃嫡して日秀の子秀保を養嗣子にせよと迫られたとき、さすがに秀長は怒りを露にした。文献はこうした結末しか述べておらず、目下のところ、秀長側は家老の藤堂高虎が仙丸を養子に迎え秀保を大和大納言家に養嗣子として受け容れることで幕引きを図ったという以上のことはわからないのであるが、秀吉側はだれが関与したのだろうか。秀次のとき石田三成が中心になったことから秀長のときも三成が関与した可能性が高そうである。

 すると、

「才智においてわれに異ならないのは三成のみ」

 秀吉がいい残したこの言葉の「才智」の性格はおのずと明らかである。のちの小田原攻めで武蔵国忍城を包囲したとき、もともと水害に耐えられるように設計され「忍の浮き城」とまで呼ばれた城を水攻めした愚かしさから考えて武将としての才智でないことは確かだし、三成の才智は出世の糸口となった茶の出し方などのように秀吉のご機嫌取りだけのための才智すなわち「小姓の才智」であった公算が高い。関ヶ原合戦では事前に掘った塹壕や大砲五門の存在からあらかじめ関ヶ原を戦場とする意図を家康方に見抜かれており、「桶狭間合戦」同様に雨(霧)と闇夜を煙幕代わりに肉薄を許すなど、計略を行うたびに「お粗末の一席」に終わっている。幽霊の正体見たり枯れ尾花である。しかし、明治維新史観から三成は「正義の人」とされており、なぜかイケメン俳優が演じるから、今日、三成ファンがごろごろしている。当然、本講座の見解に反感を覚える向きは多いと思われるが、その前に石田三成が「正義の人」である現実の証拠事実〈解釈論ではなく〉を把握してほしい。もし、あるならば……。

 三成などのことは捨ておくとして、いよいよ本題に入ろう。

秀吉のシングルイシューぶりが第一案主義という極端なやり方で現れ始めるのが小牧山合戦あたりからであるが、本能寺事変の真相がわかりかけてくると秀長は秀吉の掣肘に関して「到底、おれ一人の手に負えるレベルではなくなった」と危惧するようになった。家康が和睦に応じてくれたなら、「掣肘スタッフ」は一段と強化される。そうすれば秀吉の腹の中のおかしな虫もおとなしくなるだろう。これまで秀吉という腹の虫にどれほどはらはらどきどきさせられてきたことか。腹に据えかねる思いをさせられてきたことか。姉の朝日姫を無理やり離縁させて家康のもとに再嫁させたり、母親の大政所を人質に差し出したり、なり振り構わず実にひどいものだ。ただし、本講座としては朝日姫の輿入れと大政所の人質との間に、次の大事件が挟まることに注目したい。

《天正十四年七月二十四日、誠仁親王、死去。秀吉が毒殺したという噂が広まり、秀吉による織田の根切りと解釈される》

 自分に相談もなしに秀吉と和睦してしまった信雄が当てにならないとすると、家康が次に相手に選ぶのは誠仁親王である。秀吉はあくまでも家康を東海に封じ込めたい。だから、秀吉は先手を打ったのかもしれない。

「おのれ、秀吉、なんと腹黒いやつ」

家康は激怒し、誠仁親王を死に至らしめたことをもって、秀吉もまた謀反人たるべし。その罪万死に値する。討たずにおくべきか」と固く誓った。講談ならこんな感じになるのだろうが、家康はそれほど単純バカではなかった。

誠仁親王毒殺は秀長が去る天正十一年に和睦した上杉景勝と直江兼続が上洛してきたため饗応に手間隙を取られていた間に起きたことだ。家康と早く和睦しないと秀吉がまた何をしてかすかわからないと秀長は焦った。家康との和睦成立に秀吉よりも秀長が必死になったのはそのためである。秀長は秀吉に恐らくこういったのではなかったか。

「和睦は必ずまとめるから兄者は何もせずにいて欲しい」

 誠仁親王の死がターニングポイントになった。すなわち、前述したことを訂正していうと、大政所の人質は秀吉がしたことではなく、大政所本人が希望したか、秀長が大政所に頼んだか、二つのうちどちらかであろう。と、いうのは、秀吉から出たことだったら秀長が真っ向から反対したはずだからである。ただし、当座は大政所がみずから望んだことにしよう。人質というより家康の説得役を果たさんとして……。

 十月十八日、大政所が家康の人質となって岡崎城に入ったのが十月十八日、家康が和睦に応じて大坂城に出仕して秀吉に拝謁するのが十月二十七日、わずか九日間の電撃的決着であった。秀吉が一枚でも噛んでる節があったら、家康はまず応じなかっただろうから、こうはいかなかったと思われる。応じる条件の一つとして秀長の屋敷を宿所に指定したのは、そうしないと大政所が人質として機能しないからであり、何よりも家康が秀長を信用したからであろう。

二十六日夜、秀吉が予告もなしに秀長邸にやってきて、「明日は諸侯の前でわしに頭を下げて欲しい」と土下座して頼み込んだのは有名な話だ。秀吉が太政大臣となって豊臣姓を名乗ったのは、それから二ヵ月足らずのちの十二月十九日であったから、信長としか同盟しなかった家康に頭を下げさせるのは事前の大事な儀式であった。

 以後、家康が上洛するときは必ず秀長の屋敷を宿所にするようになっていく。秀長が亡くなってからは藤堂高虎の屋敷を宿所とした。藤堂高虎は大和大納言家の家老だったからで、ほかは信用できないというより、信用しなかった。家康と秀長との間にいかに強固な心の紐帯が生まれていたかの証左である。

こうしてみると、晩年の秀吉の目的は秀頼云々などの理由ではなく、おのれが死ぬまで関白・太閤の座にしがみつきたかっただけなのだとわかる。そして、他愛ないくらいにそれがすべてだった。自分の地位さえ保証されるならあえて家康と争う必要はなかったのである。家康も秀吉のそうした腹の中を読み切っていた。

「関白・太閤の座を保証してやりさえすればこの男は人畜無害なんだな」

 こうした無邪気ともいえるシングルイシューぶりに気づいた家康のほうが、これまでの悪魔的というほかない才智との落差のあまりの大きさに驚いたことだろうと思う。

 家康でなくとも驚くべきことは、秀吉の遠大にして壮大な陰謀は何かといえば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で、自分が望む第一案すなわ地位が保証されるなら余のことはどうでもよいというシングルイシューの帰結にすぎないのだった。家康が気づいたことに、当然、秀長も気づいていた。だから、もみ消しに奔命これ努めたのである。すなわち、気づいていたとしても容認していたから気づいた時期が特定できないのである。結婚して幸せに暮らす朝日姫を無理やり離婚させて家康に嫁がせるような無謀をも秀長は容認した。なぜなら、自分が気づいていることに家康も気づいていることを知ったからである。むしろ、秀長の説得で朝日姫は秀吉の非道を受け容れたと考えられなくもない。

「どうしようもない兄貴だが、望みを叶えてやればあとは人畜無害だから」

 と、それで済ませてきた。

 しからば、本能寺事変はどうなのかというと、「済んだことは済んだこと、いまさら騒いでも取り返しがつかない」ということなのだろう、すなわち身内の論理である。秀長は木下家に始まり羽柴家、豊臣家となっていく一族の事実上の家父長の立場にあったから、秀吉のためというより一家のために秀吉に対して寛容であった。しかし、その見返りに常にストレスを抱え込み、健康を害して、そこを秀吉につけ込まれることになったわけである。

 こらえてきた秀長の怒気が一度に火を噴いた。しかし、病身とあってどうすることもできない。

 もしもおれがいなくなったら……。

 頼みにするとすれば家康しかいない。家康なら自分の代わりが務まるだろうし、やってくれると秀長は信じていた。これが家康に対して抱いた秀長の心の紐帯である。事実、家康は秀長の付託に応えたが、秀吉を掣肘するまでのことは避けて、豊臣家が空中分解していくさまを心静かに見守った。秀長と家康で食い違う点があるとすればそこぐらいだろうか。

(第回日本史エンタメ講座・完)




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