遠大にして壮大なる秀吉の陰謀、その動機は?


 羽柴家の内紛が顕在化し始めたのが、小牧山合戦と対家康和睦交渉の頃からであったが、そうした観点からもう一度小牧山合戦について考えてみよう。

 家康が破却されていた小牧山城を再構築して立て籠もったこと、秀吉が楽田原に十万の大軍を展開して小牧山城と対峙したこと、秀長が圏外に去って犬山城を包囲して家康との非戦を貫いたこと、以上は動かしようのない事実なのだが、実は戦術的にいっても、常識で考えても、まったくナンセンスな事実なのである。そこに気づかないとこれまでの解析は思いつくこともなく、したがって始まることもなかった。

 私は疑問感受性と呼んでいるのだが(世間でいうところの好奇心に毛が生えたぐらいに理解していただけるとありがたいのだが)、「疑問感受性」プラス「見識物差し」のモンタージュがあって初めて三者三様の行動のナンセンスさが見えてくる。いわゆる「ナンセンスの三すくみ」ともいうべき小牧山合戦のキーポイントは三人がそれぞれ相手の気持ちを読み切り、相手の気持ちを問いかけと理解し、それに対して自分なりの答えを行動で示した、そういう無言劇であったということである。どこから気づいてもよいのだが、小牧山城と楽田原の本陣という図式の家康と秀吉乃の対峙はいくさであることを考えると明らかにおかしい。十万の大軍ならばいかに総構えの小牧山城といえども内陸の平野部であり、二十万近い大軍で包囲した小田原合戦とは困難の度合いからして比較にならない。包囲してもなおかつおつりがくるくらいの大軍で臨みながら、秀吉はなぜ小牧山城を包囲してしまわなかったのだろうか。

 そう考えると、家康の小牧山城籠城という戦術も何やらまやかしものめいてくる。籠城といえばすでに存在する堅固な城を選んで行うのが普通なのだが、家康は籠城するための城に廃止になっていた小牧山城址を選択し、復興させ、ご丁寧にも総構えに拡張した。時系列からいうと家康の小牧山城の籠城戦法が先だからこれを問い、秀吉の楽田原に本陣を置く対峙戦法がそれに対する答えであると理解すると、ナンセンス性は呆気なく吹っ飛んで極めて高度な心理的パントマイムが浮き彫りになる。秀長は犬山城を包囲して「われ関せず」だ。

「これでは何のためにいくさをしにきたのかわからない」

池田勝入が連日のように本営に押しかけて秀吉に「進歩的具体的作戦行動」に出るようにとせっついたのは当然といえば当然といえるし、時系列的推移の認識から生じる大局観を持たない愚かしさともいえるのである。これが世にいうところの小牧山合戦の図式であり、その枝葉として鬼子同然に長久手合戦が派生した。

「今なら岡崎城は手薄でがら空きも同然だ。迂回して攻め込めば簡単に落とすことができよう」

 池田勝入の意見は至極ごもっともに聞こえるが、実は「乞食が神様に難癖をつける」類いのものでしかない。しかし、池田勝入の意見を無視したら、次のことに気づくことはできないだろう。

「岡崎城は手薄でがら空きも同然」

 これを背景として受けとめると、すなわち家康は無防備ともいえるほど本城を手薄にしてまで小牧山城にすべてを賭けて籠城しているのであり、そうした事実が語るメッセージ性は何かということである。

 少なくとも秀吉にはそれがわかる。ところが、「岡崎城は手薄で、がら空きも同然」という先入観に飛びついて思考停止状態の池田勝入にはわからない。芋蔓式にいえることは「乞食が神様に難癖をつける」類いの意見を述べる池田勝入を押さえ込む能力が秀吉にはない、なんとなれば秀長が側にいないから。

 出てくる、出てくる……。

 一見、ナンセンス、不可解、ナゾとされる事実も、解析してしまえば「すべて一プラス一は二」で、わかりきったことばかりなのである。ナンセンスに見えるのは見方が皮相的だからであり、不可解なのは考え方が間違っているためであり、ナゾは「踏まえるべき事実」をきちんと踏まえて理解しないからである。悪いのは常にわれわれである。

 少し脱線するが、新しいビジネスを起こす経営者は、もちろん優秀なわけであるが、能力だけでは新しいビジネスモデルにたどりつけない。逆に成功した経営者に共通するスタンスの一つが、「問題はすべて経営者にある」という考えである。

「おれが原因なら、おれがその気になりさえすれば、すべて解決がつく」

 だから、成功するのだともいえる。

 試行錯誤の繰り返しの中で直面する数々の不都合を「けしからん」「不可解だ」「不条理だ」「ナンセンスだ」「まるでナゾだ」と評論家的に斬って捨ててしまわずに、おれには「何か」が足りないと考えて自分に食い下がる、問題が解決するまであきらめない、そういう違いが成功しない経営者と成功する経営者の間には厳然として存在するという。

 すなわち、自分との闘いに勝ち、おのれを超えるということ。

 ついでだからいってしまうと、成功する学者というか、本当にすぐれた学者は特定の史料からあっと驚くような法則性を発見する。たとえば、『日本書紀』和銅元年の項目に「初めて銅銭を鋳造する」という記述がある。これが愚かにも和同開珎銭の和銅元年初鋳説になって、教科書までそう教えているのだが、間の悪いことにそれ以前にも銅銭、銀船が「初めて鋳造」され、贋金づくりの刑罰さえ定められている。

ナンセンス、不可解、ナゾ、ここに窮まれり……。

こうなってしまうのは、「和同開珎銭の和銅元年初鋳説」に原因がある。そこに原因があると喝破した学者が発見したのが、次の二つの法則性である。

「なぜか『日本書紀』は和同開珎という固有名詞を使わないで、すべて銅銭、銀銭という普通名詞を使っている」

「年号が変わると過去に数次にわたって行われたことでも、現在の年号では初めてという意味で《初めて》の語が用いられる」

 以上のごときクセがよいとか悪いとかは別の次元の問題で、それらを『日本書紀』の記述の癖だと喝破した先人に惜しみなく拍手喝采を送りたい。

 それはさておき。

 仮に小牧山合戦の構図みたいなものがあったとして、問題は「では、どうしたら、こういう図式が成り立つのか」という次なる疑問である。

 結論を先にいってしまうと、これまで営々として秀吉の「悪魔的才智」を可能なかぎり具体的に本講座は述べてきたわけであるが、現代を生きる私が気づく前に秀長と家康が気づいていないといけないことがある。

遠大にして壮大なる秀吉の陰謀……。

 これに気づかないと小牧山合戦の構図は成り立たない。

 秀吉は天下が欲しくて天下を取ったのではないといったら、大方は「何をばかな」といってお怒りになるだろうが、秀吉の陰謀の動機は実は「公儀のことは秀長に諮り、内所のことはお寧に委ねよ」という掣肘にある。無邪気といえば無邪気なのだが、前に少し触れたように成功を積み重ねて織田家における地位が上がるにつれて、秀吉は自由が欲しくなった。すなわち信長と秀長が疎ましくなってきた。この二人さえいなければ秀吉は自由になれる。そのために風が吹けば桶屋がもうかる式に秀吉はありとあらゆることを試みて、結果として天下人に上りつめたのである。すなわち、光秀を唆して本能寺事変で信長を葬り、備中大返しでは秀長が毛利に討たれるはずであったのに、前者は成功して、後者は失敗した。出来事からすると「遠大にして壮大な秀吉の陰謀」が、動機ともなるとかくのごとく矮小化してしまうのが、秀吉を主人公にした場合の『太閤記』の特徴なのである。

 さて。

 家康と秀長が秀吉のその陰謀に気づかないと小牧山合戦の構図が成り立たないとすると、二人が秀吉の陰謀に気づいたのはいつのことだろうか。家康の場合は安土城滞在中で、その恐れを告げたのが本多弥八郎正信であった。そうでないと伊賀越えが成り立たない理由も述べた。逆もまた真なるかで伊賀越えをもって本能寺事変の黒幕を家康とする説が他の事実に整合しないことも明らかにした。問題は秀長である。秀長が秀吉の陰謀に気づいたのはいつのことだったのだろうか。


(つづく)




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