家康を襲ったのはだれ?


秀吉の立場で家康の伊賀越えを考えてみよう。
 それには大局観という物差しを持ち出す必要がある。ここでは全人生における秀吉の周囲に対する思惑である。そして、それは刻々と変化する。月は地球のまわりをまわり、地球は月を従えて太陽のまわりをまわり、太陽は水金地火木土天海(冥王星は惑星の座からはずされた)を従えて別の天体を周回しているのだという。われわれは「太陽は恒星である」と教わったが、地球が太陽のまわりをまわる時速一八〇〇キロの一〇倍以上、すなわち時速八万キロものスピードで動いているといわれる。これまで動かないとされていた円の回転の中心が動くからには、水金地火木土天海冥もまた太陽のまわりを一周しても元の同じ場所に戻ることはあり得ない。だから、この世では「変化しない」現象が稀有なのであり、変化させることよりも「これまでは、こうだった」という停滞的な思考こそがタブーなのである。

したがって、秀吉の「全人生における秀吉の周囲に対する思惑」も常に変化すると理解してかからねばならない。本講座はこれまでそれを探求してきたわけであるが、秀吉には結果として天下を統一しただけで、天下を取ろうとして行動したわけではないという見方が必要である。では、考えもなしにどうして天下が取れたのかというと、結果オーライである。風が吹けば桶屋が儲かる式にいうと、秀吉には「公儀のことは秀長に、内所のことはお寧に諮れ」という掣肘が目の上のタンコブであった。だが、桶狭間の合戦にみずから留守居にまわった失点を補うために受け容れた掣肘策だから仕方がない。ところが、地位が上がって権力を得るにつれ、その思いは強まった。しからば、その掣肘から逃れるにはどうしたらよいか。まず、根源の信長を取り除き、次は秀長を亡き者にしてしまえばよい。内所を切り盛りするお寧はもともと邪魔ではないから放っておけばよい。

かくして、

「秀吉とお寧は諸大名の面前にもかかわらず平気で夫婦喧嘩をした」

 という事実に整合していく。

 それはさておき。

 穴山梅雪が襲われて命を落としたのは六月三日正午前後のことであった。殺されたのは穴山梅雪だが、ねらわれたのは家康である。坂本竜馬が殺されたのはあくまでも結果であって、ねらわれたのは中岡慎太郎であったというのと瓜二つのパターンである。京都見廻組が関与していないのは捜査を担当した兵部省が断定済みであり、今井信郎の自白も虚偽とされた。それと同じように、家康に討手を放ったのはだれかという詮議は、秀吉の対家康方針、秀長に対する処置の変更理由を極めてわかりやすくするという意味で、結論云々よりはるかに意味がある。

 さて。

 穴山梅雪が殺された頃、すなわち毛利方に対する情報遮断網に本能寺事変の第一報を知らせる密使がかかる少し前、秀吉は秀長をいかにしてだれにも気づかれず亡き者にするかを考えていた。それに先んじて秀吉の頭にあるのは信長と光秀、そして、家康をこの世から抹殺することであった。秀長がそれに猛反対するのは自明のことだから「ついでに彼も抹殺してしまおう」というのが、備中大返し断行直前における秀吉の思惑であった。

 上方で何かある。知りたいのは何が起きたかではなく、次に何が起きるか予測するのに必要な情報なのだ。なぜ、何も知らせてこないのだ。

 秀吉のいらいらが頂点に達してから、いたずらに時は流れて、三日の夕刻、本能寺事変の第一報を知らせる密使が秀吉の対毛利方への情報遮断網に引っかかった。

 もう待てない。俺は姫路に戻るぞ……。

 六日午後四時、雨天をついて播州赤穂岬に帰着した秀吉が姫路入りしたとき、家康はすでに船で三河国へ渡ってしまっていた。家康がまだ洛中洛外を逃げまわっていると思っていた秀吉は愕然として、しばし途方に暮れた。なぜなら、本能寺事変を事前に予測していないと不可能なことであり、自分が黒幕だと知るのが家康なり側近だと秀吉にはわかるからである。急遽、秀吉は家康殺害の手筈を「なぜかくも迅速に脱出できたのか」の実態調査に変更、「あらかじめ準備し、手引きする者があったため」という報告に接してあらためて驚くと同時に、本能寺ノ変のあとの対策は家康一本に知恵を絞り、そのためには秀長を徹底的に利用することに意を決したわけである。

 最早、梅雪を殺したのはなぜかといった疑問はどうでもよくなった。光秀であったとするなら、なぜ、木津川を渡って追撃しなかったのかというカベにぶち当たるし、宇治田原に居館を構える山口某の迎えの手勢がカベであったとするなら、部下に対する光秀の指図が杜撰だったことになる。野盗が犯人なら伊賀越えの危険はさらに大きく、それをどうして乗り越えられたのかという疑問が残る。

 このときの秀吉の心境は光秀を過大評価したことに対する反省と後悔であった。光秀が天下取りに動くとは思わなかった秀吉ではあったが、もし天下を取る気があるなら真っ先に家康を殺して、事変後の最大の障害を取り除くべきだったという点で大いに不満だったわけであり、そんなことすらわからない光秀を当てにした俺も馬鹿だったというのが秀吉の思いだったのではないか。それに比べて備中大返しをしてのけた秀長、そして、伊賀越えを成し遂げて圏外に去った家康の手際のよさが、秀吉の気持ちに重くのしかかった。

 秀吉の観点からすると、秀長の備中大返しと家康の伊賀越えは以上のような認識になるのではないだろうか。だから、織田信雄に援軍を請われて家康が出陣して小牧山城に立て籠もったとき、秀長を犬山城の牽制に向かわせて家康と対峙する楽田の本陣から遠ざけたのである。さらに付け加えるならば秀吉本人にも家康と直接対決する気はなかったことは事態の推移が証明している。

 秀長の考えも同様であった。

 備中大返しを切り口にして長々と解説してきたわけであるが、以上の説明で小牧山合戦の背景の一半はご理解ねがえたと思う。と、いうからには、残る一半があるということである。


(つづく)




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