備中大返しの場に秀吉がいなかった、すなわち、秀吉がやってのけたのは船を用いた瀬戸内返しであったとすると、
《最前線の秀吉が、約二〇〇キロもの長距離を、異常な速度で、しかも光秀方勢力を的確に掃討しながら京上し、決戦において快勝するといった『奇跡』を実現しえたのであろうか》
という藤田達生氏の疑問は自然消滅的に疑問でなくなっていく。
ただし、そのこと自体は問題としない。本当の意味での日本史づくりは端緒についたばかりだから、本講座は「ああでもない、こうでもない」の正誤表づくりめいた議論に時間を割くようなことはしない。
一、秀吉はなぜ撤退部隊を海陸二つに分けたのか。
一、瀬戸内返しをしてまで秀吉が姫路入りを急いだのはなぜか。
二つ目の疑問については前にも解析を加えているが、いろんな理由が考えられるから、切り口ごとに解析を行っているわけである。家康が伊賀越えをして三河に無事に帰り着いたことも、光秀との電撃的決着を急いだ理由の一つと理解すべきであろう。
さて。
前者からいうと、年来ねらいつづけた獲物がワナにかかったからには、毛利との和睦、全軍の撤退などは、最早、秀吉にはどうでもよくなった。秀吉が撤退する際に本能寺事変を毛利方に伝えたとする著作物があるくらいだから、毛利が本能寺ノ変の情報を得て、和議を反故にし、追撃に出て、秀長が苦境に陥ったとしても一向に構わない。あとのことは秀長にゆっくりやらせて、自分は一刻も早く「海路を船」で姫路入りして、信長を出迎えるため先発した前将を用いて事後処理を担当させることが、秀吉には何よりも焦眉の急の用事であった。そのために悪天候の中を船で渡ったのである。このことは後者の疑問に対する答えの一半を担っている。
このとき、秀吉は自分の行動を味方に知られないようにした。
《筑前様は入間から御乗船になったが、扈従の者は主人・彦右衛門(蜂須賀正勝)、生駒甚助殿のほかは、御馬廻衆の十六名のみであった。人目に隠れての早立ちにつき、家中には誰一人として知る者もいない》(『武功夜話』)
この事実こそ後世の史家をして備中大返しを秀吉がやったと錯覚させた最大の原因である。味方も知らされなかったくらいだから後世に伝わるはずがないわけであるが、そんなことよりも問題なのは秀長にまで極秘にしたことだ。すなわち、極秘にしたことと軍勢を二つに分けたことには切っても切り離せない相関関係があった。
もう一つ、本当の意味での「備中大返し」を秀長に押しつけたのは、殿軍の秀長と姫路城の前将の間に時間的距離を可能なかぎり大きく取るためであった。しかし、後世にまで伝わる大返しを秀長がしてのけたため、思ったほどの時間的距離が取れなかった。そのために秀長の処置を変更せざるを得なくなった。
ここで時系列的時間距離を小牧山合戦に飛ばしてしまうと、
「殺すつもりだったおまえを生かしておいたのは、このときのためだ。家康との和睦はおまえがやれ」
秀吉としては、こういう理屈になっていく。
実に勝手ないいぐさだが、「こいつがどうしてこんなに好かれ、信頼されるのか」と秀吉がおどろくほど秀長が敵の毛利からも「好かれ、信頼されている」のを如実に示したのが備中大返しだった。
敵も味方も家中の者もひっくるめた世間は秀吉も一緒だったと思い込んでいるが、秀吉本人は秀長だけだったことを知るごく限られた人間の一人だ。信長がいなくなったからには秀長にもこの世から消えてもらわないと自由が利かなくて困るのだが、秀長の類い稀な利点を生かして使わない手はないと秀吉は考え直した。
ところで。
家康から見た秀長はどういう認識であったかというと、その信頼するに足る人となりに加えて、「公儀のことは秀長が図り、内所のことはお寧と利休に諮れ」という秀吉に対する掣肘力が、大きな魅力であった。
ここでまた、時系列を本能寺事変直後の中国陣に戻すと、秀吉にとっては秀長が邪魔になったというより、「公儀のことは秀長が図り、内所のことはお寧に諮れ」という「足枷」「手枷」が邪魔だったのである。このときはまだ秀長とお寧だけだった「秀吉に対する掣肘力」に、小牧山合戦の前後にいつしか「千利休」が加わった事実はあまりにも重大である。
どうして、そうなったのか。
ただし、備中大返しの段階では、秀吉にも、秀長にも、千利休にも、まったく予想もしないなりゆきであった。
