藤田達生氏の「クーデターの二日後の六月四日までに、秀吉方が備中高松から播磨国姫路を経て但馬国へ北上し、山陰道経由で京都そして近江国長浜までの通路を確保していた」という記述は、実に示唆に富む。すなわち、これらは丹波国亀山城の光秀と姻戚細川幽斎・忠興父子(丹後宮津城)を意識して講じた対策であって、「クーデターの二日後の六月四日まで」は秀吉の瀬戸内返しに対応する重大な日限なのである。偶然か、はたまた必然か、一般の年表や『武功夜話』の語る時系列事実にモンタージュすると、「問うに落ちず語るに落ちる」といった体の秀吉の自白が聞こえてくるような気がする。
《一般の年表》
天正十年六月二日、明智光秀が本能寺を襲い、信長を自刃させる。徳川家康、信長に挨拶するため堺から京へ向かう。途中、信長の非業の死を告げられ、伊賀越えのルートをたどる。同日、筒井順慶、信長に命じられて中国へ進発したものの本能寺ノ変を知り、大和郡山に引き返す。
天正十年六月三日午前十時、家康一行、雨天の中を宇治田原着。午の刻、出発。同日、後続の穴山梅雪、木津川草内渡しの手前で殺害される。家康一行、信楽を経て丸柱泊。
同日、柴田勝家、本能寺ノ変について急報に接し、北ノ庄に引き返す。
同日、秀吉、安国寺恵瓊を自陣に招いて黒田孝高と和睦の交渉を開始。
天正十年六月四日、家康一行、柘植通過、白子湊着。家康のみ船で三河国大浜へ渡る。
同日午前十時、備中高松城主清水宗治自刃。
同日夕刻、本能寺ノ変の知らせが毛利に届く。
天正十年六月五日、家康、岡崎城帰着。
《『武功夜話』に記述された時系列事実》
天正十年六月五日午後一時、姫路から早馬がきて高松城包囲陣の秀吉に本能寺ノ変を告げる。姫路に先発していた前野将右衛門が信長の不慮の死をキャッチしたのが、その四時間前というから、早馬は姫路から備中高松城包囲陣までわずか四時間で駆けつけたことになる。秀吉、直ちに全軍撤退に着手。
同日、光秀、安土城、佐和山城、長浜城などを攻略。
天正十年六月六日午後四時、秀吉、雨天をついて播州赤穂岬に着船、その日のうちに姫路城入り、前野将右衛門から主に筒井順慶の行動に関する報告を受ける。
なぜ、「六月四日まで」なのだろうか。
藤田達生氏がどういうつもりで書いたか、それを問題にするのではない。六月四日までという「日限り」が問題なのである。
一般の年表を見ておわかりのように、柴田勝家が本能寺ノ変について急報を受け、北ノ庄に引き返したのが六月三日、それに対して『武功夜話』に記述された時系列事実によると「姫路から早馬がきて高松城包囲陣の秀吉に本能寺ノ変を告げる。姫路に先発していた前野将右衛門が信長の不慮の死をキャッチしたのが、その四時間前。すなわち、六月五日早朝」だという。
上杉と戦闘中に本能寺事変の知らせをキャッチした柴田勝家が素早く居城に引き返してから、光秀討伐軍の編成に手間取った。家康もまたしかり。本能寺事変を勝家より二日も遅く知った秀吉が備中高松城から電撃のごとく反転してきて光秀を追い詰め、死に至らしめるという不条理……。
しかし、秀吉が「本能寺事変級の変事」を予測し、あらかじめ準備していたとすると、少しも不条理ではなくなる。この場合、『武功夜話』に記述された時系列事実は第二報ということになり、辻褄が合わなくなるから、世上いわれるように毛利方の密使捕縛がニュースソースと理解すべきであろう。そんなことよりも、対毛利交渉がそれ以前から始まっていたという事実、それでいて信長に来援を求めた事実のほうが決定的に重要である。すなわち、「本能寺事変級の変事」を時限爆弾のように仕掛けて大体このあたりで爆発するのではないかと予測していた男がここにもう一人いたわけである。したがって、『武功夜話』が暴露した秀吉の瀬戸内返しは「本能寺事変秀吉黒幕説」の状況証拠というより、かぎりなく自白調書に近い。
姫路城に先行していた前将が本能寺事変の報告に接した日付を『武功夜話』は六月五日としているが、本当にそうだろうか。問題は「姫路に先発していた前野将右衛門が信長の不慮の死をキャッチしたのが、その四時間前」という、そのいいまわしにある。「信長の不慮の死をキャッチした」というのは聞き書きの癖で、単に姫路から早馬がきた午後一時から逆算したにすぎない。だから、逆算した四時間前に取った前将の行動は、正確には「本能寺事変後の光秀と細川父子および周囲の動きについて第一報を発した」でなければならない。柴田勝家など及びもつかない情報網を張りめぐらせた姫路城留守部隊が、その最重要関心事について情報の入手に遅れを取るはずがないのである。
そうだとしたら、秀吉は瀬戸内返しという隠密行動を取ってまで、なぜ姫路城帰着を急いだのだろうか。
理由の一つは光秀が姫路城奪取に出ないで安土城へ向かったという誤算である。秀吉の予想では光秀は信長を葬ってのち憎い自分を討つために姫路城を襲うはずであった。ところが、そうではなく安土城へ向かったという。秀吉にとってはありがたい誤算であるが、急遽、シナリオを書き直す必要に迫られた。と、なると、前将が寄越した急使の情報では物足りない。だから、一刻も早く姫路城に帰ろうとしたのである。
姫路城に戻って詳細な情報に接した秀吉はほっと胸をなでおろし、ほくそ笑み、そして、光秀のミスをあざ笑ったものと思う。
「馬鹿だな、あいつ」
本能寺で信長を殺し、二条城で信忠を死に追い遣ったあと直ちに姫路城を襲っていたら秀吉にとっては大変なことになっていた。それを何とかしようとするための瀬戸内返しでもあったのだから。
二つ目の理由は備中大返しがいかに危険かを知っていたからである。文献によっては秀吉が備中高松を立ち退くとき毛利方に「信長の死」を通報した事実を述べているくらいである。黙って立ち退いても危険なのだから、信長の死を知らせたら数倍して危険度が高まることが予想される。
問題は秀吉が信長の死を毛利方に知らせたのが事実かどうかではなく、秀長に殿軍を委ねながら本隊の将たるべき秀吉がさっさと船で帰ってきてしまったことである。
殿軍の役割は敵の追撃に対処するだけでなく本隊を守ることにある。本隊から内緒で大将がいなくなってしまったら、秀長には殿軍を受け持った役割が半減し、危険ばかりが倍加して、何のために殿軍をするのかわからなくなってしまう。
秀吉にしてみれば、どうせ毛利に殺される秀長だから、内緒にしておけば問題はないわけである。生きて帰るようなら大変な悶着が起きるが、万が一にも生きて帰ることはあるまい、というのが秀吉の計算だった。
ところが、秀長は生きて戻った。
「どうして、なぜ?」
秀長がやってのけた備中大返しは後世の人々が驚嘆し称えてやまない壮挙である。秀吉は度肝を抜かれ、血の気が失せたものと思う。
「他意はない、他意はない、途中で気が変わっただけじゃよ。すまん、すまん、この通りじゃ」
当座はこんなことで誤魔化したのかもしれないし、秀長にしてみれば光秀を討ち羽柴家の安泰を勝ち取るのが先決だから解決を後日に先送りして内輪もめを回避したものと思われる。先送りした以上、どこかで蒸し返されるのは必至である。踏まえるべき事実として、「外向きのことは秀長、内向きのことはお寧と諮れ」という羽柴家の内規ともいうべき秀吉掣肘の申し合わせに「内向きのことはお寧と利休に諮れ」という具合に利休が加わった理由と原因、ないしは時期をどこかに求めなければならないのだが、時期は後のこととして理由と原因は秀長の備中大返しに求めるほかなさそうである。ただし、この系統の推移はここで深入りすることではないから、そのときがくるまで保留にしておくことにしよう。
さて、ところで。
なぜ、六月四日までなのかという問いの答えは、以上、一連の推移から次のように帰結できそうである。すなわち、秀吉が姫路城留守部隊にあらかじめ要求した情報は「対毛利、対光秀に関する対処法を決断するのに必要な判断材料」だったわけで、姫路城留守部隊はそのための情報収集に「秀吉に報告の急使を出す前日四日ぎりぎりまで」血眼だったのであろう。そして、報告の内容は秀吉の予想とはかなり違っていたのだが、急使が途中でだれかにつかまったときの用心から詳細な報告はわざと省かれていたはずである。早く詳しい報告を聞きたい、聞かねばならぬという切迫したシチュエーションも秀吉が瀬戸内返しに出た理由の一つであろう。
今回は、ここまで……。(つづく)
