本多正信はなぜ事前に本能寺事変を予測できたのか
本多正信が「本能寺事変級の変事」を予測した方法なり手段は特定できないのであるが、ニュースソースが存在したことが状況証拠ながら確認できたのだから、正信とニュースソースに当たる人物との接点を見出せば、その手段・方法を特定する蓋然性は高くなる。
すなわち、かつて本多弥八郎を名乗った正信は三河一向一揆に加担して逐電、松永久秀のもとに身を寄せたとき、やはり久秀と親交のあった山上宗二と意気投合し、宗二から何らかのサゼッションを得たのではなかったか。
しかし、松永久秀を介するだけのつながりでは、御都合主義といわれても仕方がない。牽強付会と批判を受けるのを承知のうえでいうと、正信が一向宗から浄土宗に改宗した事実があり、その動機を問題にする必要がある。一向宗といえば「一向一揆」につながり、かつて正信は三河一向一揆の主犯格であった。
家康にとって三河一向一揆は「三方原の合戦」「伊賀越え」と並び称される三大危機の一つである。家康は首謀者を不問に付し大方が帰参したというのに、正信は逐電して越前・加賀の一向一揆に加担しつづけた。すなわち、徹底したアンチ信長であった。それがなぜ浄土宗に改宗したのかというと、浄土宗の徳川家に帰参するためでもあろうが、「アンチ信長の一向宗徒のままでは信長シンパの宗二から情報が取れない」ためではなかったか。さらに踏み込んでいうなら、一向宗から浄土宗への改宗を宗二が迫ったとすると、正信との精神的紐帯はなお一層強化される。
ところで。
秀吉黒幕説はすなわち未遂の段階では「濃厚な嫌疑」にすぎない。だから、信長シンパの宗二としては、それを何とかして信長に伝えたいと思うのだが、いっても信じてもらえるかどうかわからない。だが、本講座解析者の立場からいわせてもらうと、宗二が信長に「秀吉の援軍要請の真のねらい」というかたちで暗に変事に備えるように諌言をしたことにしないと、五月十七日あたりから見え始めた信長と家康の光秀に対する警戒心に説明がつかなくなってしまう。諌言自体をあり得ないとするより、諌言がなされた蓋然性が高い。しかし、嫌疑にとどまるかぎり宗二がそれを部外者に洩らすことは考えにくい。それなのに洩らしたとすると、宗二と正信は意気投合した仲でなければならず、もしそうだったのなら、徳川家に帰参したがっている正信に同情して洩らす可能性が考えられる。信じなければそれまで、あとは現実の推移を見守るのみというわけ。
ところが、自分の行動についてだれに対しても責任を負う立場にない浪人の正信は宗二の情報を徳川家に帰参する絶好のチャンスと受けとめてひたすら信じた。宗二の情報をもとに周囲のシチュエーションを加味すると、一概に疑いだけとはいえないようすである。正信にしてみれば駄目で元々だから予測がはずれても痛くも痒くもない。本気で信じてかからないと本能寺事変級の異変が現実となった場合、取り返しのつかないことになってしまう。だから徳川家に帰参したい一心と宗二から情報を得たい一心から「アンチ信長の衣」を脱ぎ捨てた。
かえってニュースソースの宗二のほうが嫌疑の段階では対策を講じるときに腰が引け気味で、情報として得ただけの正信のほうが積極果敢に対策を取ったのは二人の立場の違いを反映するものだ。正信が浪人していなかったら宗二と同じことになり、日本史はまったく異なる展開をしたかもしれない。
さて。
家康の伊賀越えの次に解析する必要があるのは備中大返しであるが、ここでは「あっと驚く真相」が展開されるであろうことを予告するにとどめ、それを契機に秀吉と秀長の間にどのような動機で溝が生じたのか、次回より順次、解析を加えていくことにする。
(つづく)
本多正信が「本能寺事変級の変事」を予測した方法なり手段は特定できないのであるが、ニュースソースが存在したことが状況証拠ながら確認できたのだから、正信とニュースソースに当たる人物との接点を見出せば、その手段・方法を特定する蓋然性は高くなる。
すなわち、かつて本多弥八郎を名乗った正信は三河一向一揆に加担して逐電、松永久秀のもとに身を寄せたとき、やはり久秀と親交のあった山上宗二と意気投合し、宗二から何らかのサゼッションを得たのではなかったか。
しかし、松永久秀を介するだけのつながりでは、御都合主義といわれても仕方がない。牽強付会と批判を受けるのを承知のうえでいうと、正信が一向宗から浄土宗に改宗した事実があり、その動機を問題にする必要がある。一向宗といえば「一向一揆」につながり、かつて正信は三河一向一揆の主犯格であった。
家康にとって三河一向一揆は「三方原の合戦」「伊賀越え」と並び称される三大危機の一つである。家康は首謀者を不問に付し大方が帰参したというのに、正信は逐電して越前・加賀の一向一揆に加担しつづけた。すなわち、徹底したアンチ信長であった。それがなぜ浄土宗に改宗したのかというと、浄土宗の徳川家に帰参するためでもあろうが、「アンチ信長の一向宗徒のままでは信長シンパの宗二から情報が取れない」ためではなかったか。さらに踏み込んでいうなら、一向宗から浄土宗への改宗を宗二が迫ったとすると、正信との精神的紐帯はなお一層強化される。
ところで。
秀吉黒幕説はすなわち未遂の段階では「濃厚な嫌疑」にすぎない。だから、信長シンパの宗二としては、それを何とかして信長に伝えたいと思うのだが、いっても信じてもらえるかどうかわからない。だが、本講座解析者の立場からいわせてもらうと、宗二が信長に「秀吉の援軍要請の真のねらい」というかたちで暗に変事に備えるように諌言をしたことにしないと、五月十七日あたりから見え始めた信長と家康の光秀に対する警戒心に説明がつかなくなってしまう。諌言自体をあり得ないとするより、諌言がなされた蓋然性が高い。しかし、嫌疑にとどまるかぎり宗二がそれを部外者に洩らすことは考えにくい。それなのに洩らしたとすると、宗二と正信は意気投合した仲でなければならず、もしそうだったのなら、徳川家に帰参したがっている正信に同情して洩らす可能性が考えられる。信じなければそれまで、あとは現実の推移を見守るのみというわけ。
ところが、自分の行動についてだれに対しても責任を負う立場にない浪人の正信は宗二の情報を徳川家に帰参する絶好のチャンスと受けとめてひたすら信じた。宗二の情報をもとに周囲のシチュエーションを加味すると、一概に疑いだけとはいえないようすである。正信にしてみれば駄目で元々だから予測がはずれても痛くも痒くもない。本気で信じてかからないと本能寺事変級の異変が現実となった場合、取り返しのつかないことになってしまう。だから徳川家に帰参したい一心と宗二から情報を得たい一心から「アンチ信長の衣」を脱ぎ捨てた。
かえってニュースソースの宗二のほうが嫌疑の段階では対策を講じるときに腰が引け気味で、情報として得ただけの正信のほうが積極果敢に対策を取ったのは二人の立場の違いを反映するものだ。正信が浪人していなかったら宗二と同じことになり、日本史はまったく異なる展開をしたかもしれない。
さて。
家康の伊賀越えの次に解析する必要があるのは備中大返しであるが、ここでは「あっと驚く真相」が展開されるであろうことを予告するにとどめ、それを契機に秀吉と秀長の間にどのような動機で溝が生じたのか、次回より順次、解析を加えていくことにする。
(つづく)
