本能寺事変の黒幕は秀吉であると察知した人物・集団


  本多正信が三河一向一揆に加担し、逐電して以後、くわしいことはわからないわけであるが、加賀・越前の一向一揆に加担して転戦したかと思えば、姉川の合戦当時、大久保忠世の計らいで陣借りし、いくさに加わり、帰参の機会を模索したことが記録されている。あるいは後に信長に謀反する松永久秀のもとに身を寄せたりと、かなり波乱の生き方をしたようである。その過程で本能寺事変級の変事を予測させる情報を得たのは間違いない。



 しからば、どうやって? 



答えをいう前に、「本能寺事変の黒幕が秀吉であることを早くから察知していた人物なり集団が存在しないと家康の伊賀越えは成立しない」という仮説を立て、その仮説を裏づける事実を資料の山から掘り起こさなければならない。もちろん、天正元(一五七三)年十二月二十日の時点で山県越前守宛てに、「信長の代、五年、三年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らるべしと見及び候。左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書き送った安国寺恵瓊を除外したうえで……。



 しからば、その人物なり集団とは?



 帰納法的に結論すると京都大徳寺派の僧侶であり、茶人山上宗二である可能性が極めて高い。大徳寺派の僧侶と茶人山上宗二が一体となって行動したことは以下の事実から明らかである。          

 山上宗二は堺の納屋衆の一人で、千宗易(のちの利休)の一番弟子であった。織田信長には師の宗易より先に仕えたが、二十四歳上の師匠に茶頭を譲った。当時、宗二は三十八歳、「仏法は茶の湯の中にあり」とまでいう宗易に傾倒していたが、本能寺の変の直後、師匠が秀吉の茶頭となって利休を称するようになってから距離を置き始めたらしい。すなわち、宗二は徹頭徹尾アンチ秀吉の立場であった。



 問題はアンチ秀吉という衣ではなく中身である。宗二が二度も秀吉から追放されたことはよく知られているが、惨殺された箱根早雲寺の野点の席を加えると三度である。面相も口癖もよくなかったと資料は伝えるが、面相は関係ない。問題は秀吉を三度激怒させた毒舌にある。毒舌にもいろいろあるが、宗二の場合は利休と袂を分かつたことからうかがい知れるようにちゃんとした理由から歯に衣をきせずにいうパターンであろう。二ヵ月前に利休が切腹させられたばかりというとき、大徳寺の古渓宗陳は宗二の一周忌法要を迎えて子の伊勢屋道七に「瓊林」という諡号を与えた。「瓊林」という諡号の意味は「玉のように美しい人」だというから、秀吉を激怒させた毒舌も的を射たものだったと考えられる。



 第一回目の追放は天正十一年十月九日のこと。秀吉が謀略を用いて織田信孝と柴田勝家を岐阜と北陸に分断、賎ヶ嶽の合戦で二人を自殺に追い遣った直後である。このときの秀吉のやり方を江戸時代初期に記録された前野家文書『武功夜話』は次のように伝える。



《十二月二十一日、雲球(生駒家長)殿が突如こられて、息を切らせて次のように語られた。



「天下の一大事である。隠密の報告によれば、筑前(秀吉)様は岐阜方と和睦なされ、柴田殿は大雪で北国への道が塞がれぬ間に早々と北の庄へ帰られたが、そのあと、筑前様は和睦の誓約をなされたにもかかわらず、数万の軍勢を江州へ攻め入らせたという。いまだ墨跡の乾かぬ間の違背は、大変なことである」



これが事実であれば、北国はすでに雪が深く道が塞がり、江州の急変にも柴田修理は動くことはできないから、筑前公の大軍が濃州に攻め寄せることにでもなれば、これを防ぐ方策もまったくないであろう》



織田信孝と柴田勝家を葬り去った直後、姫路城の茶会に宗二を招いたのは秀吉である。追放するために招くわけがないから、このときまで宗二に対する秀吉の印象は悪くなかったはずである。



だから、追放の原因は茶会の席で確信犯的にいった宗二の発言が原因とみなすのが筋であろう。仮に織田信孝と柴田勝家を葬り去った汚いやり方を非難したことにしておく。



追放された宗二が向かったのは加賀前田家で、前田家に寄食していてなぜか追放を解かれ秀吉に招かれた宗二が、再び追放されたのは天正十三年四月のことであった。その直後の天正十三年に大徳寺塔頭興臨院が失った能登の寺領復活のため宗二は加賀へ足を運んでいるから、追放と大徳寺の使い役は同時だったかもしれない。その半年前には家康と秀吉が小牧山でにらみ合いをし、長久手で敗れた秀吉は大坂に避難、信雄を相手に和睦を勝ち取って家康との全面対決を免れようと画策するさなかだった。



 宗二が秀吉に何をいったか、発言のもとになった背景をこれから解き明かすわけであるが、それほどに宗二は時代の動きと切っても切れない働きをした。しかし、宗二は加賀国に寄食していたのだから個人的には情報を得にくい境遇であった。それにもかかわらず時代の動きをかなり正確にキャッチしていたとなると、独自にすぐれた情報網を持っていたと考えなければならない。



しからば、いかなる情報網か。



答えを見出すためにも時系列物差しの目盛りを先に進めよう。



理由はさておくとして、再度追放された宗二が小田原に現われたのは天正十六年三月初旬であった。それまでどこにいたかというと、恐らく大徳寺だろう。大徳寺百十七世住職古渓宗陳が石田三成と衝突して秀吉の勘気に触れ博多に配流された年である。このことにも宗二がからんでいたかもしれない。



 大徳寺第百十三世住職だった明叟宗普が同寺の二大末寺の一つ堺の南宗寺を経てもう一つの末寺箱根湯本早雲寺に下ったのは、宗二が小田原に現われた翌年のことであった。大徳寺はもちろんのこと阿弥陀寺の清玉上人を含めた仏教界、茶道界の秀吉嫌いは今日の太閤人気と天地ほどの懸隔がある。恐らく大徳寺系人脈が信長暗殺は秀吉が黒幕であったとする説の出所ではないだろうか。



 すなわち、前に述べたように秀吉には明智光秀の謀反が予見できていた。秀吉が信長を中国陣に誘ったのは光秀に主殺しをさせる絶好の機会を提供するためと見られても仕方がない性質の行為である。時代をはるかに隔てた本講座が察知するくらいだから同時代の人には、当然、わかったと思う。



宗二が秀吉を激怒させること三度目、今度は耳と鼻を削がれたうえで惨殺されるのであるが、前の二回と違って宗二のほうから面会を求めたことに着目する必要がある。それだけに毒舌ぶりは前二回をはるかに凌ぐすさまじさであった。仮に宗二が天正元(一五七三)年十二月二十日付山県越前守宛ての恵瓊の書簡の写「信長の代、五年、三年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らるべしと見及び候。左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」を持ち出し、早くから謀反を企てていたと告発したとしたらどうだろうか。列座の諸侯にはよくわからないが秀吉には思い当たることがある。他にそれに類することでもよい。秀吉はその場で宗二の口封じをする必要に迫られた。



宗二の秀吉への接近はいかなる目的があってのことだろうか。



まさか惨殺されることが目的ではあるまいと考えががちになるが、そのまさかこそが目的であった。詳しい解説は小田原合戦の講座で行うとして、当座、わざと酷い殺され方をするのが目的だったという結論のみ述べておく。



 当時、小田原城にいて宗二惨殺の報を受けて断食自決した明叟宗普もまたアンチ秀吉であった。秀吉が織田信雄と信孝を弾劾する口実を得ようとして独断的に大徳寺で信長の葬儀を行ったときの住職が明叟宗普である。当時から宗普は秀吉に反発して浪人者を寄食させたため弾圧を受けている。秀吉に強要されて大徳寺総見院の開山となった宗陳ものちに秀吉のプチ・イミテーションともいうべき石田三成と衝突して博多に配流された。本能寺の変の直後に駆けつけて信長の遺骨(灰)を持ち帰って弔った阿弥陀寺の住職清玉上人に至っては、秀吉が営もうとする信長の葬儀を政治利用が目的と喝破して「すでに弔いは済んでいる」と伝え、法要を営むのを拒絶したほどである。



 以上の一連の現象から考えて宗二の情報網が大徳寺派の僧侶であったことは疑う余地がない。しからば、秀吉はなぜ鼻を削ぎ耳まで切り落として殺すほど宗二に激怒したのだろうか。



 隠密が活躍した時代でもあり、備中大返しも「事前に準備していたため」と種明かしが行われていたものと思う。だとすると、宗二、利休を含めた大徳寺系の茶人、僧侶の間で「本能寺の変・秀吉黒幕説」がかなり浸透していたとしても不思議はない。



 宗二と明叟宗普が向かった小田原には北条幻庵がいた。幻庵は箱根権現の別当から還俗した人で、氏康、氏政、氏直と北条氏後半三代の後見を務めた一族の長老である。治世の才覚はいうに及ばず仏教から茶の湯、連歌、和歌の道に幅広く堪能であったことから「西の細川幽斎」に対し「東の北条幻庵」として並び称された。



 明叟宗普が早雲寺の住職となって小田原にきたのは家康が秀吉と和睦した直後であった。何か目的があって求めて小田原にきたように思われてならない。仮に家康が大徳寺人脈の請い願う「信長の弔い合戦」「打倒秀吉」の頼みの綱であったとすると、家康と秀吉の和睦は彼らにとって大いなる失望の要因だったはずである。宗二としても、宗普としても、最早、頼りがいがあるのは奥州の伊達氏と連携する北条氏なかんずく幻庵しかなかったであろう。



 以上、山上宗二と大徳寺派の僧侶が信長殺害計画の主犯が秀吉あることを知った方法手段は推測に頼るほかないわけであるが、「天正十四(1586)年七月二十四日、誠仁親王、死去。秀吉が毒殺したという噂が流布する」という噂の出所は、最早、判明したようなものである。



 結論すれば、本多正信が「本能寺事変級の変事」を知った方法なり手段は特定できないのであるが、ニュースソースが存在したことは状況証拠ながら確認できた。


(つづく)




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