信長に代わる人物は誰か


 本能寺事変後の政権の帰趨を後世の史家は結果から結論をストレートに導いていかにも秀吉が信長の後継者にふさわしい資格を得たかのように解説してきたわけだが、結果を原因にするがごとき論理を知らずに駆使しているわけで、方法論としてはお粗末の一語に尽きる。われわれがどう判断するかではなくて、当時の人がどう見たかを考えてかからなければならない。
 演繹、帰納いずれの方法で推論しても、信長の後継資格は誠仁親王と信長の猷子となった子であり、以下、信孝、信雄、家康、前田利長の順であった。だから、「天正十四年七月二十四日、誠仁親王、死去。秀吉が毒殺したという噂が広まる。秀吉による織田の根切りと解釈される」という事態に立ち至っていくわけである。誠仁親王死去に関する秀吉毒殺説は秀吉の主殺しの傍証でもあるが、それがいかに計画的で恣意的であったかは、前後の対家康和睦交渉が物語る通りである。
 そのへんはのちに述べるとして……。
 冷静に考えれば明智光秀を討ったくらいで秀吉を信長の後継者として認めてしまうのは結果を原因にすりかえる論法の類で感心しない。秀吉は自分はまだ後継者たり得ないと自覚したからこそ、阿弥陀寺の清玉上人が済ませたはずの弔いを蒸し返して得点稼ぎしようとしたり、清洲会議に三法師君を担ぎ出したり、三法師君推戴に丹羽長秀の同意を取りつけるため仙丸を秀長の養子にしたり、画策に画策を重ね自分に有利な空気づくりに腐心したのである。
 このへんのいきさつは明治維新のときのパターンと瓜二つである。
 公武合体から大政奉還へと政変が進み、そのへんで落ち着くはずだったのが、急遽、徳川の痕跡をなくす、すなわち「根切り」に方針が大転換したのは天領民の間の徳川人気があまりにも絶大だからであった。明治維新史観ともいうべき「徳川絶対悪、敵の敵はすべて味方、すなわち家康の敵の秀吉と三成は英雄」という図式で国家的プロパガンダが行われ、それを踏襲した史論や「国定教科書日本史」が今日まで継承されてきた。
 秀吉も大村由己に『天正記』を執筆させ、小瀬甫庵が内容を踏襲して『太閤記』として書き残した。ただし、大村由己が秀吉の御伽衆であったことを、今、問題にする必要はない。そういう史料が存在することを認識して、あくまでも事実をあるがままに見ていくだけである。大村由己の『天正記』、それらを踏襲した小瀬甫庵の『太閤記』を問題にするのは『二人太閤記』のジグソーパズルが一つの矛盾もなく組み上がった段階でよい。ただし、組み上がったとき、それらを問題にする必要性は雲散霧消しているだろう。
 小牧山合戦に話を戻すと、誠仁親王にはいずれ手を下すつもりながら、信孝なく、当面のライバルが信雄と家康、利長となったとき、小牧山合戦が起きた。仕掛けたのは家康で、秀吉は望まなかった。ここが大事なところである。
 皮相的にみれば、前田利家を取り込んだことで利長は秀吉の手の内にある。家康と信雄を一蓮托生にして葬り、誠仁親王を亡きものにしてしまえば秀吉が信長の後継者として確固不動の地歩を占めるのは明らかである。しかし、信雄は別として、家康はこれまでの敵とは違う。信長の後継者としての正当性は信雄と組むことでますます強化された。
 これが当時の認識であったと思う。だからこそ、秀吉は光秀の謀反を記録させ本能寺事変イコール光秀単独犯人説を流布させる一方、宇喜多秀家を養子にするなどして自分の意のままになる軍勢の確保に努めるのだが、軍事的な主導権はまだ秀長にあった。小牧山で家康とにらみ合うほかなかったのは、このへんの事情も関係していたのかもしれないが、いずれにしても、信長を葬ったからといって家康がいるかぎり秀吉はおのれの掣肘スタッフ秀長らをはずすわけにはいかなかった。むしろ、新たに利休を加えざるを得なかった結果からすると本能寺事変黒幕の確証を秀長らに握られた形跡さえ感じ取ることができるのである。
 仮説で恐縮ながら……。
 本能寺の変の真相にうすうす感づいたお寧と秀長は、秀吉の狂気と才智をますます警戒して信長亡きあとの善後策を検討し始めた。場合によっては義絶もあり得るという究極のところまでいったとしたら、秀吉はどうするだろうか。
 あるいはまた、信長が本能寺の露と消えてしまった今、秀吉をよく掣肘するためには、その人に代わる人が必要である。
 それはだれだろうか。
 徳川家康であり、この人以外には存在しなかった。
 秀長にとって家康は信長に代わる唯一で大事な人だったのである。しかし、まだ仮説の域を出ない。

(つづく)




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