自分で手を下そうとしたのでは駄目なんだ


秀吉が松永久秀の乱に乗じて画策した結果、二つの教訓を得たことについても触れないわけにいかないだろう。一つは秀長は「異心同体」だから信長暗殺の謀議には加えられないということ、秀長は対信長の保険である代わりに、信長にとっては対秀吉の保険でもあったからである。



「外向きのことは秀長が決め、内向きのことは千利休と於寧が決めよ」



豊臣家にはこのような申し合わせがあったと伝えられている。



小田原合戦ののち大和大納言秀長の病没直後に突発した千利休の切腹はこの申し合わせが直接間接に関係しているわけであるが、この問題は小田原合戦をテーマに取り上げる講座で述べたほうが効果的と思う。



羽柴氏時代の秀吉は掣肘されたのか、掣肘されたとしたらどのように行われたのか。秀吉の自由を掣肘するためお寧を妻に迎えさせ、秀長を補佐につけ、前将、蜂須賀小六らを帷幄としてつけ、そのうえ竹中半兵衛重治にまで監察させたのが信長だとすると、本能寺事変は秀吉が自由を得るための策謀の第一弾であったことになる。秀吉の自由を掣肘する側からすれば本能寺の変は痛恨の失策であった。



教訓の二つ目は、のちに明智光秀を下手人に仕立て上げたように、「自分で手を下そうとしたんでは駄目なんだ」と翻然と悟ったことであろう。秀吉に目をつけられた光秀の不運というか悲劇は松永久秀の乱に起因していたとみてよいだろう。



秀吉が秀吉として行動するのを掣肘するための豊臣家の申し合わせが意味するところは、秀吉はみずからの一存で軍勢を動かせなくなってしまったことである。秀長の目が光っていることが最大の原因であったはずであるが、このことも秀吉が自分で信長に手を下せない要因の一つであった。だからこそ、秀吉は竹中半兵衛を遠ざけ、代わって黒田官兵衛を用いたり、まだ幼い宇喜多秀家を籠絡して宇喜多勢を親衛隊に用いようとするなどの画策に余念がなかったのである。



松永久秀の乱のときの羽柴家の内情をこのように理解し人物設定をしないと『太閤記』はトータルな面で成立しなくなってしまう。大方の読者には本講座が述べることはまだ眉唾物であろう。一プラス一イコール四どころか十にも感じられるはずである。これからそれを「やはり数式は一プラス一で、答えもきちんと二だった」と納得できるように仕向けていく必要がある。そこで「逆も真なるか」式にここで述べたような設定をしないとどうなるか、答えというか明快な実例があるので、逐次、実例を挙げ、そこから切り込んでいくことにしよう。

(つづく)




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